源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

源氏物語たより619 

源氏物語

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     泣かせる光源氏   源氏物語たより619

  葵上の喪に籠っていて左大臣邸から一歩も出ないでいた光源氏だが、そろそろ四十九日の法事も近い。もうここから去らなければならない時期に来ている。そんな状況の時にしかるべき女房だけを集めていろいろ物語をしながら、こう言う。
  「この喪の間は、他のことに紛れることなく皆さんと馴染み親しむことができた。今更言っても詮無い妻の死ではあるけれども、妻が亡くなってしまった以上、なかなか今のように皆さんにお会いし馴れ親しむことはできなくなるであろう。そうなると耐えがたいことも多くなるだろうな」
  左大臣邸の女房たちはみな源氏贔屓ばかりで、彼女らの心の恋人である。源氏の言葉は彼女らの心に辛く耐えがたいものとして突き刺さる。
  『いとどみな泣きて』
次のように言うのだが、最後まで言いきれずにまた忍び泣くのである。
  「葵上さまの死は、心も裂ける程に悲しいことではありますが、それはそれ、宿命でございます。でも私たちにとって一番悲しいことは源氏さまがこのお邸からすっかりお姿を見せなくなってしまうことでございますわ・・」

  とにかく源氏の話し上手は格別で、今までも何人の女を泣かせてきたことであろう。鬼・神さえ源氏の言葉にはほろっとしてしまうほどなのだ。左大臣邸に来ても、妻の葵上とは背き背きの冷たい関係ではあったが、女房の一人ひとりにはここにやって来るたびに笑わせ泣かせしてきたのだろう。特に泣かせのテクニックは抜群で、あたかも歌舞伎の千両役者のようだったのかもしれない。彼の一言は女房たちの心をわしづかみにしてしまう。源氏が一言言えば笑みがこぼれ涙がこぼれるのだ。
  源氏の教養は深く知識も豊かである。それは処々で彼が繰り広げる弁舌によく表れている。音楽、絵画、書、香道、教育、人物評価・・どの分野をとってもいささか饒舌すぎる程に闊達自在である。しかし、教養・知識がいくら豊かであっても人の心をとらえることができるとは限らない。恐らく彼は、話の間や抑揚、あるいは具体の引用などに生得的な才を持っていたのであろう。そんな源氏が、匂うばかりの容貌で愛嬌たっぷりに話すのだから、聴く者は自ずから魅了されてしまう。葵上との関係はうとうとしいばかりに、源氏が左大臣邸を訪れることは少なかったのかもしれないが、彼がやって来るたびに女房たちは笑いそして涙に袖を濡らしていたのだ。
  その源氏が、いくらうとうとしい関係であったとはいえ、葵上が亡くなってしまったのでは、ここへのお出ましは極端に少なくなってしまうことは必定である。女房たちが
  「名残なきさまに(完全に)」
と形容したのはうべなるかなである。それに対して源氏はこう言って彼女たちを安堵させる。
  「「名残なく」はないでしょう。気長に構えている人は私がそんな男でないことはいずれわかってくれるはずですよ」
  しかしこれは単なる慰めに過ぎない。「夕霧」という葵上との間にできた子があるとはいえ左大臣邸を訪れなくなるのは目に見えている。だから源氏の一言に女房たちが涙にくれるのは当然のことである。

  そのうちの一人・中納言の君(源氏の召人)は源氏の態度を
  『あはれなる御心かな』
と思うのである。この場合の「あはれ」は「殊勝」という意味である。また召人とは「傍に召し使う女、侍妾」のことであるが、いわばご主人の愛人であり、性の慰め人である。もちろん妻ではないから身分的には何の保証もなく極めて不安定な立場にあり、男の愛が醒めればそれで終わるしかない。
  中納言の君が源氏のことを「あはれ」と思ったのは、正妻を亡くした源氏なのだから、今は全くのフリーで、今こそ葵上に遠慮することなく自分と情愛深い契りを結んでいいはずなのに、この四十九日の間、一切自分に手を付けようとしない、そんな源氏を「殊勝なこと」と感嘆したのである。
  彼女は、左大臣家の嫡男・頭中将の求愛をけって、たまのお出ましを心待ちにするほど源氏に魅かれていたのだから、源氏が「名残なく」ここにやって来なくなることは身を裂かれるほどに辛い。
  これから五年後、源氏は京を離れ須磨に流謫する身となる。須磨に流れて行くに際して源氏はしかるべきところをこっそり訪ねて回り別れを告げる。左大臣邸をも当然のことながら訪ねていく。ところがなんとこの夜は左大臣邸に泊まってしまったのである。最愛の妻・紫上が二条院にいるのだから、永の別れを前にして少しでも長く一緒にいたいであろう。それなのに左大臣邸に泊まったのは何故か、それは中納言の君との別れを惜しんだからである。そのことを語り手はこう言って皮肉る。
  『これにより泊まり給へるなるべし』
  「これにより」とは中納言の君がいるからということで、この夜の源氏の言葉がまた彼女を泣かせる。
  『また(再び)対面あらむことこそ、思へばいとかたけれ。かかりける世(流謫の身になること)を知らで、心安くもありぬべかりし月ごろを、さしも急がで(あなたとあまり逢わず)へだてしよ』
  今までもっとあなたと気楽に逢うことができた時には安心しきっていて、隔て隔てにしてしまったことが残念、と言うのである。中納言の君はものも言えずにひたすら泣くしかない。

  さて、先ほどの場面で、源氏はもう一人の人物を泣かせている。それは「あてき」と言う童である。左大臣邸で源氏がこよなく可愛がってきた童である。彼女には親はない。それが、女主人(葵上)をも亡くし、今また自分を可愛がってくれていた源氏が去って行く。そのあてきに源氏はこう言う。
  『あてき、今はわれをこそは、思ふべき人なめり』
  「葵上のいない今、私をこそ頼りとすべき人(親)と思いなさい」という意味である。源氏が今後ここにやって来ることは少なくなるであろうが、こう言われれば源氏を頼りにして我慢して待つことができる。あてきは
  『いみじう泣く』
のである。
 
  源氏物語には「泣く」場面が多い。それが嫌だという人もいる程である。しかし「泣く」とはどういうことであろうか。人との別れや死、あるいは不如意な思いや特別・殊勝な情況や愛しい事象などに直面した時に、胸を締め付けられ、しみじみとした感情が思わず涙を誘うのではないか。それがまさに「あはれ」なのである、源氏物語の主題であるこの「あはれ」は、涙とともにあるのだ。だから、源氏物語は「涙の系譜」と言っていいかもしれない。冒頭の『桐壷』の巻は、帝と桐壷更衣の死別の涙に始まっており、最後の『夢の浮橋』の巻は、浮舟のこの世との別れ・母との決別の涙に終わっている。  
  光源氏とは、その涙を宿命的に背負わされた人物なのである。

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源氏物語たより618 

源氏物語

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     『紐ばかりを』   源氏物語たより618

  葵上の正日(しょうにち 四十九日)までの間、頭中将は、光源氏の部屋にしばしば慰めにやって来ていた。時雨が降る今日もやって来た。源氏は
  『しどけなう、うち乱れ給へるさま』
をしていたが、
  『紐ばかりをさしなほし』
なさる。直衣の襟の紐を外すのはくだけている時だけで、正式には許されないことなのである。二人は若い時からこよなき遊び仲間で、管弦や学びの折々にはいつも一緒に連れ立っていた。いわば良き遊び相手であるとともに良きライバルでもあった。そんな関係にある二人でも、くだけた姿で対応しては失礼に当たるのだ。源氏は臣籍に下っているとはいえ天皇の子、頭中将よりもはるかに身分は上である。それでも源氏の方が「襟の紐を指し直し」て応対するのである。現代では考えられないことである。
 
  ところで、この「紐」とは、狩衣、直衣、束帯などの装束の袍の頸の部分についている紐のことで、結び玉にした雄紐と輪にした雌紐があり、正式の場では、この雄紐を雌紐の輪に差し入れて止めておかなければならない。袍の襟は「円領上頸(まるえりうわくび)」で、現代の「詰襟」と言ったところである。学ランの襟を思い出せばよい。学ランが正服の学校では、朝会や卒業式などの時には襟のホックをきちんと止めておく。それと同じようなものと考えればいいだろう。もっとも今ではホックをきちんと止めている生徒などは少ないようで、一番上のボタンさえはずしていて、誠に「しどけない」姿をしている生徒が多いが。

  『常夏』の巻にも、この「紐」が登場する。大層暑い日、源氏の所に若い殿上人が大勢集まって来て、釣殿でお酒を飲みながらの宴が設けられた。彼らは、大騒ぎしながら氷水(ひみづ)を飲んだり水飯を食べたりする。源氏は無礼講であるからと言って、物に寄り臥しリラックスしながら、若い連中にこう言う。
  『宮仕へする若き人々、(この暑さには)耐へがたからむ。帯・紐解かぬほどよ』
  「宮仕えしている若い人々は、こんなに暑い日でも帯や襟の紐を解くことができずに大変なことであるなあ」と同情したのである。恐らく彼らは、太政大臣(源氏)の前であるから、頸の紐も指したままであったのだろう。源氏は続けて
  「せいぜいここだけでも、気楽に寛いでくれたまえ」
と言っているから、彼らは一斉に「紐」を外したのかもしれない。

  政務のために参内する時には、束帯でなければならない。束帯では、一番上に袍を着、その下には半臂(はんぴ)や下襲を着る。さらに腰には石帯を締め飾り太刀を吊るす。これを「朝服」と言うが、想像しただけで汗が出て来る。ただし大臣の公達や三位以上で特に許された者は、直衣でも参内できる。若い連中は当然直衣は許されないから束帯で、いつも襟の紐をきちっとさしておかなければならない。源氏はそういう若い殿上人に対して
  「この暑いのに気の毒なことよなあ」
と同情したというわけである。
 
  現代では宮仕えする人も随分気楽な服装になってしまって、特に「クールビズ」などと言って、夏の間はネクタイをしなくていいばかりか、半そで・開襟という打ち解けた姿をしている。国会議員さんでさえそうしている。しかし、いざ大事な人との面会のための外出ともなれば、どんなに暑い日でもネクタイと背広は欠かせない。その意味ではあまり変わっていないのかもしれないが、束帯の袍は体全体を完全に覆ってしまっているので、いかにも窮屈で暑苦しそうである。背広は襟が大きく開いているので、風通しも良い。京の夏は格別に暑いと言う。あの束帯を着て政務に励んでいる様子を想像すると、それだけで汗が吹き出てくる。
  
  それにしても、袍の襟の雄紐・雌紐という誠に些細な事象に目をつけ、それによって緊張と弛緩という状況を創るりあげる作者の筆法には毎度のことながら感嘆するしかない。ごく日常的なことによって物語に厚みと深みを添え、それに何よりも真実性を生み出しているのだ。

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源氏物語たより617 

源氏物語

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     葵上の死 ~その際の源氏の真情~ 源氏物語たより617

  昨年の暮れに痛めた腰が未だ回復せず、パソコンの前に座るのもつらい。最近少し良くなってきたと思っていたら、今度は膝の具合が悪い。腰をかばって不自然な歩き方をしていたために膝に来てしまったのだろう。年老いるとは悲しい現実である。留めようがないのだから。
  光源氏が、正妻の女三宮を柏木に凌辱(りょうじょく)されたと知った時の、彼の屈辱はいかんともし難いものがあった。准太上天皇としての誇りも名誉も一気に頽(くずお)れ去ってしまったのだ。
  朱雀院の五十の賀の試楽の日、源氏に会わせる顔もなくやつれた様子で六条院にやって来た柏木に向かって、彼は冷徹にこう言い放つ。
  『すぐる齢にそへて、酔ひ泣きこそ留め難きわざなりけれ。衛門の督(柏木のこと)心留めてほほ笑まるる、いと恥づかしや。さりとも(そうはいっても若さは)今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり』
  「老いはえ逃れぬわざなり」は、まさに最近の私の実感そのものである。生・老・病・死、いずれも人にとっては苦の本源で、できることなら自分の身に降りかからないでほしいものだが、「さりとも」避けることはできない悲しい事実である。「生」は、人が産道から生まれ出る時の苦しみだというのだが、私は「生きていること」そのものが苦しみの連続であるというふうに解釈している。その生の中に我々は老・病・死の危機をいつも抱えているのだ。
  この四つの苦しみは、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(求めても手に入らない苦)、五蘊盛苦(ごおんじょうく)の四つと合わせて「八苦」と言われる。これらの苦が一斉にやって来るのが「四苦八苦」である。でもやはり先の四苦こそ、万人の最大の嘆きではなかろうか。まして、源氏のようにいくつになっても若く美しく、栄誉を尽くした人にとっては「老い」ほど怖いものはないであろう。
  ただ、今の私の心境をありのままに言えば、「死」はさほど怖いものではない。死に至るまでの老いと病が怖い。老いと病を経ずにあの世に行けたらと思っている。

  葵上は、夕霧を生む時に亡くなる。まだ二十六歳の若さである。源氏は、彼女と心を割って馴れ親しむ関係にはついになれないままで終わってしまった。彼女が重く患っていた最後の最期に、美しい姿で横たわっている彼女の手を握って、優しい言葉を掛けた時だけが、わずかに二人の間に情の通じ合った時と言っていいだろう。その時の彼女の姿がこう描写されていた。
  『例はいとわづらはしく恥づかしげなる御まみ(目つき)を、いとたゆげに見上げてうちまもり聞こえ給ふに、涙のこぼるるさまを見給ふは、いかがあはれの浅からん』
  「まもる」とはじっと見つめることである。またこの場合の「あはれ」は「情愛」の意を表す。「どうして葵上に対する情愛が薄いことがあろうか、愛しくてならない」と言う意味である。妻の死を直前にした源氏の情である。
  この後、小康を得た葵上は夕霧を出産する。ところが、「これで安心」と油断した源氏や彼女の父・左大臣や兄弟もこぞって参内してしまった時に、葵上は
  『たえ入り給ふ』
てしまうのである。

  彼女の葬儀の帰り、八月二十日余りの有明の空をしみじみと眺めやりながら、源氏は悲しみの歌を詠む。
  『のぼりぬる煙はそれとわかねども なべて雲井のあはれなるかな』
  鳥部野で火葬にされた葵上は、煙となって空に昇って雲となって行った。今その空を見上げても、どれが葵上の雲であるかは、はっきりと見分けることができない。が、あの空井のすべての雲が葵上と思われてきて、愛おしくてならない、と言う意である。
  左大臣邸に帰っても露も眠ることができず、日ごろの葵上の様子を偲び、また彼女に対する今までの自分の対応を深く反省する。
  「いずれは私の本意を分かってくれる時があるだろうと、暢気に構えていたことが、返す返すも悔やまれてならない。いい加減な浮気のことで彼女に辛い思いをさせてしまった、結婚以来、私のことをうとうとしい者、気恥ずかしい存在と終生思わせてしまった」などなど彼の反省は尽きることがない。そして
  「今さらいくら嘆き省みても始まらない。いっそのこと自分が先に逝ってしまえばよかった」
とさえ思うのである。悲痛の限りの反省と言っていい。

  さて、この源氏の反省は本心からのものであろうか。日ごろはあれほど疎々しい夫婦関係で、偶に逢えば冷たい皮肉や刺々しい言葉の交換に終始していたのだ。夕霧が生まれたこと自体奇跡のようなものである。そんな妻に対して「自分の方が先に逝けば・・」などと思えるものであろうか。源氏はとかく言葉が達者で、心にもないことを平然と言い放ったりしてきた。特に女を口説く時などは「鬼神さえ聞き惚れてしまう」ような甘やかな言葉が迸(ほとばし)り出たものである。そんな彼の反省と思うとつい「本心?」と思ってしまうのだが。
  しかし、これ以降、四十九日の喪が果てるまでの源氏の挙措を見ていると、「本心」と言わざるを得ないものがある。彼は、この四十九日間、一歩も左大臣邸を出ていないのである。まして彼の本業のような好色ごとには寸分も心動かすことがなかった。また愛しくてたまらない紫上がいる二条院(自邸)にさえ戻っていないのである。これは単に葵上に対して冷酷であったことに対する反省からではないと思うしかない。
  人は、「死」と言うものに真向かうと本性がむき出しになるもののようである。「四苦」の中でも死はとりわけ人に真情を吐露させる作用を持っている。それは血縁の死に限らない。雪崩で十六歳、十七歳の高校生が八人も亡くなったと言うニュースなどに接すると思わず心が痛み、彼らの親の慟哭に熱いものがこみ上げてくる。それが人の本然の姿だからであろう。まして血縁の場合の嘆きは深い。日ごろはそれほど親しくしていたわけでもなく、あるいは疎い関係であったとしても、同じである。亡き人に対する過去のあれこれが自ずから心に浮かんでくるから、涙が止まらないのだ。「死」とはそういう作用を持つものである。同じ別れでも「生別」は、いずれまた会うことができるという思いがあるから、悲しみは死ほど深くない。
  源氏の場合は、夫婦だというのに、馴れ親しむこともなくつれない関係のまま、死と言う絶対的な状況に陥ってしまったからこそ、思いは複雑になり嘆きは深くなったのだ。

  葵上の四十九日が果てて、源氏が自邸に帰った後、左大臣が彼の部屋に入ってみると次のような二つの歌が残されていた。
  『亡き魂ぞ いとど悲しき 寝し床のあくがれがたき心ならひに』
  (共にした床を離れがたく思うにつけても、亡き人のことがいっそう偲ばれる   新潮社 円地文子訳)
  『君なくて塵つもりぬるとこなつの露うち払ひいく夜寝ぬらむ』
 (あなたのない床に、いく夜涙を払って一人さびしく寝たことだろう  同)
  この歌を見た左大臣と葵上の母・大宮は
  『御声もえ忍びあへ給はず泣い給ふ』
のであった。
  私は、かつてはこの二つの歌を、源氏お得意の、心のもない空言と思っていた。そればかりか、左大臣がやがてこの歌を見るであろうことを計算した源氏の謀りごととさえ思っていた。何しろ二人は「床を共にしたこと」などほとんどないはずだからである。
  しかし、今はそうは思わない。この歌は源氏の本音である。死は人を変えてしまう力を持っている。それは葵上の兄・頭中将さえびっくりしていることでもよく知ることができる。頭中将は、日ごろ源氏が、妹の葵上とは疎い関係であったのに、この四十九日の間の、葵上の死を深く悼む姿を見て
  『あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを』
と驚いている。「いとしもあらぬ」とは、それほど愛し合う関係ではなかったのに、ということで、死は、人の気持ちを変えてしまうほどに強い作用を人に及ぼすのだ。

  しかし、「年月はさかさまにいかぬもの」であるとともに、過去を洗い流すものでもある。年月は、死の悲しみをさえ忘れさせてしまうと言う怖い作用も持っている。もっともそれだからこそ、源氏物語は面白いのであって、源氏がいつまでも葵上の死の悲しみにうちひしがれ、その死に拘泥し続けていたら、朧月夜も出てこないし、明石の君も存在しなくなる。死以上に怖いものは変化する人の心と言えなくはない。

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源氏物語たより616 

源氏物語

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     危篤の葵上に向かって   源氏物語たより616

  葵上は、賀茂祭り見物の際、六条御息所との車争いがあった後、物の怪に取り付かれてひどく患う身となってしまった。そのため光源氏は女の所への忍び歩きもままならず、紫上のいる二条院にさえほんの時にしか行くことができない。
  しかも、折悪しく妊娠と言うことも加わってしまった。結婚以来十年目のことである。普段は仲睦まじい夫婦と言うわけではないけれども、大切な正妻であることに間違いはないのだから、源氏は修法やら何やらとさまざまに取り行わせて、彼女の無事を祈る。
  平安時代には、出産は極めて恐ろしいものであった。出産で命を失った人は多い。例えば、清少納言が仕えた一条天皇の皇后・定子も、三番目の子を出産した時に亡くなっている。時に二十四歳。
  そのために、貴族の邸では安産のための修法が厳粛に大々的に執り行われた。『紫式部日記』には、一条天皇の中宮・彰子が、敦成親王(後の後一条天皇)を出産する時の五壇の修法の様子がこと細かに記されている。
  『我も我もとうち上げたる伴僧の声々、遠く近く聞き渡されたるほど、おどろおどろしく、尊し。観音院の僧正、東の対より二十人の伴僧を引きゐて、御加持まゐり給ふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏みならさるるさへぞ、ことごとのけはいには似ぬ』
という具合である。「おどろおどろしき」修法の声や「とどろとどろに」渡殿の橋を渡ってくる二十人の伴僧の足音を、妊婦はどんな気持ちで聞いていたのだろうか。安産祈願の修法それ自体が、彼女たちにとっては恐怖に満ちていたはずである。

  葵上は、重く患ったまま月日が経っていった。そんなある日、俄かに産気づいた。心配になった源氏は、几帳のそばに寄り、几帳の帷子(かたびら カーテン)を上げて覗き見てみた。すると、そこには日ごろは感じたことのない「可愛らしくあでやかな」葵上が臥しているのであった。
  それにしても葵上はあまりにひどく泣く。ひょっとすると親を残して先立ってしまう親不孝を嘆いているのかもしれない。あるいは自分との別れを悲しんでいるのかもしれないと想像した源氏はこう声を掛ける。
  『何事もいとかう、な思し入れそ。さりとも、けしうはおはせじ。
  いかなりともかならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなん。大臣・宮なども深き契りある中には、行き巡りても、絶えざなれば、あひ見るほどありなんと思せ』

  さて、この源氏の言葉が、現代人にはなかなか理解できないことなのである。前半の
  「何事でもあまり深く思い詰めてはいけませんよ。それにあなたの病状はそれほどひどくはならないでしょうから」
の部分はごく当たり前の励ましの言葉で、特に問題はない。恐らく危篤の病者を前にすれば誰もが口にするであろう言葉である。問題は後半である。
  「たとえどうなろうとも、夫婦はあの世で必ず会うことができるのだし、父大臣や母宮とあなたは、親子という前世からの深い契りがあるのだから、決して縁が絶えるということはありません。生まれ変わり生まれ変わりして、いつか必ず会う機会が巡って来るもの、と思って安心していいのですよ」
という意味であるが、危篤の病者を前にしてこんなことを言うだろうか。「あなたはもうすぐ死ぬだろうから」ということを前提にしているのだから。もしこんなことを言われたら、一気に生きる気力を失ってしまうだろう。現代の我々であれば、決して言うことはないであろう。
  今でこそ、癌は病気の内にも入らなくなったためであろう、医者は、本人にさえはっきりと癌を告知するようになっている。中には当の本人が「私、胃癌の手術をしたのよ」などと恬淡と言いふらしたりする人もいる。しかし、つい先ごろまでは「あなたの病気は癌です」は禁句であり、死を宣告するようなものであった。だから家族にさえ知らせなかったのだ。
いずれにしても死を前提にした言葉掛けなど考えられないことなのだが、源氏の言葉は、妻の病気を真摯に心配するあまりの優しさと情愛に満ちたもので、源氏の得意な空言ではない。
  だからこそ、我々には一層理解できないのである。瀕死の妻に向かって「あの世」の話を真剣にするなどとても考えも及ばないことである。

  風俗や習慣と言うものは、千年の時を隔てると全く違ってしまう。源氏物語が難解であるのは、言葉の障害ばかりではない。家具・調度などの使い方を始め、風俗・習慣など、分からないことが実に多い。いつか早稲田大学の中野幸一先生に「几帳の使い方」について質問したところ、「いや、几帳は分かりませんね」と慨嘆していられた。几帳でさえこの始末である。特にこの宗教がらみの「前世」や「あの世」などの思考は、我々にとってはあまりに遠い存在である。ところが彼らは本当に信じていたのだ。源氏の言葉掛けも本心からのようなのだから、信じられないと言うしかない。

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源氏物語たより615 

源氏物語

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     平安人と自然観照   源氏物語たより615

  野山を歩くのに絶好な季節が今年もやって来た。冬枯れの山野でも落ち葉を踏みしめながら歩くなどはいかにも自然の中にいるという感を味わえるが、それでもやはりこの季節は、さまざまな樹木が芽吹き始め、季節の移り変わりを肌で感じ取ることができて、いい。雑木林の中に、まず初めに芽吹くのがマユミである。その瑞々しい葉は枯れ木の中で顕著に映える。ウグイスカグラも芽吹きが早い。やがてこの木の葉腋には漏斗形をした淡紅色の花が下向きに垂れて咲き、初夏には真っ赤な実となる。

  私は、職を辞してから十年間、神奈川県の公園を歩き回った。その数は72か所に及ぶ。それぞれの公園を「規模」や「起伏」や「景色」や「自然度」など十項目にして評価してみた。ちなみにそのベストテンを上げておこう。
     ① 観音崎(横須賀) ② 真鶴半島(真鶴) ③ 高麗山(大磯、平塚) ④ 衣張山(鎌倉) ⑤ 弘法山(秦野)
     ⑥ 舞岡公園(横浜)   ⑦ 子供自然公園(同) ⑧ 城ケ島(三浦) ⑨ 泉の森(大和)   ⑩ 谷戸山公園(座間)
  観音崎や真鶴半島や城ケ島などは、元々、海あり山あり文化・歴史ありの風光明媚な観光地であるから上げるまでもないが、最近では、ごく身近にある自然豊かな公園に魅かれることが多い。舞岡公園などはあまり知られていないが、特にこの時季には季節の変化を鮮やかに見せてくれる。この公園に「中丸の丘」と言う高台がある。ここから眺めると、クヌギやコナラやミズキなどそれぞれ特色ある新葉が自己を主張し、見事なまでの自然劇を演出してくれる。

  源氏物語にも自然はしばしば描かれる。しかし、その自然は「たより125」などでも述べたように、いわば「心象風景」である。たとえば、宇治の川霧は、薫の晴れない心を映したものであったり、宇治川のあらましい川瀬の音は、浮舟を死へといざなう媒介として描かれたりしている。このように源氏物語では、自然をあるがままに映し観照するということはない。
  光源氏が、野宮に六条御息所を訪ねる時の
  『はるけき野辺を分け入り給ふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風すごく吹きあはせて』
などは、いかにも自然を客観的に描いているようでいて、実は源氏と御息所との心の隔ての「秋 わびしさ」を象徴する自然に過ぎない。また名文として名高い須磨の
  『須磨にはいとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近う聞こえて、またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり』
も源氏の絶望的な心を詠じたものである。
  これは源氏物語が「物語」である以上、当然のことで、自然そのものを客観的に写したり観照したりしても意味がないことである。ここに随筆や日記との違いが出て来る。『紫式部日記』では、その冒頭で、藤原道長の邸の様子を
  『秋のけはいひの立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけしきにも、例の絶えせぬ水の音なむ、夜もすがら聞きまがはさる』
と自然をそのまま客観的に描いている。純粋な嘱目の景である。

  源氏物語の登場人物は、みな自然に対して強い関心とこだわりを持っているが、ただ彼らの自然とのかかわりは、この道長と同じように、「自分の邸に自然を囲い込んで」それを楽しむという姿勢が強い。彼らには自然の中に出て純粋に楽しもうという態度はない。その典型が源氏の六条院であろう。広大は敷地を春、夏、秋、冬の四つの町に分け、それぞれの季節に合った花々や樹木を移し植えている。
  また、「雨夜の品定め」の翌日、源氏が方違え所として選んだ紀伊守の邸もそうだ。中河から水を堰き入れて遣水を涼しく造ったというので、源氏が喜んで行ってみると案の定
  『水の心ばへなど、さるかたにをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽に心とめて(草木を)植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍、しげく飛びまがひて、をかしき程なり』
  蛍まで飛ばすという凝りようである。一介の受領レベルの邸でさえ、ここまで念入りに自然を再現しようとしているのだ。
  明石入道などは、出家の身であり、また明石と言う自然に満ちた地であるにもかかわらず、邸の庭に粋を凝らしている。
『造りなしたる心ばへ、木立・立石・前栽などの有様、えも言はぬ入江の水など、絵に書かば、心の至り少なからむ絵師は、え書き及ぶまじと見ゆ』
  少々技量の足りない絵師では、とても描き切れないほど見事な庭に造り上げてあるという。出家の身には無縁であろうと思う庭の造作に、この上もない瀟洒、風流を尽くすというのだから、いかに自然に対する強いこだわりを持っていたかを知る証左になる。
彼らは閉じられた「邸」という中に自然を再現してそれを楽しんだのだ。外出の容易でなかった姫君や女房たちにとっては、それが自然に触れる貴重な機会であったといえるだろう。

  でも、平安人(万葉人も)はそうした閉じられた空間を出て、野山に出ることをこの上ない楽しみにしていたことも確かである。古今集「春」の部でそのことを見てみよう。まず編者である紀貫之の歌
  『春の野に若菜つまむと来しものを 散りかふ花に道はまどひぬ』
  桜の花が激しく散り乱れるので道に迷ってしまいました、と言う。恐らく彼は道を誤りその夜は野辺に宿を取ったのであろう。もっともこれは万葉集の次の歌を借りているのだが。
  『春の野にすみれつみにと来し我ぞ 野をなつかしみ一夜寝にける』
  次に素性法師の歌
  『おもふどち春の山べにうちむれて そこともいはぬ旅寝してしが』
  「そこともいはぬ」とは、別にどこと決めないでという意味で、どこでもいい、睦まじい連中と群れて野宿できればというのだ。
  もう一つ、古今集の中の伊勢物語の歌から、
  『春日野は今日はな焼きそ 若草のつまも籠れり 我も籠れり』
  「な・・そ」は禁止の言葉で、妻も私も春日の野で遊んでいるのだから、今日だけは野焼きをしないでもらいたい、という意味である。
  古今集には、このように自然とともに、あるいは自然に没入するといった歌が溢れかえっている。
  『枕草子』の九十九段(大系本)なども、清少納言がホトトギスを聞きに何人かの女房とうち連れて、賀茂の奥に行く場面であるが、その時のはしゃいだ様は尋常ではない。外出の楽しさとともに自然を満喫できる期待に溢れている。また223段や232段などにも、自然にすっかり同化している作者の様子がよく描かれている。
  『五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいとあをく見えわたるに上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとただざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などの歩むにはしりあがりたる、いとをかし』(223段)
  『月のいとあかきに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ』(232段)

  『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母や『更級日記』の作者・菅原孝標の娘などが、長谷寺や石山寺などに何度も出かけているのは、宗教的な意味は勿論であるが、外出することで自然に触れられるということも大きな目的ではなかったのか。前者の初瀬に詣でた時の初瀬川の様子を描いた部分を上げて、まとめとしよう。平安人がいかに自然にあこがれ、それを楽しもうとしていたかが分かる。
  『それ(椿市)よりたちて、(長谷寺の方に)行きもて行けば、なでうことなき道も、山深き心地すれば、いとあはれに、水の声も例に過ぎ、霧はまして立ちわたり、木の葉はいろいろに見えたり。水は、石がちなる中より湧きかへりゆく。夕日の射したるさまなどを見るに、涙もとどまらず』
 

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