源氏物語便り

心揺するもの 日本の心 源氏物語語り

源氏物語たより630 

源氏物語

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     「洒落」好きな日本人   源氏物語たより630

  「洒落」とは、『広辞苑』によれば「気のきいたさま、いきなさま」ということで、「洒落を言う」の洒落は、「座興に言う気のきいた文句、ことばの同音を生かしていう地口」ということになる。『旺文社 全訳古語辞典』には前者を「あか抜けた言動をすること」としている。したがって「洒落を言う」の洒落は、「気がきいていて、あか抜けていなければならない」ということになる。そうでないのはいわゆる「駄洒落」でしかないということだ。
  いずれにしても、洒落を言うことによってその場の緊張がほぐれ、和やかな雰囲気を醸し出すことができる。
  古代から日本人にとってはこの洒落が必需品であったようで、『古事記』や『竹取物語』などにも盛んに使われている。竹取物語の最後などはその典型で、かぐや姫が残して行った「不死」の薬を持って、天に最も近いという駿河の山に行き、その頂に登って焼いた。それ以降、
  『その山をふじの山とは名づけける。その煙いまだ雲の中へ立ち上るとぞ言い伝えたる』
とある。とにかく竹取物語などは洒落のてんこ盛りというところである。
  「掛詞」も同音を響かせて言う洒落で、多くは歌などに使われている。『古今集』なども、掛詞(洒落)の殿堂と言っていい。恐らく彼らは、
  「気のきいた掛詞を使った名歌ができたわい」
などと悦に入ってにんまりしていたのだろう。またそれを互いに笑い合ったり「お見事、お見事!」などと囃し立てたりしていたに違いない。

  これが日本人の伝統となり、脈々と受け継がれてきた。特に江戸時代は洒落全盛時代で、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』や式亭三馬の『浮世風呂』は、洒落は雨後の竹の子である。 
  弥冶さん・喜多さんが、「中山(現在は三島市内)」あたりを旅している時に、街道を大勢の女衆が歩いているのに気が付いた喜多さん、白い手ぬぐいを被れば一層男前に見えるはずと、懐からさらしの手ぬぐいを取り出し、頬被りする。案の定、街道の女衆は喜多さんの顔を覗き込んでは、にやにやしている。彼はいい気になるのだが、実は彼の手ぬぐいには紐が垂れていてそれを笑っていたのだ。なんと手ぬぐいとばかり思っていたのは褌であった。弥冶さんに冷やかされた喜多さん
  『手ぬぐひと思ふて被る褌は さてこそ恥をさらしなりけり』
  洒落の集大成が「江戸小咄」と言っていいかもしれない。もちろん江戸小咄のジャンルは多様で、歴史にのっとったものや、ことわざや艶笑もの、あるいはお惚(とぼ)けものなど様々である。が、やはりその中心になっているのが「洒落」であるように思われる。ただ江戸小咄の洒落は、洒落は洒落でもあか抜けたものが多い。そんな江戸小咄のうちの三つばかりを紹介しておこう。

  千手観音様の前で、参詣に来た男が何やらぶつぶつ言っている。
  「観音さま・・、観音さまはお手が千本もあるというのに、足はどうして二本しかないのですか?」
すると観音様、ぼそりと
  「御足が足りない」

  ある宿に、お日様とお月様と雷様がお泊りになった。翌朝、雷様が目を覚ますと、お日様もお月様もいられない。番頭さんを呼んで聞いてみると「お日さまとお月さまは、今朝早くお立になりました」とのこと。と、雷様
  「月日の経つのは早いものよのう」
  今度は番頭さんが、「雷様はいつお立ちになります?」と聞く。暫く考えた雷様
  「そうよのう、夕立にするか」
 
  いずれも見事な洒落と言わざるを得ないが、特に後者は洒落の二段構えで見事。
  それでは最後は可愛い話を紹介しよう。

  江戸の大店の台所に鼠が出て仕方がないということで、ある時、丁稚ドンが「落とし升」を仕掛けた。翌朝みると、見事に鼠がかかっていた。升の外に鼠のしっぽが出ている。そこで、番頭さんやおさんドンを呼んで、
  「見て、見て、この尻尾からすると随分でかい鼠だよ」
と大はしゃぎ、ところが番頭さんは
  「いや、ちいさい、ちいさい」
すると、中から鼠が
  「チュウ」

  単なる駄洒落かもしれないが、何か単純にして可愛いく、「粋の域」に入っていると言ってもいいだろう。
  ところが、この話を以前職場でしたところ、職場の仲間がこれを盗用した。
  「昔々、おじいさんが山に柴刈りに行きました。お昼時になったので、おばあさんが作ってくれたおむすびの入った竹の皮を開いてみると、なんとおむすびが、ころり、ころりと転がり、深い穴の中に入ってしまいました。おじいさんが穴の中を覗いて見ると、中から賑やかな声がします。と、おじいさんも穴の中へすとーん。
  そこには鼠たちが大勢いて、「おじいさん、おむすびありがとう」と言って、大層歓待してくれました。楽しいひと時を過ごしたおじいさん、いよいよ帰らなければなりません。そこでこう言いました。
  「鼠さんたち、今日は本当に楽しい時をありがとう。またおむすびをもって来るからね。今度は大きいのが好いかね、それとも小さいのが好いかね」
 すると鼠たち、口をそろえて
  「チュウ」
  盗用されたのにはいささか原辰徳だが、「おむすびころりん」と「浦島太郎」の話を可愛くミックスしたようで、「おお、これもなかなかの粋に達しているわい」と許してあげることにした。
  ついでに、歴史やことわざにのっとったもの、お惚(とぼ)けもの、あるいは艶笑ものを、それぞれ一つずつあげておこう。
 
  ある絵師、絵が売れないでその日の暮らしにも事欠く始末。せんかたなく質屋に家財を入れては飢えをしのいでいた。しかしもう部屋の中には質に出すものとてない。仕方がないので、これだけはと思っていた床の間の師匠に書いてもらった天神様の絵を出すことにした。彼は天神様に手を合わせて、こう哀願する。
  「天神さま、申し訳ございません、一時質屋にいていただけませんか」
  すると天神様、涙を浮かべながら
  「わしゃ、また流される」

  蛸が岸壁で、気持ちよく居眠りをしていたところ、猫に腕を一本食われてしまった。頭に来た蛸、
  「よし、猫め、今度は海の中に引きずり込んでやる」
とばかり、岸壁に足七本を長々広げて待っていた。その様子を遠くから見ていた猫、
  「その手は食わねえ」
 
  両国橋で毎夜のように身投げが頻発。怒ったお奉行様に呼ばれてこってりお説教をされた橋番、「何とかとっ捕まえてやる」と勢い込む。とその晩、若い娘が草履を脱ぐや欄干に手をかけた。橋番、すっ飛んで行って、羽交い絞めにするや
  「毎晩毎晩、ここから飛び込んでいるのはお前だな!」

  ある泥棒、大名屋敷に盗みに入ると、お女中が縁側で足をツン出して昼寝の真最中。それではことのついでにと言うことで、お女中に馬乗りになって、始めてしまった。さすがに気付いたお女中、「あれ!」と思って見上げて見ると、この泥棒なかなかの好い男。泥棒が匕首の方に手をやって「騒ぐと抜くぞ」と脅すと、お女中
  「いや、ぬかないで」

  洒落でないものも交じってしまったが、とにかく江戸小咄は、「あかぬけていて粋」であることに間違いはない。しかし、歴史やことわざを知らないと理解できないものも多い。先の「天神様」は菅原道真のことで、彼の太宰府配流の史実が本になっている。

  洒落の伝統は現代にも繋がっているようで、昨日、TBSラジオの伊集院光の番組を聞いていたら、東海道五十三次の宿に関する「洒落」をやっていた。「戸塚」の宿に関する視聴者から募った洒落であったが、すべて駄洒落で聞くに堪えなかった。現代人の洒落の感覚は錆びついてしまったのだろうか。
  そもそも東海道五十三次の宿を詠った歌は江戸時代にもあって、TBSとは比べものにならないほど高尚で教養満載である。
  この歌は、寛政時代、寺子屋の手習いとして使われていたものだという。全てを上げてみたいのだが、いささか長くなるので、三島で止めておこう。
  「 都路は五十路(いそじ)あまりに三つの宿  時得て咲くは江戸の花 
   波静かなる品川や  やがて越え来る川崎の  軒端並ぶる神奈川は   はや保土ヶ谷のほどもなく
   暮れて戸塚に宿るらむ  紫匂う藤沢の   野面(のもせ)に続く平塚も  もとよりあはれは大磯か  
   かはず鳴くなる小田原は  箱根を越えて伊豆の海  三島の里の神垣や・・」
  洒落でまとめているわけではないが、各宿場の特徴を端的に捉えていて感心する。お気づきのことと思うが、すべて尻取り形式で次の宿へと繋がっている。これが寺子の習字や地理の学習教材になっていたのだから、江戸人の教養の高さを偲ぶことができる。
  戸塚は江戸から40キロ超、多くの人が最初に泊まる宿だったらしい。先の弥冶さん喜多さんも一泊目は戸塚である(二泊目は小田原)。
  それにしても江戸を早朝六時に出たとすれば、戸塚に着くのは午後四時ごろ。十時間も四十キロを歩き通したのだから、当時の人の健脚には驚くしかない。
  大磯の「あはれ」は、恐らく西行の
  『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮』
にちなんだものであろう。それでは、小田原の「かはず鳴くなる」とはどういうことだろうか。私も分からないでいたが、最近、小田原に「蛙石」という史跡があることを知った。恐らく小田原には「蛙」にちなむ話があるのだろう。三島の「神垣」は勿論三島大社を指している。
  この後には、「浜松枝の時久し」などが出て来る。「浜松」の松を取って松の命長さを洒落て紹介しているのだ。

  こんなことを考えていたら、柳亭痴楽の「綴り方教室」を思い出した。その中の「恋の山手線」が、東海道五十三次に似ているのに気付いた。
  「上野を後に池袋 走る電車は内回り 私は近頃外回り 
   彼女はきれいな鶯芸者  日暮里笑ったあの笑窪  田畑を売っても命がけ  思うはあの子のことばかり 
   我が胸のうち駒込と  愛の巣鴨に伝えたい  おおつかなびっくり度胸を定め  彼女に会いに池袋  行けば男が目白押し
   そんな娘じゃだめだよと  高田馬場や新大久保の叔父さんの意見でも   新宿聞いてはいられません・・」
  ただし、これは徹底した駄洒落で、東海道五十三次の歌のように意味があるわけではない。「大塚」を「おおつかなびっくり」とは恐れ入る。また「新大久保の叔父さん」などは全く洒落にもなっていないし、相当な無理算段である。
  この後にも無理な語呂合わせが頻発する。たとえば、「親父が生きてゝ目黒いうちは 私も少しは豪胆(五反田)だ」とか、「魂(田町)も宙に踊るよな」などは、もう無理の極みである。
  それでも「日暮里笑ったあの笑窪」や「我が胸の内駒込と」や「愛の巣鴨に」などはなかなかうまく恋の真実をまとめていて、さすがではある。それに、この「恋の山手線」の最後がいい。
  「やがて消えゆく恋でした」
  「やがて」は「山手」をかけている。痴楽のあの軽快な語り口に、「意味ない・・」とは思いつつも、つい魅かれて覚えてしまう。
  また後に出て来る「色よい返事を浜松町」や「誰に悩みを有楽町」などは、なかなかのできで、百人一首にある三条右大臣や小式部内侍の歌に通じるものがある。
  まず三条右大臣の歌はこうだ。
  『名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな』
  「逢坂山」は、男と女が「逢う」ということを掛けている。「さねかづら」は、つる性の灌木で、枝が別れてはまた会うと言う。これも男と女が「逢う」ことを意味している。そればかりではない。「さね」には「さあ、寝よう」という意味まで含まれていて、共寝を暗示しているという複雑にしてエッチな内容も含んでいる。
  小式部内侍は、和泉式部の娘で、母・和泉式部が丹後の守である夫に従って都を去ってしまった時に、歌会が催され、小式部内侍も歌人の一人に選ばれる。ある男が
  「お母さんがいないので心配でしょう、丹後には行きましたか、お母さんに手紙は出しましたか」
と言う。稀代の歌人である母の助けがなければ、あなたには歌会は無理だという皮肉を込めたのである。それに対して返した歌が、
  『大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立』
である。「丹後は、大江山を越え険しい生野の道を通って行かなければならないので、まだ行ったこともありませんし、母からの文もいただいてはいません」という意味である。「生野」に「行く」を掛け、さらに「ふみ」に「踏む」と「文」を掛けたもので、彼女の当意即妙の才が現れていて、軽妙洒脱な歌である。

  「色よい返事を浜松町」の「松」は、古典でしばしば使われる「待つ」を掛けたもので、百人一首にも「まつとし聞かば いま帰り来む」がある。「逢坂山」や「生野」と同じように上手く地名を生かしている。
  「誰に悩みを有楽町」の「有楽町」は、「有楽町で逢いましょう」のように、男と女が逢う場所であり、そして別れるところでもある。最初の出会いの時や別れの時は言葉に詰まってしまって「言うべき言葉」を失ってしまい、まさに「誰に悩みを有楽町」の心境であろう。「さね」や「ふみ」に通じると言っていい。
  それに、この「恋の山手線」は、恋の始まりの心の高鳴りや忍従、それがやがては流れ落ちる滝のような激情となり、そして、恋の苦しみ・疑いあるいは自虐となり、道化たように終わっていく、全体の構成も巧みにできている。一見意味のないような「駄洒落」「御無体はこじつけ」と思っていた「恋の山手線」も、仔細に見ていけば、案外日本人の伝統を踏襲しているところが見つかるものである。

  さて、源氏物語にも触れなければなるまい。源氏物語でも掛詞は頻用されている。多くは歌の中で使われていて、最初の歌もそうだ。桐壷更衣が自らの命の尽きる間際に、帝にこう詠いかける。
  『限りとて別るゝ道の哀しきに いかまほしきは命なりけり』
  「死ぬこと、別れることは人に定められた宿命で、悲しいことではありますが仕方がございませんが、それでも私が行きたいのは命(生きる)の方でございます」という切実絶望的な心境を詠ったものだ。「まほし」は願望を表す助動詞で、「いかまほし」は、「行くたい」と「生きたい」とが掛けられていて、彼女の必死の思いが迸る言葉である。
  源氏物語では、地の文にも時に掛詞が使われる。
  ただし、源氏物語の特徴は、掛詞よりも「引き歌」にあるといえるだろう。玉上琢哉によれば、730箇所で使われてるというし、人によっては、2千箇所を超えると言う。それらの古歌や催馬楽が実に効果的に使われている。古歌で詠われた状況や情景を、源氏物語の状況や情景にオーバーラップさせる(掛ける)ことによって、より深い味や広がりを生もうとする技法である。
  六条御息所は、光源氏のつれない扱いに見切りをつけて、斎宮である娘と共に伊勢に下向することにしたが、それでも源氏への未練や世間の噂を思うと、きっぱり都を離れてしまう決心が付かない。そこであれやこれやと思い悩むのだが、そんな心境を
  『釣りする海士のうけなれや』
と表現している。これは古今集の次の歌から引いたものである。
  『伊勢の海に釣りする海士のうけなれや 心一つを定めかねつる』
  「うけ」とは、釣り具の「うき」のことで、うきは海面に漂って一瞬として安定しない。それはまさに御息所の現在の心境そのものである。しかもこの歌に歌われている場所は、「伊勢」で、彼女がこれから旅立とうとする地である。これ以外はないというほど適切な歌をよくぞ見つけて来たものだと感心する。これだけでも紫式部の非凡を認めないわけにはいかない。
  しかもここの地の文には掛詞まで使っているのだから、念が入ったものである。
  『(都を離れるか否か、心定まらないで)起き臥し思しわづらふけにや、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうし給ふ』
  この「浮きたる」が伊勢の海士の釣りする「うけ」に掛けられているのだ。
  源氏物語の引き歌や掛詞については、今までも何度か触れたのでこの程度にするが、日本人の「洒落」の精神が、古事記や竹取物語や源氏物語、あるいは江戸の滑稽本や小咄に受け継がれ、さらに現代にまで引き継がれているのだと思うと、何か日本人として誇らしいように感じられ、思わず「日暮里笑ったあの笑窪」が出てきてしまう。

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源氏物語あより629 

源氏物語

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      神も仏も有らばこそ   源氏物語たより629

  言葉を尽くした求愛にも、頑なに、しかも手厳しく抗(あらが)い通す藤壺宮に、光源氏は面目まるつぶれであることと、さすがにいささかの腹立ちもあったのだろう、幼児が母親に拗(すね)るような誠に幼稚な考えを実行に移す。それは宮が源氏を
  『「いとほし」とおぼし知るばかり』
懲らしめてあげよう、というものであった。「いとほし」とは、「かわいそう、気の毒、不憫」という意味であるが、ここでは「愛おしい」という意味も含まれていよう。今まで自分ばかりが宮に対して一方的に愛を求め続けてきた。にもかかわらず、これほど手厳しくつれなく抗うというのであったら、今度は宮が私のことを「不憫!いとしい・・」と思うように仕向け、相手の方からこちらにすり寄ってくるようにという企みである。
  そして実行したのが、手紙を贈ることはもとより、宮中にも春宮の所にも一切参内せず、ひたすら自分の邸に籠りきってしまったのである。何しろ源氏は、宮と春宮にとっては唯一にして最大の後見人なのである。そんな源氏が、宮や春宮からそっぽを向いてしまうようなことになれば、それは宮にとって大変な打撃である。そうならないよう恐らく折れて出て来るだろう、という源氏の魂胆なのである。

  しかし、自邸に籠れば籠ったで、宮への愛おしさは勝るばかりであるし、また春宮に会いたい気持ちも抑えることができなくなる。結局、いかんともし難いつれづれと所在なさに、雲林院に参詣することになる。経文を読んだり勤行に励んだりして諸々の憂さや悩みを忘れようというのであろう。
  確かに参籠してみるとそれなりに心に沁みることが多い。才豊かな僧による法論などによって、この世のはかなさを悟ることができるし、朝方、法師たちが閼伽棚に花や水をたてまつる音などは、仏道に専修する尊さや後の世の安穏を教えてくれる。それらに
  『さも、味気なき身をもて悩むかな』
としみじみ後悔させられる。また律師が
  『念仏衆生 摂取不捨』
と尊く経を上げている声を聞くにつれ、仏道とはこんなに尊いことなのに自分はどうして出家できないのだ、という反省がしきりに湧いてくる。
 
  と、ここまでは誠に殊勝な心がけなのだが、次がいけない。
  「自分はどうして出家できないのか」と考えた途端に、それは紫上のためだ、という結論に至り、彼女の面影が浮かんできて我慢できなくなる。そこでさっそく手紙を送る。しかも「繁く」とあるから、一日に何回も送ったということなのであろう。先ほどの殊勝な心構えは何処に行ってしまったのだろう。紫上からの返事の素晴らしさに見とれ
  『うつくしとほほ笑み給ふ』
のだから困った男である「うつくし」は「可愛い」。

  そればかりではない。
  『吹きかふ風も近き程にて、斎院にも聞こえ給ひけり』
というのだから、もう救いようがない。この斎院(賀茂神社に奉仕する未婚の皇女、王女のことで、彼女らの居所をも言う)とは、源氏が長年にわたって恋い慕い続けてきた「朝顔」のことである。その斎院が雲林院からほど近い所にあるから手紙をしたためたと言う。確かに斎院も雲林院も京都の北・紫野にある。
  それは良いのだが、斎院とは一体なんであろうか。伊勢の斎宮と同じように、ひたすら精進・潔斎し、神に仕える崇高な身である。つまり「恋」などは絶対のご法度の立場にある(もっとも伊勢斎宮が恋をする話が『伊勢物語』にあるが)。にもかかわらず「近いから」と言う理由だけで、
  『唐の浅緑の紙に、榊に木綿つけなど、神々しくしなして』
恋文を贈るのだから、恐ろしい男である。「唐の浅緑の紙」と言えば、支那から渡来の最高級の紙である。しかも神社にこと付けて、榊に木綿を付けるというのだから念の入ったことで、神をも畏れぬ所業と言わざるを得ない。朝顔からは、素っ気ない内容ではあったが、それでも返事が来た。彼女の筆跡が優美であるのを見ては
  『朝顔もねびまさり給へらんかし』
と想像を逞しくする。「ねびまさる」とは、「年齢よりは大人びて見える」という意味であるが、彼女が女盛りを迎えいっそう美しく成熟したことであろうと、ニタリとしているのである。もちろん僧坊の一室での妄想である。

  雲林院を去るに当たって、美しい紅葉の枝をつと(土産)にする。
  『おぼつかなさも、人悪きまでおぼえ給へば』
だからである。「おぼつかなく」思ったのは、紫上のことではない。藤壺宮のことで、参詣中みっともないほどに、彼女のことがずっと頭から離れなかったのだ。宮への「意趣返し」も全く効果がなかったということである。もちろん紅葉は宮に贈られた。あまりに美しい紅葉であったので、彼女の目は留まったが、なんとその枝には、それとなく(恋)文が結いつけられていた。
  源氏にあっては神も仏もない。恋のためなら精進も罪科も、あの世もこの世もない、自由奔放にして、思いのままに行動するばかりである。

  雲林院(うりんいん)は、今でも京都市北区の紫野にある。大通りを挟んだ向かいに広大な敷地を持つ大徳寺がある。当時、この雲林院は、壮大な寺領を有する天台宗の寺であった。恐らく今の大徳寺も雲林院の寺領の中に含まれていたのだろう。紅葉の名所であったと言う。ところが今ではすっかりさびれてしまって、境内にはささやかな草木が植えられているばかりで、二三分もすれば一周出来てしまうほど狭小である。参詣する人の影もまばらで、とても源氏物語の世界を偲ぶことはできない。
  百人一首「天つ風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ・・」で知られる僧正遍照ゆかりの寺でもある。この遍照もおかしな人で、僧であるというのに「女郎花」に盛んに興味を示している。この植物に「女(をみな)」という文字が付くからである。
  『秋の野になまめき立てる女郎花 あなかしがまし花もひと時』
  『名に愛でて折れるばかりぞ 女郎花 我落ちにきと人に語るな』
  最初の歌は、雲林院の境内に女郎花がいっぱい咲いていたのだろう。いかにも若々しく艶めかしく咲いていて、それぞれが自分を誇っているように見える。でも遍照には、いかに誇らしげになまめき騒いだとて、若さなどというものはほんのひと時に過ぎないよ、と言っているのだ。あるいは、若い御婦人方が、女郎花を愛でに雲林院に参詣に来ていたのかもしれない。お節介なことだ。
  二首目は、「わたしゃ、その名を愛でて一枝折っただけじゃわ。わしが女性に近づいて堕落したなどと、人に話してはならんぞよ」という意味である。
  二首ともどうも怪しい歌である。「僧正」とは僧官の最上位の位であるというのに、「をみな 若い娘」に拘るとは。
  光源氏には、この僧正遍照の霊が乗り移っているような気がしてならない。

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源氏物語たより628 

源氏物語

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     十分なるユーモア作家・紫式部  源氏物語たより628

  内侍司(ないしのつかさ)に、源典侍(げんのないしのすけ)という女性がいる。随分お歳を召しているというのに、男に関しては異常なほどの関心を示す。

  内侍司とは、後宮十二司の一つで、天皇に常侍し奏請・伝宣あるいは女官の指導・監督などをする。この司の長官とも言うべきものが、尚侍(ないしのかみ)で、二人おり、一人は妃の立場として扱われる。朧月夜がそれにあたる。玉鬘も尚侍になるが、彼女は事務方として勤めている。いづれにしても尚侍には大臣級の娘がなるのが慣行のようだ。
  その次官(二等官)に当たるのが典侍で、尚侍はいわば名誉職のようなものであるのに対して、実質的には典侍が内侍司を取り仕切る。光源氏の忠臣である惟光の娘も典侍を望んでいる。惟光の娘は五節に選ばれたが、新嘗祭の行事の後は、五節はみな宮仕えをすることになっていた。そこで、惟光は
  「どうせ宮仕えをするのなら典侍に・・」
と源氏にその骨折りを頼んでいる。また、『枕草子』には、「上達部になるのだったら、左大将がいい・・」「君達だったら、頭中将がいい・・」「受領になるのだったら、伊予の守がいい・・」などという内容の記述の並びにこうある。
  『女は、内侍のすけ。内侍(内侍司の三等官で掌侍~ないしのじょう~のこと)』
   とにかく「典侍」は、平安女性憧れの職掌だったようである。しかし、出自もそれなりでなければならなかったし、知識・教養、人柄なども優れていなければならなかったはずである。

  さて、今日のヒロイン・源典侍もまさにそれであり、彼女も、
  『人もやんごとなく、心ばせありて、あてに、おぼえ高』
い人物である。「家柄も立派、心構えもしっかりしていて、品があり、人々の評判も上々」というのだから申し分のない典侍である。特に彼女は琵琶に堪能である。
  ところが、争えないのはそのお歳で、五十七、八歳という。現代で言えば優に七十歳は越えている。
  しかし、それはそれで仕方のないことである。問題なのはこの典侍の性癖である。
  『いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたには重からぬ』
というのだから、困ったものである。「重からぬ」とは、「(色恋に対しては)慎重でなく軽々しい」という意味。
  源典侍がそんな女であることを源氏はいつも
  「いい歳をして、どうしてそれほど男好きの浮気者なのだろう」
と苦々しく思っていた。しかし、そこは源氏で、思っているだけでは終わらない。冗談ごとを言いかかっては彼女の気を惹いてみたりするのだから、これまた相当な色好みである。すると彼女は、源氏のことを
  『似げなくも思はざりける』
というのだから、たいしたものだ。源氏はこの時、十九歳。四十近くも差があるというのに、
  「源氏さまも私の相手としては、不似合でもないわね」
というのだから。
  ある時、この典侍がいつもよりは姿や髪型を優美に、また衣装も華やかに着飾って色気たっぷりにしているのを見た源氏は、   「いつまでこんな色めいて若作りをしているのだ」
と苦々しく感じながらも、一体何を考えているのやらからかってやろうと、彼女の裳の裾を引っ張って注意を促す。すると、見事な絵が描かれた扇で顔を隠しつつ、源氏の方に流し目を送ってくるではないか。ところがその流し目がいけない。
  「眼の周りの皮はたるんでいるし、黒ずんでいる。それに、せっかく隠した髪も扇の外にはみ出してぼさぼさである」
  このあたりは、雪の朝、思わず見てしまった末摘花の赤い鼻や痩せ痩せの肩の骨を思わせる場面である。
  「それにしても年に似合わぬ扇の絵よ」
と源氏は扇を交換してみると、そこには古今集のこんな歌が書かれていた。
  『大荒木の森の下草老いぬれば 駒もすさめず 刈る人もなし』
  「大荒木の森の草は、もうすっかり老いてしまったので、馬だって食べようとしないし、刈る人もいない」ということなのだが、もちろん源典侍自身のことを嘆いたものだ。「私はすっかり年を取ってしまったから男どもは誰も相手にしてくれない」という意味である。それを見た源氏は、
  「歌などいくらもあろうというのに、よりによって「森の下草老いぬれば」を選んで派手に扇に書きつけるとは」
と呆れる。そこで源氏は、 
  「そう言いながら、お前さんの所には大勢男がやって来るのではないの?」
と混ぜっ返す。すると、源典侍
  『君し来ば 手慣れの駒に刈り飼はん 盛り過ぎたる下葉なりとも』
  「あなたがいらっしゃるというのなら、飼い馴れた駒のつもりで草を刈って大いに歓待いたしましょう。少々古くなってしまた草葉ではありますけどね」
と、堂々と応じてきた。十九歳の源氏をたっぷり可愛がってあげようというのだから、負けていない。いや源氏の方がたじたじとなって、尻尾を巻いて逃げようとすると、その袖を捉えて、
  「私に恥をかかせるというの!」
と泣き掛かるのだから凄まじい老女である。

  ある夕立の涼しい宵、源氏が温明殿(三種の神器・鏡を安置する殿舎)の近くを通ると、源典侍が、歌を歌いながら琵琶を見事に弾きこなしている。その歌の歌詞がまた凄まじい。
   「私は瓜作りの女房にでもなってしまおうかしら」
というもので、自分を相手にしてくれない源氏に当てつけているのだ。
  こんなやり取りがあった後、結局、源氏はこの老女の犠牲(契りを結ぶこと)になってしまう。

  老女の色好みは褒められたものではない。が、そう非難しつつも、あの若き貴公子・源氏さまがその虜になってしまうというのだから、何とも滑稽である。
  その後、この源典侍を巡って、源氏は頭中将と恋のさや当てのドタバタ劇を演じたりするのだが、私の力量ではその面白さを十分伝えきれないのが歯がゆくてならない。ぜひ原文(『紅葉賀』)をたどってその面白さ・醍醐味を堪能していただければ思う。
  源典侍も、末摘花と同じように源氏から盛んに虚仮にされるのだが、『末摘花』の巻で感じたような嫌味は全くない。それは源氏が虚仮にしつつも、彼女の長所・美点を、所々に書き添えているからであろう。また彼女自身も、源氏に負けない強さを持っているのも読後感を別にする要素になっている。末摘花が、源氏から一方的にくたされ徹底的にいびられていた姿はここにはない。むしろ、百戦錬磨の老女にあしらわれ翻弄されている源氏の姿が滑稽で、爽快ですらある。もっとも長年にわたって華やかな宮中で男と丁々発止してきた才女と、常陸宮の姫君とはいえ葎の宿に逼塞していた末摘花を比べるのには無理があろうが。
  「たより627」では、紫式部はユーモア作家たりうるかという問題を提起したのだが、私はその力量十分と思っている。処々に散りばめられている滑稽な場面や表現に気付かないと、玉上琢弥のように
  「いずれにしても、作者は喜劇を描ける女ではない」(角川書店 『源氏物語評釈』)
と平気で断言してはばからないようなことになってしまう。この源典侍の一場面を映画化でもしたら、結構笑えるのではなかろうか。

  ところで、「老女の色好みは褒められたことではない」と先に言ってしまったが、決してそんなことはないのであって、いくつになっても色恋を忘れないことが、若さを保つ秘訣になるのだ。
  『伊勢物語』六十三段は、まさにその問題をテーマにしている物語である。大層年老いてはいるが色心を知った女が、なんとしても今一度自分を愛してくれる男と逢いまみえたいものと切望していた。その気持ちを「夢」にことづけて三人の息子に語る。兄二人は「何を今更!」とすげなく聞き流してしまうが、末の子は母の心をいとおしく思い、何とか願いを叶えてあげたいと奮闘する。たまたま近くに在五中将(在原の業平のこと)が狩りに来ていたので、その馬の口を捉えて、
  「実は私の母がかくかく云々」
と訴える。あはれに思った中将はその晩、この老女の所に泊まる。
  もちろんその後、中将は通って来ない。悲しんだ女は中将の家に行って家の中を垣間見る。すると男がぼそぼそとこんな歌を詠っているではないか。
  『百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬ九十九(つくも)髪 我を恋ふらし面影に見ゆ』
  「百年に一年足りない」ということは九十九ということ、つまり大層年老いているということで、「その老女が私を恋しがっているようなので、どれ出かけて上げようか」ということである。女は中将が自分の所にやって来ると判断して、慌てて家に帰り、床に臥してこんな歌を詠っていた。
  『さむしろに衣片敷き今宵もや 恋しき人に逢はでのみ寝む』
  「今夜も私は一人で寝なければならないのか」という心である。あはれに思った中将はその晩、女と床を共にする。
  源典侍の話は、この伊勢物語を下敷きにして戯画化しているような気がする。もっとも伊勢物語も一幅の戯画ではあるが。いずれにしても九十九歳まで恋ができるということは羨ましい。
  紫式部は、恋にまつわる、はかなさや頼りなさ、悲しみや歓び、あるいは苦しみ、はたまた滑稽などをいつも鋭く観察していたのだろう。源典侍の話は見事な滑稽譚といえる。

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源氏物語たより627 

源氏物語

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      『末摘花』の巻 笑いの限界  源氏物語たより627


  『末摘花』の巻は、喜劇仕立てで書かれているのだが素直に笑えない、ということは何度か指摘してきた(「たより609など」)。なぜなのだろうか。
  まず第一に、筋に無理があることがあげられよう。光源氏が、末摘花と逢うようになったのは、彼の乳母子である大輔命婦の紹介に依る。彼女は乳母子という気安さもあって、源氏とは非常に親密で、冗談や皮肉も対等に言いあえる。ある時、源氏の色好みを煽るべく、自分が日ごろ行き通っている末摘花をこう紹介する。
  「常陸宮様が大層大切に育てていられた姫君で、琴を特に好まれる」
  これが源氏を煽る彼女の殺し文句であった。なぜなら「宮様の娘」なら源氏は申し分なしと思うだろう、さらに「琴を殊に好む」と言えば、源氏の食指は必ず動くはずと読んだのだ。案の定、源氏は「その琴を我に聴かせよ」と乗り気になる。
  でも、命婦はこうも付け加える。
  『心ばへ・かたち(容貌)など、深き方はえ知り侍らず』
  ここにもう無理が潜んでいる。彼女は、父親の再婚相手の家に行くのは気が進まないので、もっぱら末摘花の家に通っているとある。しかもそこに、自分の局さえ持っているのだ。それなのに「心ばへ」も「かたち」も知らないと言う。確かに当時、女房などがご主人と話す時などは、御簾越し・几帳越しだったようである。しかし、後で分かるように、末摘花のあの容姿や話下手などは、何回か応対しているうちに、自ずから分かってくるはずだ。それほどに末摘花は独特なのだ。特に背高であり鼻高であり、さらに極端なもの怖じであるのだから、「分からない」というのがむしろ不自然である。

  例の雪の日に、源氏は、末摘花の醜悪な容貌を完膚なきまでに見てしまう。そればかりか、彼女が着ていた衣が「貂の皮衣」であったことも、源氏はひどくその非常識を嘲っている。しかし、それは貧困ゆえであろう。いくら寒いからと言っても愛する男に逢うのに黒貂の衣を着る女はいない。この間、源氏は何度か末摘花を訪ねているのだ。正式に通い妻にしたというのに、なぜその貧困状態が分からなかったのだろうか。なぜ、経済的な援助をしてやらなかったのだろうか。源氏の援助があれば、末摘花は「容姿の嘲り」だけで済んだはずなのに。

  彼女の所作・動作・行動、言葉などもあまりに常識外れで極端すぎる。男に話しかけられて何も応えられず、ただ「む、む」と言うだけという。あまりの「しじま」に源氏は呆れるのだが、いくらなんでもこれは無理な人物設定と言わざるを得ない。
  正月に源氏用にと、末摘花が贈った衣装も、あまりにひどい。
  『今様色の、え許すまじく艶なう、古めきたる直衣の、裏表等しう、こまやかなる、いとなほなほしう、つまづま見えたる』
  「紅梅色のどうにも見られぬほど艶もなく、古めいた直衣の、裏と表と同じくらい濃い色のが、何の趣もなくありふれたさまに褄々の端をのぞかせている。 (円地文子訳『新潮社』)」
代物であった。「艶なく古めかしい」のは、単に彼女にセンスがないということよりも、やはり彼女の貧困ゆえで、それしかなかったのだろう。あるいは彼女が源氏のためにと必死で縫ったのかもしれないのだ。これも源氏の十分な援助があれば蔑まれないで済んだというのに。しかも源氏はこの直衣を見てこんな歌を詠うのである。
   『なつかしき色ともなしに なににこの末摘花を袖に触れけん』
   「なつかし」とは心惹かれるということで、全体は、
  「何の魅力もない女だというのに、どうして手を触れて(関係を持って)しまったのだろう」
という意味である。歌の中の「色」は、末摘花の鼻が赤いことを指している。贈られて来た直衣も「濃い紅色」で、それはベニバナの「赤で染めた色」を指している。全てが末摘花の「鼻の赤さ」に由来しているのだから徹底している。ちなみに「袖」は、衣にちなんだ縁語である。
  源氏の歌を見た大輔命婦は、内心こう思っている。
  『をりをりの月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ』
  命婦は、やはり月の光で末摘花の鼻を見ていたのだ。しかも「をりをり」なのである。そして源氏と一緒に「可哀想だけど」と思いつつ嘲笑っている。

  源氏の揶揄、嘲笑、侮蔑はまだ止まない。二条院で紫上と絵などを描いて遊んでいる時に、源氏は、髪の大層長い女の絵を描き、その鼻に紅を塗る。それだけなら許されるのだが、彼は自分の鼻にまで紅を塗り、それを紫上に見せてこう言う。
  『まろが、かくかたはになりなん時、いかならん』
  何も知らない純真無垢な紫上を前にして、末摘花の「かたは」な醜貌を嘲笑っているのだから、もう救いようがない。
  源氏物語では光源氏を徹底して褒めちぎっている。しかし、『末摘花』の巻では、源氏の醜い面が出てしまった。これでは前代未聞の美貌の持ち主、天賦の才の持ち主と崇め奉って来た光源氏も、人間的には「かたは」なのかもしれないと言われかねない。

  『末摘花』の巻が読むにしたがって息苦しくなってくるのも、そんなところに理由があるのかもしれない。それは一度読んだだけではわからない。最初は「赤鼻の女」「むむとしか言えない女」など面白く感じないでもないが、何度か読むうちに、その人格無視、女性蔑視などが鼻に付いてきてしまって、素直に笑ってはいられなくなる。西郷信綱はこの巻を「滑稽譚の傑作」と言っているが、彼はおそらく一回しか読んでいないのだろう。例の玉上琢弥はこう言っている。
  「これは光る源氏の“恋愛滑稽譚”、“恋愛失敗譚”である。作者は面白く書こうと努力している。だからある程度は面白い。しかし、私は、この巻をユーモア文学の傑作だと言う人の気が知れない。偉大な作家は悲劇も喜劇も描けるのだ、と、言う人も不思議に思う。なるほど作者はおかしく書こうとしている。しかしともすれば読者は末摘花にあわれを感じてしまう。作者はすぐそんな書きぶりをしてしまう。また、この最後の場面(紫上を絵を書く場面)のように、末摘花を笑いものにしてしまうと、それがあまりに強すぎて、かえって、また末摘花に同情してしまう。いずれにしても作者は喜劇を書ける女(ひと)ではない」
  文章はいささか交錯していて整理されていないが、概ねのところで私もそう思う。特に「ユーモア文学の傑作」などとは全く思わない。しかし、この巻は玉上が言うような光源氏の恋愛滑稽譚でもないし恋愛失敗譚でもない。もしそれだったら、笑って済ますことができるからである。むしろ読んでいて、生理的な嫌悪感をすら覚えてしまうのは、この巻が人間拒否、人格否定、女性蔑視にのっとったものになっているからである。
  もう一つ言えば、「いずれにしても作者は喜劇を書ける女ではない」という玉上の断定である。そんなことはない。源氏物語には滑稽な表現や場面が至る所にちりばめられている。玉上は、『源氏物語評釈』の中で実に懇切丁寧な説明を展開しているが、滑稽な場面に気付かないことが多い。お堅い学者の常なのかもしれない。
  次回『紅葉賀』の巻に登場する「源典侍」にその点を見てみよう。これは素直に面白く笑える。

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源氏物語たより626 

源氏物語

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     「中神」が分からない   源氏物語たより626

  「中神」とは、『帚木』の中に出て来る言葉であるが、その実態がよく分からない。「雨夜の品定め」の翌日、光源氏は内裏から左大臣(葵上)邸に退出する。その時に女房たちと源氏との間にこんなやり取がなされる。
  『「今宵、中神、内裏よりは塞がりて侍りけり」と聞こゆ。「さかし(源氏の言葉で、「そうだな」という意味)」。例は忌み給ふ方なりけり』

  「中神」とは、暦神のことで、「天一神」とも言う。天一神は、十六日間は天上にあるが、己酉(つちのととり)の日に天から下りてきて、まず北東の隅に六日間遊行し、次に東の方に五日間、以下、東南の隅、南の方・・とそれぞれ六日と五日と、合計四十四日間{(6+5)×4}、四隅、四方を遊行する。そして、癸巳(みずのとみ)の日に天上に帰って行く。天一神が天上にいる時にはさわりとなる方角はないが、地上にいる時に、この神の遊行している方角は「ふたがり」と言って、その方角に向かって事をなすことを忌み、「方違え」をしなければならなくなる。

  さてそれでは、先の源氏の行為をどう捉えたらいいのだろか。左大臣邸は、内裏から向かって今宵から中神の遊行する方角になるという。したがって、本来源氏は来てはいけないところであったのだ。女房たちに注意された源氏も「そうだな」と言っている。源氏自身が、左大臣邸は今日は「方塞がり」であると分かっているにもかかわらず、どうして来てしまったのだろうか。源氏の意図がこう書かれている。
   『(いつも内裏にばかり籠っていて、ここにはほとんど来ないことが)『大殿(左大臣)の御心いとほし(気の毒)ければ』」
ということで、左大臣に申し訳ないからなのだという。
  この後、源氏は女房たちの忠告を無視して、大殿籠ってしまう。この行為も解せないことである。すぐにも方違えしなければならないというのに、寝てしまうとはどういうことであろうか。
  玉上琢弥(角川書店『源氏物語評釈』は、
  「昨夜女性論に花を咲かせてとうとう徹夜をしてしまった翌日である。何より体がだるくて、眠くてならぬ。“かたふたがり”も構わず寝てしまう、お坊ちゃんの源氏」
などと暢気な解釈をしているが、そんな甘い源氏であろうか。
  これは、彼の計算ずくの悪だくみなのではないかと私は思う。一つには、肩の凝る左大臣の付き合いをしなければならないことが煩わしいのだ。そして何よりも葵上と居ることが嫌だからだ。そのために短時間だけ居る条件として「方塞がり」を選んだということである。しかしそうかと言って、これ幸いとばかり早々左大臣邸を辞してしまうのも気が引ける。そこで「なやなし」を理由にして寝入ってしまったのだ。そうすれば
  「源氏さまは、こちらでごゆっくりしていらっしゃいます」
と、女房たちが左大臣や葵上に御注進という段取りになるだろう。日ごろの無沙汰を大殿籠ることで罪滅ぼしすることができる、と考えたのだ。

  さらにかれの狡いのは、この「大殿籠って」しまった行為である。彼は、いずれにしても今宵はどこかに方違えをしなければならないと承知している。そして、方違えともなれば、「何か好いことが起こるはず」と甘い夢想を持っているのだ。そんな自分に相応しい方違え所は、必ず供人が探してくれる、と読んでいる。案の定、供人の一人が紀伊守邸がいいと言って推薦してきた。表面的には、最近紀伊守は、中川から水を引いて涼しい陰を作っているからだということである。られらの真意は別にある。ところが、肝心の紀伊守は、
  「父の妻(空蝉)が物忌みに来ているので・・」
と渋る。それを聞いた源氏は、小躍りしてこう言う。
  『女遠き旅寝はもの恐ろしき心地するべきを。ただその几帳の後ろに』
  で、この話をぜひ進めるよう促す。「ただ」とは「すぐ」という意味で、「女の几帳のすぐ後ろが好い」と言うのだから、源氏の面目躍如で、ここにこそ色好みな彼の本意があったのだ。
  今宵は方違えをすることで、珍しい女と寝ることができるかもしれないと読んでいたために、ここで十分大殿籠って体力をつけておこう、という魂胆である。これは私の少々うがった考えかもしれないが、紀伊守邸に行って、彼がまず守にこう言って困らせていることでも察しが付く。
  『帷(とばり)帳もいかにぞは。さる方の心もなくては、めざましきあるじならん』
  冗談めかして言ってはいるが、彼の魂胆は透け透けである。催馬楽を引用して巧みに「女の用意がなくては興ざめだぞ」と守を脅迫しているのである。このことからしても私の解釈も、あながち「うがった考え」とも言えないと思う。

  『枕草子』に
  『すさまじきもの 昼吠ゆる犬。春の網代。・・方違へに行きたるに、あるじせぬところ。まいて節分などはいとすさまじ』(二十五段)
とある。「あるじ」は「饗応」という意味で、当時は、方違えに来た人を、方違え所では饗応しなければならなかったようである。「すさまじ」とは、源氏が紀伊守に言った「めざまし」とニュアンスが似ていて、期待に反して面白くない、不快な気がする、心外だというような意味である。節分にはよく方違えをしたようであるが、特にこの時は手厚く客をもてなさなければいけなかったのだろう。
  その結果、供人たちは紀伊守邸で、酒・肴の大盤振る舞いを受け、満足してそのまま寝込んでしまう。彼らは、中川から水を引いて豪奢に家造りをするような受領の家であれば、十分な御馳走にありつけると計算していたかもしれない。一方、源氏は源氏で、女の御馳走にあずかるという段取りになる。

  当時の人が、「天一神」や方違えをどれほど信じていたのかは、よく分からない。とにかく当時は「禁忌」が多かった。陰陽寮で作成した暦(具注暦という。藤原道長などはこの暦に日記を書きつけている『御堂関白日記』)には、さまざまな禁忌が書かれていて、彼らはこの暦に添って行動しなければならなかった。結婚に相応しくない月、旅立ちに忌む日、そしてなんと髪を洗うに良き日まで決まっていたのである。彼らの行動は暦によって縛られていたとも言える。
   『手習』の巻に、横川の僧都の母が、初瀬に詣でた帰り、奈良坂を過ぎたところで、体調を崩し動けなくなってしまう、そこで近くの知人の家に泊まろうとする、ところがこの家では御嶽参りの精進をしているため、病身の人が泊まったのでは具合が悪いということで断られてしまう。それでは、比叡の麓の小野の邸まで連れて帰らなければならないかという場面が出て来る。しかし、
   『例、住み給ふ方は、忌むべかりければ』
ということで、小野の方角は塞がっているということで、結局、宇治に泊まらざるを得なくなる(実は、そのために、僧都一行によって瀕死の浮舟が助け出されるのだが)。このように禁忌を生真面目に守っている例もみられる。おそれく概ねの人々はこのように暦に従ったのであろう。
  ところが、源氏のように手におえない猛者にあうと、天一神も愚弄され、悪用されてしまう。『松風』の巻にもこの方違えが出て来る。「嵯峨の御堂に・・」と言って紫上に嘘をつき、大堰川にいる明石君に逢いに行く。
  その最後の日に、大勢の公達が大堰にやって来て、川の辺で大宴会となる。そこに冷泉帝からこんな手紙が届く。
  『今日は、六日の御物忌み開く日にて、必ず(内裏に)参り給ふべきを、いかなれば(今宵見えぬ)」
  「六日の物忌み」とあるところから、恐らく先の天一神が、源氏の二条院から向かって内裏の方角に遊行していたのだろう。それを理由に彼は参内をしないでいたのだ。そしてちゃっかり明石君と逢っていた。今日はその源氏の忌みが明けたの、で当然参内するものと帝は思っていた。ところが今日になっても参内しない。冷泉帝にとって、源氏のいない遊び(音楽)などおもしろくもない。そこで、いささかおかんむりの手紙をしたためたのだろう。帝の思いをよそに、源氏は大堰でどんちゃん騒ぎの宴会をしていた。
  紫上には嘘をつき、帝にまでおおけなきことをする源氏。
  源氏くらいになると、方塞がりなどはいい口実になってしまう。ひょっとすると紫式部や清少納言レベルになると、天一神や方塞がりなどは、心の中ではあまり信じていなかったのかもしれない。清少納言が、『枕草子』で、方塞がりを「御馳走目当て」くらいに考えていたように、ハイレベルの知識人たちは、自分に都合の良い手段・方法としてこれを活用していたのかもしれない。

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