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源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

内大臣の意地 源氏物語たより697 

源氏物語

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     内大臣の意地   源氏物語たより697

  内大臣は、娘の雲居雁が夕霧と恋仲になっていることを知るや、それを許そうとはせず、自邸に連れ帰ってしまう。なぜこんな強硬な手段を取ったのだろうか。彼は、今まで雲居雁についてはほとんど無関心であった。彼の関心事は長女・弘徽殿女御の立后であった。このようなわけで、『乙女』の巻までは、雲居雁の存在は無だったのである。
  そもそも雲居雁とはどういう人物であるのか。彼女の母は、内大臣の妻妾の一人であったが、彼の通いが絶えてしまったからであろう、離婚して別の男と結婚していた。雲居雁も通常なら母に従っていくところであったのだが、相手方には子供が多いということで、残された。内大臣にとってはいわば継子みたいなものである。そのために母・大宮のもとに預けてしまい、夕霧とともに育てさせる。彼女のことは大宮に任せっぱなしということであった。

  それにもかかわらず、このように強硬な態度を取るとは、一体どういうことであろうか。
  一つは、この話を母・大宮の女房から聞いたことにも拠ろう。大宮を尋ねた帰り、彼の召人(めしうど)であろう一人の女房のところに忍びこもうとした時に、何人かの女房たちが彼の噂話をしているのを偶然立ち聞きしてしまった。その噂話とはこんな内容である。  
  「大臣などと言って賢がっているけれども、やっぱり親馬鹿の一人に過ぎないわ」
  「娘の恋については何も知らずにいるんだから。こんなことでは厄介なことでも起こるかも知れないわよ」
  『「子を知るは」といふはそらごとなめり』
  最後の女房の言葉の意味は、
  「『子を知るは親に如かず』とは昔から言われているけれども、あれはどうも空言のようですね」
である。この件については全く無知であった彼は、女房たちに完全に愚弄されていたというわけである。女房にもバカにされるほど不面目なことはない。これは何とかしなければならぬと思った結果、二人を割くことで自分の面目を若干でも挽回できると思ったのかもしれない。

  彼は自邸への帰りの車の中で、二人の恋愛・結婚についてつらつらと考える。それを端的にまとめると次のようになる。
  1 二人が結婚することは、決して悪いことでも残念なことでもない。
  2 ただ、同じ邸で育った従弟姉同士という珍しくもない関係で、このまま結婚に進んでしまうのでは、世の中の人も「なーんだ、随分ありふれた結婚ではないか」と思うだろう。
  3 それにしても光源氏が元斎宮(六条御息所の娘)を推したてて中宮にしてしまい、自分の娘の弘徽殿女御が中宮争いに負けてしまったことはなんとも気に食わない。
  4 雲居雁を春宮に入れれば、ひょっとすると中宮の位も考えられないことではなかったのに、二人が結婚するとなればその望みもなくなってしまう。何とも癪なことだ。

  さて、彼のこの内心のつぶやきについて検証してみよう。
  1で言っているように、彼は基本的には二人の結婚を「全くの問題外と」と否定しているわけではない。
  2は、それがいけないのは、二人が同じ邸に育った従弟姉ということである。このことについては当時の事情がよく分からないので、従弟姉の結婚が見映えのしないことであるのかどうか詳しくは言及できないが、どうも二人を引き離すための言い訳に過ぎないような気がする。
  4の「春宮入内」の話しは意外なことである。彼がこの時に急に思いついたこととしか考えられない。今まで彼女を大宮に預けっぱなしだったのだし、それに雲居雁は既に十五歳で、東宮とは歳の差がありすぎる(七、八歳年上)。しかも春宮にはいかに彼が尻捲りしても勝てるはずのない強烈な対抗馬がいる。源氏の実の子・明石姫君である。また雲居雁は内大臣の北の方の子ではないのだし、これらを総合すれば、彼女を春宮に入れようなどと真剣に考えていたとは到底思えない。

  やはり3にこそ彼の本音があると言える。源氏に対する勃然たる対抗意識である。『絵合』の巻で二人は冷泉帝の中宮位を激しく争った。結果的には源氏の養女である元斎宮がその位に就いてしまった。このことへの彼の憤懣は格別なものがあった。藤原氏としての自尊心をいたく傷つけられたのだ。
  このことについて次のように語られている。
  『とのの御仲の大方には昔も今もいと良くおはしながら、かやうの方にては、挑み聞こえ給ひし名残も思し出でて、心憂ければ寝ざめがちにて明かし給ふ』
  「とのの御仲」とは、源氏と内大臣の仲ということである。二人の関係は確かに昔からおおむね良好な関係にあった。「雨夜の品定め」における二人の様子などを見れば、若い時は、こよなき親友で遊びごとも争いごともいつも一緒であった。ただ、内大臣は何をやっても源氏には負け続けていたのだが。
  「かやうの方」とは「中宮争い」のことで、この面での内大臣の源氏に対する挑み心は尋常ではなかったが、結果的には源氏に屈辱的な辛酸を舐めさせられてしまった。女房たちによる愚弄どころではない。何しろ中宮争いは藤原氏一門にかかわる問題であり、権力維持に関わる重大事である。それを思うと辛くて「寝ざめがちにて明かし給ふ」のも必然というものである。
  どこかでこの仇を返さなければならない。彼の心中にはその思いが鬱勃としていた。それが夕霧と雲居雁との結婚反対という形で表れてしまったのだ。夕霧にすれば随分の割を食ってしまったということになる。
  この後、彼は大宮の所に行って、
  「何故しっかりと育ててくれなかったのか」
などと醜い母子の争いを展開することになる。ただこの時でさえ、夕霧の人となりを
「夕霧は天下に並ぶものなき学識者である」
と評価しているのだし、内心では二人の結婚を「悪しきことにもあらねど」と思っているのである。
  ところが、それを素直に認めることはできなかった。源氏憎しの思いと挑み心と意地とが彼を頑なにしてしまったのだ。こうして夕霧と雲居雁は仲を割かれたまま五年が過ぎる。 

  五年後、『藤裏葉』の巻で、内大臣は二人の結婚を認めることとなる。しかし、素直に「結婚を承知」というもの間が抜けている。そこで何かのついでがないかと待ち受けていたところ、庭に藤が見事に咲いている。これを口実にしようと、彼はついに夕霧を藤の宴に誘う。源氏への挑み心がなくなったわけではないが、夕霧の人柄とその親の身分を考慮すれば、この上ない理想的な結婚であることに間違いはない。これはまた別の意味での家門隆盛にも繋がっていく。
  この時の彼の夕霧に媚びるおどおどは見ていて哀れでもあるし、滑稽でもある。またこの時の源氏の得意と夕霧の御満悦もまた見物である。

  夕霧の悲恋については次回に触れよう。
 

 



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理不尽な人の性  源氏物語たより696 

源氏物語

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     理不尽な人の性   源氏物語たより966

  前回(「たより695」)、どんなに理想的でこよなく愛する妻がいたとしても、男というものは別の女を求めるものだ、という人間の不条理な性(さが)について触れた。
  と、まさにその日、パソコンをいじっていたら、脳科学者・中野信子の『不倫』(文春新書)という本が紹介されていた。作者については、最近よくテレビに出てくるので知っていた。理知的でいてしかも明るい魅力的な女性である。この本の内容が、私の論旨に関わるものなので、彼女と何か不思議な縁で結ばれているように感じた。

  そこに紹介されていた『不倫』の概要は次のようにまとめることが出来そうである。

  人間の脳は一夫一婦制に向いているわけではない。だから不倫を「淫乱」「倫理観の欠如」などと安直に断罪することは本質を見誤らせる元凶となる。元々それは遺伝子、脳内物質に操られているだけなのである。激しいパッシングがあろうがパートナの怒りや悲嘆があろうが、あるいはさまざまなリスクを伴おうがお構いなしに不倫は起こる。不倫がなくなる日はいつまでもやって来ない。当事者の全人格を否定するようなパッシングは何かもの悲しい狂態に見えてくる。
  しかし、不倫は共同体の破壊につながることも確かで、それをパッシングすることは「正義の行為」と認めないわけにもいかない。しかも人間にはパッシングすることに快楽を感じるという脳の仕組みもあるので、これがなくなる日もやはりいつまでもやって来ない。

  本文を読んでもいないのに、批判を加えることには無理があるが、
  「でも、それだけだろうか。何か抜けているのではなかろうか」
という疑問は残る。

  光源氏がさまざまな女性を遍歴するのは、少なくとも「性行為」が目的ではない。それが目的であるならば、彼の周囲には数知れないほどの女がいる。だから、あえて難しい恋に明け暮れなくても済む。「召し人」などという芳しくない名の女房もいる。彼女らは源氏の性のはけ口のためにあると言っても過言ではない(もちろんそれだけではなく、源氏が好きになるだけの魅力を持っていた女房であるからでもあるが)。
  それに、そもそも源氏の誘いを否むような女などはいないのだから、源氏にとって性はフリーパスである。 

  「たより695」で述べたことを簡単に言えば、人間には「飽き」という制御しにくい心が存在するということで、たとえどんなに魅力的な妻があろうとも、長い年月生活を共にしていれば「飽きが来る」のは人の世の常である。村上天皇の女御である徽子王女が、天皇が「しばらくの間あなたとは会えないからね」と言った時に、
  「あまりに馴れすぎてしまうと新鮮さがなくなってしまうので、間をおこうとおっしゃるわけですね」
という歌で応えたのだが、まさに「馴れること」の本質を突いている。
  この場面では「馴れ=飽き」の例として、さらにもう一つの歌を引いて人間の本質に迫ろうとしている。
  「須磨の海士が塩を焼く時に着る衣は、毎日毎日着ているために塩でくたくたになってすっかり見る影もなくなってしまうもの。そのように、毎日馴れ親しんでいると新鮮さを失って見栄えがしなくなってしまうから、だんだんと相手を疎む感情が勝って来てしまう。  伊行釈」
という内容の歌である。
  「馴れると飽きが来る、飽きが来ればそれにつれて相手への疎ましさが増してくる」ということも事実である。
  古歌には「秋」が「飽き」に掛けられているものが数多い。「飽き=秋」は、掛詞の中でも最も代表的な一つである。源氏物語でも、源氏が女三宮と結婚した時に、紫上がこんな歌を詠って悲しみの情を吐露している。
  『身に近く秋や来ぬらむ 見るままに 青葉の山も移ろひにけり』
  (私の身にも源氏さまの飽き(秋)が来たらしい。見ている前で青葉だった山の色が変わって行くように)
  源氏と結婚して二十二年目のことである。年月は、さしも似合いの二人の間に飽きをもたらしたようである。しかし、源氏に飽きが来たわけではない。彼は相変わらず紫上をこよなく愛しているし信頼し尊敬すらしている。それでも若い(十四、五歳)女三宮と結婚しようとする。これは一体どういう仕組みなのだろうか。単に遺伝子や脳内物質ということで済まされることであろうか。

  かつて、源氏には正式な妻(葵上)がいた。それでも彼は空蝉と契り夕顔を求め六条御息所と浮名を流した。そればかりか父の寵姫である藤壺宮と不貞まで働いているのである。ただ、葵上との結婚は、源氏の意思で決まったものではなく、親同士が決めたもので、それに対する不満もあったろうし、源氏は、彼女を好いてはいなかった。このような状況では、彼が他の女に愛情を求めたのも分かる気がする。
  しかし、紫上という理想的な伴侶が出来てからは、その理由は通らない。それでも入内間近い朧月夜や元斎院の朝顔との恋を止めようとはしなかった。これは一体どういうことであろうか。

  そこには単に「飽き」だけでは済まされないものが潜んでいるのではという気がしてならない。それはもう恋を超越した行為というしかない。
  人間には常に新しいものを求めて止まないという欲望がある。それは一種の冒険である。冒険である以上、どんなリスクが伴うかわからない。藤壺宮への恋などはまさにそれに当たる。なぜあれほど道理に外れた行為に走ったのか。
  非常に卑近な例ではあるが、旅行をするなどという行為も、本来不倫に類似した行為と言えるのではなかろう。家にいれば金もかからないし、何の気も使わずにいられるのに、切符を買い宿を予約し汽車に乗り坂道や階段を上るなどの苦労をわざわざ背負い込む。
  なぜそんな煩わしいことをするのかと言えば、そこに新鮮な世界が待ち受けているからである。未知なものに触れるわくわく感がそこにはあるから、そのためには多少のリスクなどは問題にならない。旅では、変化のない日常生活では得られない目新しい世界が展開される。
  浮気も同じことである。そこには何か今までにない世界があるのではないかという、痺れるような期待感がある。浮気は、「どこでもドア」ではないけれども、新しい世界に通じる扉を開く行為といえる。
  案の定、浮気によって、今までの馴れ淀んだ生活では経験できなかっためくるめくドラマが展開される。そしてそういう体験が物語を生んでいく。歌も詩もできてくる。浮気は夢物語を実現するものである。浮気を完全に否定してしまったら、この世に勝れた文学などは存在しなくなってしまう。
  「曇りガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか ・・・(さざんかの宿)」
の緊張感はどうだ。不倫の二人に明日などはない。ひたすら痺れるような新鮮な世界に身を委ねていればいいのだ。
  「隠しきれない移り香が いつかあなたに浸みついた 誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか・・  (天城越え)」
  もう聞いているだけでくらくらしてしまう。こういう冒険に身を任せる快楽こそ、生きる醍醐味と言えないだろうか。これは他の動物にはないことである。

  もう一つの理由に「隣の芝は青い」の心理がある。妻に飽きたわけでもないのに隣の奥さんはよく見える。万葉集にとんでもない歌がある。
  『人妻と何(あぜ)かそを言はむ しからばか 隣の衣(きぬ)を借りて着なはも』
  (人妻だからって何をぐたぐた言うのさ。それならあなた、隣の衣を借りたこともないとでも言うの)
  もう完全な居直りであり屁理屈である。人妻と衣は違うでしょ。でも隣の芝生はよく見えるのだから仕方がない。
  もっともこんな歌もあるが。
  『難波人 葦火焚く屋のすしてあれど 己が妻こそ常(つね)めづらしき』
  (難波に住む者はよく葦を焚くものだから、家の中がすっかり煤けてしまう。それと同じように我が妻は今ではすっかり煤け年老いてしまったが、それでも妻ほど見飽きず可愛いものはない)
  こんな気長の平凡で冒険心のない男がいることも事実である。しかし、多くは煤けた妻よりも隣の芝生は綺麗に見えるはずである。
  要するに浮気を成立させる要素は実に複雑であり雑多であるということである。それを他の動物と同じように、中野信子氏が、遺伝子や脳内物質のせいにしてしまっているのだとすれは、もんだいであるし、そもそもあまりに味気ない。

  いずれにしても「不倫」をじっくり読んでみよう。

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変化を求めるという理不尽な人の性  源氏物語たより695 

源氏物語

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     変化を求めるという理不尽な人の性 源氏物語たより695

  人間の性(さが)というものは全く不可解なもので、これで満足ということを知らない。光源氏の心は、今はもっぱら朝顔にある。そのために内裏勤めが多く、紫上とは距離を置きがちである。こよなく愛する紫上がいて、彼女のことを理想的な女性であると思っているのだし、人にも紫上本人にもそのように言いもしているのに、それでも満足するということがない。
 
  ある雪がうち散る十一月のたそがれ時、源氏は朝顔を尋ねようとして、いかにも人の心を惹きつけるような着慣れた衣を着、香をこれ以上ないというほどに焚きしめ、心をこめて化粧に日がな一日専念していた。
  さすがに、紫上に何も言わないで出かけるわけにもいかないので、例の嘘を言う。
  『女五の宮の悩ましくし給ふなるを。とぶらひ聞こえになむ』
  女五の宮とは、朝顔の叔母のことで一緒の邸に住んでいる。随分の御歳ではあるがぴんぴんして。
  この事態は紫上にとってはなんとも忌々しいことで、つい不満顔になってしまう。でもそんな感情を露骨に出すわけにもいかず、明石姫君の扱いに紛らわして、源氏の方には目もくれない。そんな彼女の拗ねた姿を見た源氏は、
  「最近、随分様子がおかしいですね。私にはあなたにそんなに憎まれ疎まれるような罪もないというのに」
と事実とはほど遠いことを言いつつ、こんなことを言う。
  『塩焼き衣のあまり目馴れ、見だて(見映え)なくおぼさるるにや、とて途絶え置くを。またいかが(邪推される)』

  この言葉の本になっているのが次の二つの歌である。
  『須磨の海士の塩焼き衣馴れ行けば 疎くのみこそなりまさりけれ   伊行釈』
  (須磨の海士が塩を焼く時の衣が着慣れたためにすっかり見る影(見映え)もなくなってしまうように、あなたは見慣れた私のことを疎ましくばかり思うようになるのですね)  
  『馴れゆくはうき世なればや 須磨の海士の塩焼き衣間遠なるらむ  徽子王女』
  後者の歌は、村上天皇の女御である徽子(きし)女王が、天皇から「しばらく会わないからね」と言われた時に、冗談にか皮肉にかあるいは拗ねてか詠ったものか、意味は
  「馴れるにしたがって飽きが来るというのが世の常ですから、飽きないようにと私をお召しになる間をお開けになるのですね。丁度須磨の海士の塩焼き衣の織り目が粗いように・・」
である。

  それではこの二つの歌を踏まえた源氏の言葉はどのように解釈したらよいだろうか。
  「あの須磨の海士が塩を焼く時の衣が、着慣れたために見る影もなくなってしまうように、あなたにあまりに馴れ親しみ過ぎると見映えがなくなってしまうものですから、私はあえてあなたとの距離を保っているというのに(内裏勤めを多くしているというのに)。あなたはまたどんな邪推をしていられることやら」
  「私はあなたに飽きられないように、敢えてあなたとの距離を置くようにしているのですよ。それなのにあなたは・・」という源氏の身勝手な嘘であり得意な詭弁である。

  しかしここには人間のどうにもならない不条理な性というものが描き出されていて、単に源氏の身勝手とばかりは言い切れない真理が込められている。どんなに熱愛の結果結婚したとしても、馴れ親しんでいるうちに互いに新鮮さがなくなって来て飽きが忍び寄って来るものである。それは誰もが経験するまぎれもないことであり、誰もが止めることが出来ない事実である。「結婚は恋愛の墓場である」というのは誰が言ったものであろうか、人間のどうにも避けることのできない真実を見事に言い当てている。
  また「結婚するなら二番目に好きな人とせよ」と言った人もある。これもある意味確かなる真理である。一緒になればどうせ熱は冷めて来るのだし、年月とともに相手の粗も見えてきて新鮮さ(見映え)も失われていく。一番好きな人の粗は見たくないもの。それには離れて暮らすに限る。遠く離れてやるせない思いで恋い偲んでいれば、相手への愛の心も新鮮な感覚も薄らぐことはない。

  以前クラス会の時に、「家庭内別居」を話題にしたことがある。17,8人の参加者のうち、意外に多くの者が家庭内別居をしていることが分かった。「生活のサイクルが違う」などの理由が多かった気がするが、中には「鼾や歯ぎしりがうるさい」というような誠に現実的な理由を上げる者もいた。結婚前は、あばたも笑窪だったはずなのに。
  家庭内別居は、徽子王女の
  『馴れゆくはうき世なればや 須磨の海士の塩焼き衣間遠なるらむ』
の心を実現したものであるようだ。
  それでは、男が妻から飽きられないようにするにはどうしたらいいのだろうか。会社からの帰りを遅くするとか出張を多くするなども一つの方法であろう。しかしそうしばしばしていれば、妻に虫がついてしまう。身だしなみをきちっとすることなども、有効かもしれない。光源氏が香を焚き染めたり心ことに化粧に専念したりしたように。鼻毛など無頓着にしていれば即飽きに繋がってしまう。女も同じことである。とにかく夫婦の間にいつも緊張感が保たれていることが大切であろう。

  しかし、人間というものに変化(新鮮さ)を好むという性がある以上、いかにしても移り気を止めることはできない。またそれが本人のみならず、傍観者も心ときめきして面白いのだから、「浮気は諦めるが一番」と言うしかない。
  さて、紫上やお付きの女房たちは、源氏の浮気をどう思ったのだろうか。

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男たちの奮闘  源氏物語たより694 

源氏物語

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     男たちの奮闘    源氏物語たより694

  電車に乗ると、女性を好き放題に見ることが出来る。あれほどの見ものを一銭の賂(まいない)もなしに見ることが出来るとはなんと幸せなことだろう。電車に乗ると私の視線はまずは女性の顔に行く。目から鼻へ、そして口元、頬、顎などと這って行く。最近気になっているのがつけまつげである。やたらに長く黒々と鋭く尖っていて、あれでは自分の眼を刺してしまうのではないだろうかと心配しながら見ている。
  ここまで仔細に狼藉至極なことをしていても、誰からも咎められるということはない。

  ところが、平安時代の貴族の男たちは、女性の顔を直に見ることはできなかった。それが出来るのは、男、女が特別な関係、つまり夫婦関係にある場合だけである。親でも容易に嫁の顔を見ることはできなかった。

  結婚までの経過をたどれば概ね次のようになろうか。
  まずは「どこそこの姫様は・・」などという噂などによって女を知ることになる。そのために姫君お付きの女房たちは、栄養剤のコマーシャルのように姫様の誇大広告に精を出す。これでは顔も見ていないのだし、女の本性など捉えることはできない。
  それでも女房などを通じて消息のやり取りなどができるようになれば、その内容が女の教養や趣味や人となりを知る手掛かりになる。縁あって、男が女の家に行けるようになったとしても、始めは簀子(すのこ)に上げられるのがせいぜいである。
  さらに話が進めば、やっと廂(ひさし)の間に通される。しかし女と直接会話を交わすことなどはできない。女は母屋にいて、女房を介して会話するだけで、女房は天皇の言葉を伝える「宣旨」代わりである。
  その上、廂と母屋の間には御簾が掛かって、さらにその向こうには几帳があって女はその几帳の後ろに座っているのだから、顔など見えようがない。御簾だけだったらほのかにではあるが相手の姿を見ることが出来るのだが。
  一方、不公平にもこの時、部屋の中では、御簾越し・几帳越しに女や女房たちは男の品定めをしている。御簾を透かしてあるいは几帳のほころびから男を覗いて観察している場面が物語などによく出てくる。男のいる廂は明るいし母屋は暗いからそれが可能なのである。

  結婚の話が進んで女の家に通うようになったとしても、また閨を共にしたとしても相手の素顔を見ることはなかった。真っ暗闇での物言わぬ行為だったということだろうか(まさかそんなこともあるまいが)。
  通常、女の家に通い始めて三日目の夜、「露顕 (ところあらわし)」と言って、親族等を招いて婿殿のお披露目が行われる。これをもって正式に結婚が成立し、初めて婿殿の顔を見るのである(女はもその席には出ない)。
  「露顕」の「露」は、露見とか暴露などと使われるように、明確でなかった物・ことが「はっきりする、あらわになる」という意味で、婿殿を親族などにはっきりさせるという意味からきた言葉なのであろう。とにかくこの段階でも男、女は相互に顔を見ることはない。ただその後のことは二人に任されるのであろうから、初めて女の顔を見た時にどのようなドラマが待っているのかは私には分からない。

  光源氏も、末摘花のところに通うようになったが、彼女の顔を直に見るのはずっと後のことである。ある雪の朝、末摘花を明るい廂の間に導いて初めて彼女の容姿を見たのである。ところがその容姿は前代未聞のもので、驚嘆すべきドラマが繰り広げられる。
  『落窪物語』にもこのことに関する面白い話が登場してくる。この物語の主人公を「落窪姫」という。母を亡くしたこともあって、今では父・中納言の北の方である継母のところに身を寄せている。姫君はこの継母にあらん限りのいじめを受ける、いわゆる「継子いじめ」の典型的物語である。
  後にこの姫君と結婚した少将は、何とかして妻(姫君)の積年の恨みを晴らすべく、さまざまな謀(はかりごと)をする。その一つが継母の未婚の娘・四の君への意地悪い仕打ちであった。少将は
  「自分が四の君の婿になる」
と偽って別の男を身代りに立ててしまう。ところが、この身代わりがうすのろであるばかりか、格別の醜男(ぶおとこ)で、「おもしろの駒」と渾名されていて、皆の笑いものになっていた。少将の「身代わり」というよりも、まさに「当て馬」になったと言った方がいいかもしれない。とにかく、
  『色は雪の白さにて、首いと長うて、顔つきただ駒のやうに、鼻いららぎたること限りなし』
というお面相だったのである。「いららぐ」の意味は今ではよく分からないが、恐らく馬のように鼻が上を向いていてふうふう荒い息をする状態を言うのであろう。
  さて、四の君の所に通うようになって三日目の夜、恒例の「露顕」が催される。四の君の親たちはこの時初めて婿殿の顔を見た。なにしろ
  『火(灯火)のいとあかき』
下で見たのだから、全てが露骨に見えてしまった。親たちの驚き騒ぐさまは想像するだにあはれである。同席した連中も「あ、あのおもしろの駒だ!」、ということで大笑いになる。これで少将の報復の一つは叶ったことになるが、罪のない四の君になんというあざとい仕打ちをするのだろう。
  この場面を読むと、源氏物語の『末摘花』の巻はここから取ったのではないかといつも思ってしまう。ともに虐めが徹底していてその虐めが何とも凄まじくあざといからである。
  それにしても光源氏は、末摘花と幾夜かを同衾しているのだから、鼻が異常に長いことや、痩せ痩せであることがなぜ分からなかったのか、また落窪物語の四の君も二晩も閨を共にしているのだから、おもしろの駒の鼻息くらい分かったはずだ。どうもこれは不審なことで、平安時代の風俗にかかわる七不思議と言ってもよい。

  当時はこのような厳しい条件下にあったので、男が女に会うことやまして顔を見ることは極めて難しいことであった。
  それでは男はどのようにして女を結婚相手に相応しい人などと決めたのだろうか。
  まず彼らは、女の邸に招かれた時に、部屋の調度や飾り付けの具合などを品定めした。センスあるものであるか、男を迎えるに十分な配慮がなされているかなど、彼らの視線は動き回る。しかし、視覚で判断する点は限られている。そこで彼らは他の感覚を総動員する。香の塩梅はどうか、姫のいる母屋の中のけはいや姫の身動きや息吹、あるいは衣擦れの音などが聞こえぬか、と鼻を耳を肌をフル回転させる。

  光源氏の異母兄弟である蛍兵部卿宮は、玉鬘に恋をし、色好い返事(源氏が無理に書かせたものだが)がきたので、早速六条院に出かけていく。まず彼を感心させたのは香であった。
  『いと深く薫りみちて、かねて思ひしよりもをかしき(玉鬘の)御けはひを心留め給ひけり』
  香は誠に理想的な匂いを漂わせているではないか。この点だけでも自分を心からもてなそうとする気配が汲み取れる、と玉鬘を評価するとともに、「これは脈あり」と判断するのである。もっともこの香も源氏の宮の本性を暴いてやろうと言う企みで彼が心を込めて焚きだしたもので、玉鬘が宮に心を寄せていてそうしたわけではない。

  宮の場合はそればかりでなかった。源氏の宮を試そうとする目論見によって、彼女の姿を見ることまで出来てしまったのである。玉鬘が引っ込み思案になって母屋に隠れていたので、源氏は、妻戸口にいる宮の近くの東廂の几帳のところに彼女を導き出す。その時に、彼は几帳の帷子(カーテン)をさっと揚げた。と、
  『さと光もの(あり)。紙燭(しそく 灯火)をさし出でたるか』
と思われるほどに玉鬘のいるところが明るくなった。なんと帷子に包み隠しておいた蛍を大量に飛び出させたのである。そのために
  『一間(2,3メートルか)ばかり隔てたる見わたしに、かく覚えなき光のうちほのめくを、をかしと見給ふ』
ことが出来たのである。蛍の光りで「すらりとした女性」が横たわっている姿が見えた。何と優美な容態であることか、それはいつまでも見ていたいと思うほどに、宮の心を突き刺した。
  源氏の仕業とも知らずに、彼は玉鬘を見ることが出来た満足と、まともに受け答えしてくれない玉鬘への一抹の不満とを残しながら、夜深く自邸に帰って行く。
  こんな作りめいたことは通常起こりはしない。それに蛍の光りをいくら集めたとしてもほの暗い所の、しかも2,3メートルも離れたところにいる女性の容態が見えるとは思えない。
 
  この場面も完全に『宇津保物語』を写したものである。宇津保物語の蛍の場面も面白いので触れておこう。宇津保物語の主人公は藤原仲忠で、彼の母は琴の名手であり、世にも稀なる美貌の持ち主で、尚侍として朝廷に仕えている。
  帝は、日ごろから何とかして尚侍の顔を直接見たいものと思っている。ある晩、蛍が帝の前を数匹飛んでいるのを眼にして、
  「そうだこの蛍の光りで見てみることにしよう」
と何匹かを袖に入れる。しかし、あまりに少なくこれでは誠に心もとない。その様子を見ていた仲忠は、帝の意をそれとなく察して、水辺に出て蛍をたくさん集めて来る。それを帝は直衣の袖に包み隠して、
  『尚侍のさぶらひ給ふ几帳の帷子を(一番上の横木に)打ち掛け給ひて、ものなどの給ふに、かの尚侍のほど近きに、この蛍をさし寄せて、・・・さる薄物の御直衣にそこら(たくさん)包まれたれば、(尚侍が)残るところなく見』
えてしまった。帝のその行為を、尚侍は
  「何とも困ったことをなさる」
と笑って「随分情けない姿が見えたことでしょう」と自嘲の歌を詠む。
  情景は、源氏物語とほとんど同じであることが分かる。ただ、宇津保物語の方が帝のあどけなさに愛嬌があって、光源氏のような悪趣味がないので楽しい。

  とにかく帝であっても、尚侍の顔をさえ直接見ることが出来なかったのである。そのために彼らはさまざまな方策を巡らしてなんとしてでも女を直に見ようと奮闘する。その最大の手段が「垣間見」であった。源氏物語にも垣間見の場面は何度も出て来る。
  光源氏は北山で偶然紫上を垣間見る。あの時、源氏はこんな独り言を言っていた。
  『かかればこの好き者どもは、かかるありきをのみして、よくさるまじき人(女)をも見つくるなりけり』
  (私のようにたまの外出でさえ、このような素敵な女性(紫上)を見つけることが出来るのだから、供人の好き者どもがふらふら外歩きばかりして、めったに無いような素晴らしい女をしばしば見つけるというわけなのだな、・・それも垣間見あればこそか、フフ・・)
  『若紫』の巻のこの冒頭部分が、『伊勢物語』の第一段、業平が春日に狩りに出て美しい女姉妹(おんなはらから)を垣間見た話から得ていることはとみに知られている。平安時代の貴族の邸の塀や籬によく穴が開いているのも、好き者どもが便利上開けたものであろう。

  垣間見などしなくても、電車の中でいとも簡単に女性を見ることが出来る現代の我々男は、その幸せを再認識しなければならないだろう。
 

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光源氏の生活信条  源氏物語たより693 

源氏物語

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     光源氏の生活信条   源氏物語たより693


  男踏歌の際、光源氏の嫡男で十五歳の夕霧も歌頭(音頭をとる人)として名を連ねていた。内大臣(かつての頭中将)の息子たちもその中にいた。彼らの歌の技量が
  『そこらにすぐれて、めやすく華やかなり』
と評価されている。「この人たちは、他の誰よりも優れていて見た目も感じ良く華かである」という意味である。
  夜が明け果てたころ、踏歌の連中は源氏から結構なご祝儀(綿)を頂いて内裏へと帰って行く。
  
  その日、源氏は日が高くなってから起き出し、紫上に踏歌の感想を伝える。もちろん息子の夕霧についてである。彼はこう言う。
   『中将(夕霧)の声は、弁の少将(内大臣の子)にをさをさ劣らざめるは』
  内大臣の子供たちはいずれも諸芸に秀でていて、特にこの弁の少将は歌に勝れているという評判をとっていたのであろう。その弁の少将にも夕霧は
  「全く(をさをさ)劣っていない」
と自慢したのである。最後の「は」は、強調の助詞で、源氏の得意(親馬鹿)を如実に表す語として使われている。
  どうも夕霧に対しては実の父親としての愛情が薄いように感じられる源氏だが、この自慢話からすれば、必ずしもそうばかりではないようである。
  彼の自慢話はこう続いて行く。
  「今の世には、不思議なことに学識・技芸などの点で優れた者が排出している。昔の人は漢学などを中心にした才学の点では、確かに現代の者よりも優れた人が多かっただろうが、しかし風流ごととなると現代の人に比べて必ずしも優れているとは言えないのではあるまいか」
  この考え方は源氏の持論で、源氏物語の中に何度か披瀝されている。この物語が舞台となっていた醍醐天皇の御代は、いわゆる国風文化が隆盛の時代で、貴族文化華やかな頃であって、漢学中心の才学は必ずしも大事とはされなくなっていた。男踏歌を見てその思いが確信となり、自分の息子がその一人であることに満足しているのである。

  ここから彼の信条はさらに人のあり方・生き方へと発展していく。
  「夕霧には将来はまっとうな官僚となって欲しいと思い定めていた。そもそも自分自身があまりに風流一点張りであったのだが、夕霧にはそうはなって欲しくなかったからだ。しかし考えてみれば、人間というもの、本当のところはやっぱり風流心を兼ね備えていてもらいたいものだ。いつも取り澄まして生真面目で仕事一方というのでは、どうも付き合いにくい人間ということになってしまう」
  超一流の貴族の嫡男であるにもかかわらず、夕霧を大学に入れたのも漢学を中心とした学問をしっかり身に付けさせ、何事にも対処できるしっかりした官僚にしたいがためであった。夕霧は、源氏のそういう思いに適(かな)い立派な若手官僚として活躍し始めていた。しかし、それがかえってあだとなってしまって、世間から「まめ人」と言われるほどに生真面目一方の人間に成長していた(成長してしまった?)。
  源氏はそんな息子を一面では誇りにし、一面では貴族社会に交じわっていく上で一抹の危惧を感じていたようである。ところが、男踏歌の歌頭として、あの弁の少将にも勝って見えたのだから杞憂であった。案ずるより産むが易しである。

  とにかく人間としての幅は、仕事ができればいいと言うものではない。これは現代にも通じる考えで、頑ななまでに偏屈な仕事人間では官界や企業の世界で使い物にならなし、そもそもそんな男は面白くない。
  特に貴族社会では、管弦も歌も舞も、あるいは書も画もできなければ「あいつは大したもの!」と評価されることはない。源氏はそのすべてに秀でていた。
  これらに加わるに源氏の特技が二つある。一つは「弁舌」であり一つは「好色ごと」である。人を感動させる弁舌、女を口説き落とす力量がないような男では、満足な貴族人とは言えない。このような幅広く深い技量を持って初めて複雑怪奇な貴族社会を生き抜くことが出来のだし、また人にもより良い生き方を示すことができるのである。

  後年、夕霧が柏木の未亡人・落葉宮に激しい恋をして、夫婦別れの岐路にまで足を踏み入れた時に、源氏は
  『いとおとなしうよろづを思ひしづめて、人の誹りどころなく、めやすくて過ごし給ふを、面だたしう、我がいにしへ少しあざればみあだなる名をとり給うし面(おもて)おこしにうれしう思し渡るを・・・・さばかりのことたどらぬにはあらじ。宿世といふもの逃れわびぬる事なり。ともかくも口入るべきことならず』
と理解を示す。意味は
  「夕霧は、大層老成していて沈着冷静。人からとやかく非難されるようなこともなく、立派に今まで過ごしてきた。それを私はおもだたしいこととして誇にしてきたものだ。
  彼に比べたら私は若い時分、婀娜(あだ)っぽく浮ついているという評判をとらないでもなかった。そんな私にとって、夕霧は私の名誉挽回とさえ思え、私にとっては嬉しい息子であるとずっと思ってきた。(この恋にはいろいろな面で問題が起ころうが)夕霧はそんなことが分からぬ男でもないはず。これも宿世であって、宿世ともなれば逃れ難いもの。とにかく私がとやかく口を入れることでもあるまい」
となろうか。
  源氏の度量の広さをうかがうことのできる言葉である。それも彼の若かりし頃に、浮気沙汰や風流韻事の明け暮れがあったればこその至言と言えよう。
  「さばかりのことたどらぬにはあらじ」
  「宿世というもの逃れわびぬることなり」
などはまさに名言である。自分の行為がどのような結果を招くかなどは、ある程度の思慮の持ち主であれば分からぬはずはない。しかし、宿世というものは、その思慮をさえ超える。「宿世から逃れ難い」ことは、源氏が若い時に何度も体験し経験したことである。そうであってこそ「今更夕霧の宿世に口を入れたとしてもどうなることでもない」という言葉が、悟りとゆとりの境地から出て来るのである。

  紫上に語り終わった後、源氏は近くにいる女房たちに向かって、「万春楽(男踏歌の歌曲の一つ)」を気持ちよさそうに口ずさみながら、こう呼びかける。
  『人々、こなたに集い給へるついでに、いかでものの音、こころみてしがな。わたしの後宴あるべし』
  「後宴(ごえん)」とは、内裏で大きな行事などが行われた後に、その行事に関わって慰労などの意味を含めて催す宴のことである。源氏は「内裏で後宴を催すのだから、私的な後宴を催しても悪いということはるまい」と言っているのである。
  彼は早速琴などを引き出して女房とともに「演奏を」と意気込むのだが、恐らく、後に内裏にも負けない大仰な後宴を催すつもりなのであろう。もちろん夕霧の技量をみんなに披露するために。

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