源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

切ないしののめの別れ 源氏物語たより647 

源氏物語

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     切ないしののめの別れ  源氏物語たより647

  光源氏と朧月夜は、五壇の修法の夜、弘徽殿の殿舎で忍び逢うという大胆不敵な行動を取り、官能の美酒に酔い痴れる。しかしいずれにしても別れの朝はやって来る。こんなにわりない機会をそうそう作り出せるものではない。逢う機会が容易に持てない二人にとって、別れほど辛いことはない。朧月夜は
  「自分が招いたこととはいえ、夜が『明ける』という声を聞くにつけても、袖が涙で濡れて仕方ありません」
と嘆く。それに対して源氏もこう応じる。
  「こんな嘆きを抱きながら、この世を過ごしていかなければならないのだろうか。私の胸は悲しみにふたがれて『明く(晴れる)』こととてありません」
  「後朝(きぬぎぬ)」の別れの典型である。

  「後朝」とは、
  「衣を重ねて共寝した男女が、翌朝、めいめいの着物を着て別れること (広辞苑)」である。したがって、一人寝は「きぬぎぬ」にはならない。「きぬ」である。百人一首の次の歌もそれを詠っている。
  『きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷き一人かも寝ん  藤原良経』
  「さむしろ」は、幅の狭い筵のこと。
  「霜が下りる寒い夜、寒々とした筵を敷いて、しかも自分の衣(ころも)一枚だけを掛けて寝なければならないとは。ああ、あの人との共寝だったらなあ・・」
という男の「片敷き」の侘しい心境を詠ったものである。これとよく似た「きぬぎぬ」を詠った歌をもう一つ上げておこう。
  『さ筵に衣片敷き今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫』(古今集)
  (彼女はただ一人で、自分の着物を寒々とした敷物の上に敷き、今夜も私の訪れを寂しく待っているのだろう、宇治の橋姫は。 詠み人知らず 「日本古典文学全集(小学館)」参照
  愛するあの人は一人寒々として私を待っていることだろう、と男が想像している図であるが、当然男も一人寝ということになる。逢えない事情が何かは分からないが、とにかく一人寝ほど侘しいものはない。

  少々横道に逸れてしまったが、本論に入ろう。同じ古今集に
  『しののめのほがらほがらに明け行けば おのがきぬぎぬなるぞ悲しき』
という歌がある。これは私の好きな歌の一つで、最初の頃は、何かほんのりとした明るい雰囲気を醸していて、声に出して唄っても楽しい歌なので、後朝の悲しみを詠ったものとは思いもしなかった。恐らくそれは「ほがらほがら」という万葉調のおおらかでのびのびとした音調からきていたのだろう。
  ところが、「きぬぎぬ」の意味を正しく理解するようになってから、作者(詠み人知らずではあるが)に対して失礼をしていることに気が付いた。
  先の小学館の「日本古典文学全集」によれば、この歌が
  「男女が逢った翌朝を意味する『きぬぎぬ(後朝)』という言葉の語源(となった歌)」とある。それにしては明るい歌である。
  当時、共寝の時にはそれぞれの衣を相手に掛け合って寝るが、当然、朝になれば男は自分の衣を着て帰らなければならない。つまり「きぬぎぬ」は、朝の到来を示すものであり、別れの辛さ悲しさを象徴するものであった。

  ということは、愛する者たちにとっては「朝などは来なければよいのに」という感情にも繋がっていく。古今集にはこの「きぬぎぬ」の辛さを詠ったものが、634番から645番までなんと十一首もずらりと並んでいる。先の「しののめの」もその一つである。さらにその中の一つ「朝など来るな」を詠ったものを上げてみよう。
  『恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿つけ鳥は鳴かずもあらなむ』
  「逢坂」は「逢う」の掛詞。「木綿つけ鳥」は鶏の別称。「なむ」は願望の助詞。
  「こんなに恋い慕っているのになかなか逢えなかったが、今宵やっと会えた。だから鶏よ、夜明けを急かすように鳴かないでおくれ」
という意味である。なぜかといえば「鶏が鳴くということは朝が来たということになるし、朝が来たということは別れなければならないことになる」からで、恋する者の心情を素直に表していて、なるほどと思わせる歌である。
  『和泉式部日記』には強烈な話が出て来る。彼女を深く愛した敦道親王から後朝の文が届く。そこにはこうあった。
  『「今朝は鳥の音におどろかされ(起こされ)て、にくければ殺しつ」とのたまわせて、鳥の羽に御文つけて
  「殺してもなほあかぬかな にはとりの折ふし知らぬ今朝の一声」』
  凄まじすぎて、恋の情趣も覚めてしまいそうな勢いだ。

  源氏が空蝉と別れる朝にも「鳥」が登場する。源氏は、空蝉と強引に契ってしまうのだが、空蝉の方は夫ある身として源氏に心許すわけにはいかず、終始頑なな姿勢を崩さないでいた。そのうち夜が明けてしまったので、源氏はこんな歌を詠む。
  『つれなきを恨みもはてぬしののめに とりあへぬまでおどろかすらん』
  ここにも掛詞が使われている。「とりあへぬ」が、「何もしないで慌ただしく」と「鳥」が掛けられているのだ。やや難解である。
  「あなたがあまりに冷たくするので、それを恨み切ることもできないうちに、夜が明けてしまった。鶏までが、慌ただしく私に起きなさいと言っているかのように鳴いているではないか」
という意味である。「怨み言」のみならず、まだまだいつまでもいつまでも空蝉と話し込んでいたいのだが、朝はつれない。

  この他にも源氏物語にはしののめの別れの辛さを語っている場面が多い。源氏と藤壺宮、柏木と女三宮など深刻なしののめである。前者を見てみよう。宮との夜も朝を迎えてしまった時の源氏の心境がこう書かれている。
  『何事をかは聞こえ尽くし給はん。くらぶの山に宿りも取らまほしげなれど、あやにくなる短夜にて、あさましうなかなかなり』
  最初の部分は空蝉との別れと同じ内容である。「くらぶの山」とは「暗部山」のことで、いつまでも夜が明けない山という。そういう山に宿りたい気持ちではあるが、あいにくの夏の短夜で、逢ったがためにかえって嘆きは一層深くなってしまった、という意味である。

  六条御息所との朝の別れもあるが、これは今までのニュアンスと一風変わっている。
  源氏は、故春宮の妃・六条御息所を強引に口説き落として、自分のものとしてしまったが、やがて夜離れ(よがれ)が多くなり、二人の間に隙間風が吹くようになる。
  それでも彼女の所に通って行ったある朝、女房に帰りをそそのかされて、源氏はしぶしぶ起きて帰途に就く。御息所は床から起きもせず、頭をもたげて戸外を見ている。源氏も、彼女にはもう関心がないのか、前栽の花々やそこにいる可愛い女童の姿に見とれている。そして送りに出てきた女房を簀子の隅に座らせて
  「このまま別れてしまうのも惜しい美しい姿だな」
などと戯れて、女房の手を握ったりする。
  古今集にこんな歌がある。
  『ながしとも思ひぞはてぬ 昔より逢ふ人からの秋の夜なれば  凡河内躬恒』
  「秋の夜は長いと一般には言われているけれど、必ずしもそうばかりは言いきれないものがある。昔から逢う人によって長くも短くも感じられるものと言われているから」
といういささか皮肉な歌である。しかし、真実でもある。あまり気に入らぬ人と義務的に共寝する夜はどんなに長く感じられることか。
  先の場面で、源氏は御息所との朝を
  『(女房にもうお起きにならないと)いたくそそのかされ給ひて、ねぶたげなる景色に、(別れを)うち嘆きつつ出で給ふを』
とはあるのだが、実際には飽きが来ているようで、後朝の別れの辛さは少しも感じられない。おそらく六条御息所も「あまり気に入らぬ人」の中に入りつつあったのかもしれない。

  同じしののめでも「逢う人から」で、思いはさまざまになる。
  (ちなみに凡河内躬恒は、私の一番好きな古今集の中の作家である)

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掛詞こだわり症候群 源氏物語たより646 

源氏物語

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     掛詞こだわり症候群   源氏物語たより646

  光源氏と朧月夜は二人示し合わせて、こともあろうに五壇の修法が行われている夜に、弘徽殿の殿舎で密会をする。五壇の修法とは、壇を設けて不動明王を中心に五体の明王を据え、国家安穏、天皇の病気平癒、国家・国民の繁栄(増益)、あるいは和合・親睦(敬愛)などを祈願するもので、国家的行事である。当然天皇も参加する。
  朧月夜は、この夜は天皇がそちらに出てしまうので、男と逢うには絶好の機会と判断したのだろう。夫の留守を狙って男に逢う、それだけ考えても、朧月夜は、情熱的積極的で奔放な女性であることが分かる。彼女はおそらく薬師寺の「吉祥天像」のような豊満な官能的な肢体の持ち主であったのだろう。この夜、二人は目くるめく歓喜の時間を堪能し尽くしたはずである。

  しかし、どんなに官能の快楽に酔い痴れた夜といっても、いずれは明ける。案の定、近衛の夜警の官人が時を知らせるべく回ってきて、
  『寅一つ』
と告げている。
  「寅」とは、昔の時刻の名の一つで、午前四時ごろを指す。ただし当時は一刻を二時間としていたから、寅は午前三時から五時までの間を言った。この場合には、その寅に「一つ」が付いている。一刻(二時間)を四つ(三十分刻み)に区切ったからだ。つまり、「寅一つ」は、その最初の、三時から三時半までを言う。
  今でも落語や講談に出て来る「草木も眠る丑三つ時」がそれに当たる。「丑」は午前二時(一時から三時までの二時間)で、その三つということだから、午前二時から二時半までということになる。人はみな寝静まって魑魅(ちみ)妖怪の出没する時間が、「丑三つ時」なのである。

  夜警の官人の声を聞いた朧月夜は、こんな歌を源氏に詠み掛ける。
  『心からかたがた袖を濡らすかな あくと教ふる声につけても』
  「心から」は「人のせいでなく、自分から」ということで、全体の意味は
 「自ら求めたことではありますが、夜が明けるという夜警の声を聞くにつけましても、あれやこれや辛く悲しい恋の思いに涙で袖が濡れて仕方ございません」
となろう。
 
  ところで、この歌には「掛詞」が使われていると言うのだが、見つけ出せるだろうか。答えは「あく」である。この「あく」を、ほとんどの解説書や訳本が「明く」と「飽く」とが掛けられていると解釈している。つまり「夜が明ける」と「あなたが私を飽きる」という意味が掛かっているということであるが、果たしてそうだろうか。
  例えば小学館の「日本の古典」は、訳の最後に
  「あなたがこの私を飽きるというふうに聞えて」
と付け加えているし、岩波文庫の「日本古典文学大系」は、「『明く』に『飽く』を掛けている」とわざわざ注釈している。角川書店の「源氏物語評釈」は全文を上げておこう。
  「『あく』と教えるあの声、夜は明け、あなたはあきていられると教えるあの声を聞くにつけても、自分から選んだ道ながらあれこれ泣かれてなりません」
  このようにすべての解説書が「あく」を、「明く」と「飽く」の掛詞として、何の疑いも持たずに決めかかっているのである。祥伝社の「謹訳源氏物語」(林望訳)などは
  「私の恋心ゆえに、あれこれと物思いして袖を濡らしております。ああやって、夜が明くと教える声をきくにつけましても・・・だって、あなたがもうこの恋に飽くと聞こえるのですもの」
と訳し、御丁寧にも「明く」と「飽く」の上に点(ヽ)を付けている。

  しかし、源氏が朧月夜を飽きたなどということが、物語のどこに書かれているというのだろうか。この段階で源氏が、この恋に飽きてしまっているなど、とうてい考えられないことである。そもそも飽きているのに、弘徽殿に入り込んで恋の饗宴を繰り広げるなどという危険を冒す男が、この世にいるだろうか。朧月夜にしても、そういう危険を冒してまで自分を求めている源氏を「私のことを飽きていられるのではなかろうか」などと考えるはずはないのである。
  それに二人の恋は、この「賢木」巻の最後にも再登場する。しかも、この時も「こともあろうに」右大臣(朧月夜の父)の邸で逢瀬を持っているのだ。飽きた女と、その女の家で逢うはずはない。
  結局、大胆にして危険すぎるこの逢瀬は、左大臣に見つけられてしまい、源氏は京を離れ、須磨でのわび住まいを余儀なくされる結果になる。
  そんな辛く苦い思いをした相手でも、彼は須磨からちゃんと手紙を送っている。
  『こりずまの浦のみるめもゆかしきを 塩焼く海士はいかが思はん』
 (懲りもしないで今でもあなたに逢いたいと恋い慕っている私を、塩焼く海士はどんなふうに思って見ているだろうか)
という歌で、苦い経験などどこ吹く風、懲りもせず朧月夜との逢瀬を訴え続けている。この歌からも、朧月夜を「飽きた」などという気持ちは一切読み取ることはできない。二人はまさに熱愛中なのである。そして二人の関係は、十五年後まで続いて行く。
  したがって、先のような掛詞の解釈が出るはずはないのである
  私は円地文子(新潮社)の訳が最も妥当であると思っている。それは
  「夜が明けると教える声を聞くにつけても、我が心から別れが惜しく袖を濡らします」
というもので、これで十分意を尽くしているし、実に爽やかで明快で端的である。源氏物語の訳文を読むなら、円地文子のものが最高であると、私はいつも思っている。
 
  円地の訳のように、この歌は後朝(きぬぎぬ)の辛く悲しい別れを詠っているのである。恋する者にとって、夜明けほど辛いものはない。古歌には、これを題材にして詠われたものがいかに多いことか。百人一首にもある。
  『明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信』
  「朝になればまた夜がやって来る。だから今夜もあなたに逢えることは分かっている。でもやっぱり別れなければならないこの朝ぼらけほど恨めしいものはない」という意味で、別れの辛い心情がよく出ている歌である。恋する者は皆こうなのだ。
  学者や訳者は、掛詞に拘りすぎている。彼らは鵜の目鷹の目で掛詞を探す。うっかり見落とすと大変!とばかり強迫観念に駆られて探し回っているのだろう。あるいは、掛詞の講義で失敗したことがあり、トラウマになっているのかもしれない。
  こうなってしまうもう一つの理由に、「贈答歌の決まり事(ルール)?」みたいなものがある。男の歌に対して、女は反対の(心にもない)感情や意思をもって応えるというものである。ただしこの場面では朧月夜が先に男に歌を詠み掛けているのだから、このルールに拘る必要はない。

  掛詞に拘りすぎるという傾向は、「引歌」でも言える。わざわざ引歌としなくてもその意図は容易に伝わるというのに、やれ「万葉集から引いたものである」とか「古今集からである」とか「拾遺集からである」とか、鬼の首を取ったように詳しく執拗に説明を加える。
  その引歌が分からなければ物語の解釈が不十分になってしまう場合とか、また古歌のイメージを重ねることによって、本文の詩情をますます深めることができるという場合でなければ、無視するか軽く扱っていいのではなかろうか。
  これについてはまた後に述べることにするが、掛詞は一種の言葉の遊びである。掛詞と捉えないと歌の詩情を深くつかむことができないのならとにかく、そうでないのなら、あまり拘ることもない。まして掛詞に拘りすぎて物語の本旨を誤ってしまうのでは問題は大きいと言わなければならない。

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天皇と色好み  源氏物語たより645 

源氏物語

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     天皇と色好み   源氏物語たより645

  前回(たより643)は、桐壷帝の好色について考えてみた。誠に問題のある色好みであることが分かった。
  ただ考えてみれば、古代の天皇にとって「色好み」であることは、「ねばならない」必須の条件でもあったのだ。
  例えば『古事記』なども、子を産むことから始まっている。神々は次々と子を産んで行って、ついにイザナギ、イザナミの神を産んだ。この二神はまたまた子供を産み続ける。こうして淡路島をはじめとする大八島を産み、海を産み、風を産み、山を、野を、樹木を、穀物を・・そしてついに火まで産んだ。イザナミはそのために死に、イザナギがその穢れの祓いをしている最中に、天照大神が産まれた。そしてこの国が栄えていくのである。
  『万葉集』の最初の歌もまたそれに関連している。この歌は雄略天皇の歌で、天皇が野を歩いていると、丘で籠と串を持った美しい娘が草を摘んでいる。天皇はこの娘にこう呼びかける。
  『菜摘ます児、家聞かな、告(の)らさね。そらみつ大和の国はおしなべて我こそ居れ、しきなべて我こそ座(ま)せ。我にこそ告らめ、家をも名をも』
  「この大和の国はすべて私が統治しているのだ。お前の家と名を教えなさい」とのびやかに高らかにそして堂々と歌い上げる。どこの女ともしれぬ者に突然の求婚である。
  でもそれが当時の天皇に課せられた責務でもあったのだ。恐らくこの娘との間に大勢の子をなしたことであろう。
  平安時代の最初の天皇・桓武天皇などは、三十四人の子供を産んでいる。その子・嵯峨天皇は、なんと三十一人の后妃に五十人の子を産ませている。処置に困った嵯峨天皇は、多くの皇子女を臣籍に落としているほどだ。
  天皇は多くの子を産むことが仕事であり、それは天皇家の繁栄のみならず、国を富ますことに繋がっていった。
  桐壷帝は、物語に出て来る子が十人(そのうちの一人・冷泉帝は源氏の子)なので、桓武天皇や嵯峨天皇には及びもつかないが、それでもよく努力したと言える。こう考えて来ると「色好み」などと言ってはいけなかったことが分かる。

  今上天皇は、子供が三人。さらにその皇太子はたったの一人。これではあまりに寂しいし、国民も活力に欠け精力も出ない。どちらかと言えば、現在は秋篠宮(子が三人)の方が世間をにぎわわせている。
  国民も、天皇家を真似たように子供がみな少ない。そればかりか、結婚忌避でもしているように、独身者ばかりが増えていく。そうして、労働力の不足だと言っては外国人を大量に招き入れる。国の亡びを見ているようでなにか不安を感じる。もう一度古代に帰ってみる必要がありそうだ。

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桐壺帝の好色 源氏物語たより644 

源氏物語

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       桐壷帝の好色   源氏物語たより644

  桐壷帝は、弟である前春宮が亡くなった時に、その妃であった六条御息所に、娘(後の斎宮)の今後に関してこう申し出ている。
  『その御かはりにも、やがて見たてまつりあつかはん。(など常にの給はせて)やがて内裏住みし給へ』
  「亡き春宮の代わりとして、私が娘をそのままお世話しましょう。(などと常におっしゃって)、そのまま内裏でお過ごしなさい」という意味である。
  ここに「やがて」という言葉が二度使われている。「やがて」の意味は「そのまま」ということなのだが、最初の「やがて」は、娘を今までと同じようにそのまま内裏でお世話しましょう、という意味で使われている。
  それでは二度目の「やがて」はどうだろうか。「娘をそのまま内裏住まいさせなさい」とも取れなくはないが、それでは内容がダブってしまう。とすれば、御息所に向かって言っていると捉えなくてはならないことになる。つまり全体の意味は
  「娘はこのまま内裏で私が面倒を見るから、あなたもそのまま内裏住まいをなさい」
ということである。
  この帝の申し出に対して、御息所は春宮が亡くなってしまったにもかかわらず、内裏住まいをしているなどは
  『いとあるまじきこと』
と強い意志を持って、内裏を去ることになる。にもかかわらず、内裏を去った後は、今度は帝の息子である光源氏と思いがけず思慮に欠けた関係を結ぶことになってしまって、結局とんでもない浮名を流す羽目になってしまった。

  ところで、この帝の申し出を単純、素朴に
  「娘と一緒に今後もあなたは内裏で過ごしなさい」
と、親切心で言ったと捉えていいのだろうか。それはあまりに浅い解釈で、なんのドラマにもならないと言わなければならない。ではどういう意味なのだろうか。帝は、
  「私の妃になりなさい」
と好き心から言っているのである。御息所は、内裏住まいなどすれば、帝の寵愛を受けるようになること必定と思っている。夫の死後、その兄の妻になるなどとんでもない恥である。そこで「いとあるまじきこと」という強い調子の表現になったのである。
  しかし結局は、故春宮の甥で九歳も年下の源氏と「いとあるまじき」恋愛沙汰を引き起こすことになってしまった。これでは帝の寵を受けることと源氏と浮名を流すこととさしたる差もなく、どちらが恥か分からない、と彼女は嘆くのである。

  それではここで桐壷帝のその「好き心」について考えてみよう。弟の妻を妃にするなど「好色の極み」と言われても仕方がないのではないだろうか、という点である。確かに御息所は
  『心にくく、よしある聞こえありて、昔より名高』
い女性であった。それゆえに源氏も強引に口説き落としたのだ。もちろんたいそうな美貌の持ち主であったであろうことも想像に難くない。だから帝が好き心を起こすのも当然である。また当時はそういう例もあったであろうし、帝に妃が何人いようが許される時代なのだから、決して指弾されることではない。一概に「好色の極み」などと言っては桐壷帝に対して失礼に当たるかもしれない。
  それでも現代の我々には何か素直には受け入れがたいものがある。
  『紅葉賀』の巻に、桐壷帝についてこんなことが言われている。
  『帝の御年ねびさせ給ひぬれど、かうやうの方は、え過ぐさせ給はず、采女(うねべ)、女蔵人(にょくろうど)などをも、かたち・心あるものをば、殊にもてはやし、思し召したれば・・』
  「かうやうの方」とは、好色の方面ということで、帝は、歳はおとりになっているけれども、好色の面になると、ちょっとでもいい女性は見過ごすことがおできにならない御本性で、というのだ。そのために、顔がよく性格の優れた采女(食事に奉仕する女)や女蔵人(装束などの雑役に奉仕する女)を、帝は殊にもてはやされ思し召しになるので、今の内裏には大勢気の利いた女性がいるというわけである。
  采女や女蔵人などは下衆の女性であるから、妃扱いをしたわけではあるまいが、でも「もてはやし思し召し」とあるのだから、寵愛の対象にはなっていたのだろう。

  こうなると、御息所の娘について言った先の「やがて見たてまつりあつかはん」も、怪しくなる。単純に「春宮の代わりにそのまま内裏で世話するから」とだけ考えたのでは浅い解釈になるのではなかろうか。もちろんこの娘は、当時まだほんの子供ではあったろうから、そんな幼子に「好き心」を抱いたというのにはやや無理がるかもしれない。しかしとにかくこの娘がいかに「かたち」の優れた女性であったかが、後にたっぷりと紹介されるのだから、帝が好色心を抱いたとしても全くの不自然とは言えない。
  それでは彼女がいかに美しい女性であったかその様を以下に見てみよう。
  彼女が、斎宮として伊勢に下る時に、朱雀帝がその額に別れの簪を挿そうとするとその美しさにすっかり驚かされてしまい、「伊勢にやってしまうのは誠に惜しいこと」と未練に思っている。また、七年後、伊勢から帰ってきた時も、朱雀帝(この時は院)はその美しさを忘れかねて、早速結婚を申し込んでいる。しかし、同じく彼女に惚れこんだ源氏によって院の思惑は阻まれてしまう。それほどに美しかったということである。
  
 さらにもう一つのことが思い出される。それは御息所が、娘(元斎宮)とともに伊勢から戻ってきて、死の床にある時のことである。彼女は、源氏に娘の後見を懇々と依頼するのだが、その依頼の仕方があまりにえげつなく、源氏に対して失礼なのである。彼女はこう言う。
  『うたてある思いやりごとなれど、かけてさやうの世づいたるすぢにおぼしよるな』
  (嫌な勘繰りではあるけれども、絶対そのような世づいた面で娘を見るようなことはなさらないで下さい)
  「世づいたすぢ」とは、「色恋の面」ということで、つまり
  「後見はあなたにお願いするけれども、愛人扱などは決してなさるな」
ということである。親・娘が二代にわたって、一人の男の愛人となることはなどはいかに恥がましいことであるか、彼女は身に染みて感じていたということである。

  春宮が亡くなった時に、いくらこの娘が幼かったとはいえ、栴檀は双葉より芳しで、帝が彼女の将来に期待していたとしてもおかしくはない。なにしろ「かうやうな方はえ見過ぐさせ給はぬ」御本性なのであるから。
  先の御息所の「うたてある思ひやり」と、このことを考え合わせるならば、「将来はそのまま妃として世話をする」と言ったと考えても決して的外れにはなるまい。そうだとすれば、母、子ともに桐壺帝の妃になるということなので、にわかに問題を孕んでくる。

  

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紫式部の筆の冴え 朱雀院行幸 源氏物語たより643 

源氏物語

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     紫式部の筆の冴え(朱雀院行幸の段)  源氏物語たより643

  如月の二十日あまり、朱雀院への行幸があった。陽暦で言えば三月、桜の花は「まだしき」ほどであるが、それでも気の早いつぼみは開きかけている。供奉する百官の袍はみな青色(禁色の麴塵 黄緑色)で、下着は桜襲(表白、裏紅色)という華やかな出で立ちである。それは「まだしき」ほどの桜にもはるかに勝って、行幸に華を添える。
  光源氏ももちろん供奉する。帝と同じ赤色の袍を着ているので、
  『いよいよ一つものと輝きて、見えまがはせ給ふ』
ほどで、源氏か帝かどちらがどちらか見分けも付かない美しさ。

  いよいよ舞が始まった。まずはこの季に相応しい「春鶯囀」が舞われる。
  かわらけ(盃)を回しながら、源氏、院、帥の宮、そして帝と順繰りに歌が詠われていく。回想の歌、春の到来を喜ぶ歌、世の栄えを寿ぐ歌、そして最後は帝の謙遜の歌である。儀礼的な歌ばかりではあるが、行幸に相応しい華やかで浮き立つものである。それはすべての歌に鶯が詠み込まれているからであり、その中に花や霞や笛の音が踊っているからであろう。
  そしてやがて管弦になる。音楽を奏している所(楽所)は遥か遠いので、物足りなく思ったのだろう、帝は琴類を取り出して、帥の宮には琵琶を、内大臣(かつての頭中将)には和琴(六弦)を、院には筝の琴(十三弦)を、源氏には琴(七弦)を賜る。いずれもその道の名手によるものなので、たとえようもなく美しい音が奏でられる。取り巻く殿上たちは、その演奏に合わせて唱楽する。「安名尊(世のめでたさを寿ぐ催馬楽)」や「桜人(男女が掛け合う愉快な催馬楽)」が唄われる。そして、
  『月おぼろにさし出でて、をかしきほどに、中島のわたりにここかしこ篝火灯して、大御遊(おほみあそ)びはやみぬ』
という情景をもって、長時間に及ぶ盛大な宴は終わる。
  平安人の雅にして華麗、そして平穏にして爛熟した文化の粋を夢の中に見るような風情である。まるで絵巻の世界だ。

  ところが、夜が更けて行幸の帰りの場面になると、情況は一変する。帝は
  『かかるついでに』
と、大后(かつての弘徽殿女御)が、朱雀院(三条と四条の間、朱雀通り西側に面した仙洞御所。八町~三万六千坪余~にわたる敷地)敷地の中に住んでいられるので、そのまま通り過ぎてしまうわけにもいかず、見舞うことにした。源氏もお供する。
  大后はもう五十七、八歳になられる。現在で言えば八十近いであろうか、すっかり年老いてしまった大后を見て、源氏はしみじみ思う。
   「こんなに長生きする人もあれば、藤壺宮のように三十七歳の若さで亡くなってしまう人もある。なんとも残念なことではないか」
  大后を見舞った帝は、儀礼的な挨拶の後、
  「これからも時々お伺いすることにします」
と申し上げる。源氏も『さるべきさま(しかるべき適当な)』の挨拶をした後
  『ことさらに、さぶらひてなん』
と申し上げる。「いずれ改めてお見舞い致しましょう」という意味である。そして、
  『のどかならで、帰らせ給ふ』
のである。帝と源氏が、賑わしく豪勢に帰って行く姿を目の当たりにして、大后の気持ちはさすがにおだやかでない。
  『いかに思し出づらん。世を保ち給ふべき御宿世は、消たれぬものにこそ』
  (源氏は昔のことをどう思っているのだろうか。もともと政権を握られるような宿世を持っている人は、やはり容易に消せるものではなかったのだ)
と嘆く。
 
  華麗で雅な宴は一転して、背筋も凍るような刺々しい場面へと移って行く
  そもそも二人が大后を見舞ったのは「ついで」なのである。もとより心から見舞う気持ちなど微塵もない。恰好がつかないからと世間体を慮っただけの「御見舞い」なのである。
  しかも、年老いた大后を一瞥するや、藤壺宮を思い出すという源氏の失礼。そして「こんな人がいつまでも長生きしていて、あの理想的な藤壺宮が若くして亡くなるとは、なんと残念なことか」と心中嘆く不遜さ。
  また、帝は「またまたも(折々見舞いをする)」と言い、源氏も「さらにさぶらひてなん」と言うのだが、しかし彼らが再びこの大后を見舞うことなどありえないことで、まさに儀礼的な挨拶言葉に過ぎない。
  そして「のどやかならで(そそくさ、あたふたと)」大后の元を去って行く。その様は百官にかしずかれ守られての大層な威勢なのだから、大后とすればやりきれない。彼女の敗北のつぶやきが哀れに空しく響く。
  かつの政敵・源氏が流謫先から召喚され、あっという間に権大納言となり、とんとん拍子に出世していく様を見て、彼女はこう言っていたものである。
   『つひに消たずなりぬること』
  源氏が須磨に流れて行った時は、源氏を「消す」には絶好のチャンスであった。ところがそのチャンスを彼女は生かすことができなかった。今でも大后は源氏を消し去ることができなかったことを悔いそして怨みに思っているのだ。しかしながらそれも源氏の持つ稀有な宿運があるゆえにいかんともし難い、と悔しがるのだから、なんという暗鬱な光景であることか。
 
  行幸という明から、暗鬱・無惨な死闘へと変転する場面転換は、紫式部の筆の冴えというしかない。
 
  この段で注目すべき事柄がいくつかある。
  その一つは、実に不可解な事象をこの段に設定しているということである。晴れやかな行幸だというのに、その宴たけなわ、なんと「省試」が行われるのである。「省試」とは、大学寮の学生に課す試験のことで、これに受かると文章生(進士とも言う)になれる。実はこの「省試」は源氏の息子・夕霧のために行われたものだった。夕霧は既に「寮試」には受かっていて擬文章生になっている。彼は、とにかく努力家であるとともに、天性の才能の持ち主であった。あの膨大な『史記』を二、三ヶ月でマスターしてしまったという。
  それにしても、そんな試験がこの晴れがましい場になぜ持って来られたのだろうか。
  それはおそらく夕霧の非凡な才能を満天下に知らしめることが目的だったのではなかろうか。そしてそのことは源氏の威光をますます輝かせることに繋がって行く。
  朱雀院は志半ばにして帝位を去ってしまった。それは源氏の天賦の能力や威厳に屈したからである。つまり、院もその母である大后も、源氏の能力・才能や威厳には及びもつかないということである。それをより明瞭にするために、夕霧を借りて場違いな「省試」をここに設定したものと考えられる。
  
  もう一つ目を引くのは、先の詠歌が四人だけで終わってしまっていることである。そこには内大臣の歌さえない。この事について語り手はこう言っている。
  『これ(宴の歌)は、御わたくしざまに、うちうちのことなれば、あまた流れずやなりにけん。また書き落としてけるにやあらむ』
  「宴の歌は、私的なことなので四人だけで止まってしまって、他の人々には回って行かなかったのかもしれない。あるいはもっと他にも歌があったかもしれないが、書き落としてしまったのかもしれない」と、とぼけているのである。
  これが紫式部得意の「省筆」である。省筆は、源氏物語全編ではなんと四ケ所で使われている。「頭が痛いから書くのをやめた」とか、「忘れてしまったから・・」とか「うるさければなん・・」などと言っては筆を留めてしまう。時には
  『珍しからぬこと書きおくこそ憎けれ』
とまで言っている。『宇津保物語』などが、平気で十数首も歌を羅列していることと対照的である。あるいは、この言葉の中には、清少納言批判があるかもしれない。清少納言は、さしたることでもないのに、「をかし」「をかし」と言っては、もの・ことを書き連ねている。それに対して紫式部は『紫式部日記』の中でこっぴどく非難している。なんにでも無節操に興味を示す浮かれを厭い、冗長になることを戒めているのである。

  しかし、この場面での「書き落とす云々」は、それとはいささか趣を異にしている。
  それでは、もう一度四人の歌を振り返ってみよう。源氏は、桐壷帝時代の盛儀を回想している。院は、自分の所にも春を運んでくれたこと(帝が来てくれたこと)の感謝を詠っている。帥の宮は、今の世の盛儀は、昔と少しも変わっていないと冷泉帝の治世を賛美している。帝はその褒め言葉に対して謙遜をもって応えている。
  そして草子地は
  『鮮やかに奏しなし給へる用意、殊にめでたし』
と帥の宮の行き届いた配慮に特別な賛辞を送っている。本来この帥の宮の歌に尽きるのだが、それでは華やかな宴にはあまりに物足りなく寂しいということで、他の三人を加えたと言ってもいいかもしれない。
  実は行幸も管弦も歌も「省試」もどうでもよかったのだ。現在の時世のすべての盛儀は、光源氏の力があったがゆえであることさえ語りつくせれば、それで十分であったのだ。つまり、源氏の栄華・栄光や盛儀と大后の凋落の哀れを対比して描くことにこそ、この段の目的があったということである。
  源氏と帝が、大后を見舞った後、彼女のあれこれが語られる。大后の世の中に対する不平・不満ややっかみ、あるいは飽くなき欲望が語られ、そしてその「さがなさ(ひね曲がった性格)」もこれでもかというほどに綴られていく。
  
  ところで、この「省試」には、十人の優れた擬文章生が選び抜かれていたのだが、夕霧は異彩を放っていて、わずか三人の合格者の中に入った。そして、
  『秋の司召しにかうぶりえて(五位に叙せられること)、侍従になり給ふ』
のである。源氏の栄華に極まりはなく、大后の凋落はなはだしい家門とは雲泥の差である。
 
  物語(文章)においては、提示された事象はすべて主題に関わっていなければならない。そしてそれらの全てが最終的には主題に向かって収束されていく必要がある。したがって余計なもの無駄なもの冗長なものは省かれなければならない。
  一見、物語上でどういう意味を持っているのか不可解に思われた「省試」も、光源氏の栄光・威光と大后の凋落に深く関わるものであった。最初の上達部たちの華麗な出で立ちも、源氏讃美に異ならない。
  源氏物語には、全ての事象が緊密に関係しあっていて、無駄や余計や冗長なものがない。もし「首をかしげる」ような事柄があったとしたら、それは読者の読みの浅さに由来していると考えるべきである。

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