源氏物語

源氏物語たより66

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  感覚鋭い平安人  源氏物語たより66

 光源氏が、突然部屋に押し入って来たのにいち早く感づいて事なきを得たのは、空蝉の嗅覚である。源氏が着物に焚き染めた香は
 『いとかうばしくうち匂ふ』


のだから、いくら真っ暗闇の中を忍んできたといっても、紛(まが)うはずはない。したがって、ここは源氏の作戦負けである。香など付けずに忍び込むべきであった。もっとも、空蝉の傍らに寝ていた軒端荻は、源氏の侵入などには全く気づきもせず、睡眠をむさぼっていたので、幸か不幸か源氏の毒牙にかかってしまったのだが。

 軒端荻を除いて、平安人の感覚は非常に鋭かったようである。特に嗅覚と聴覚は冴えていて、鋭く嗅ぎ分け聞き分けていたようである。
 源氏物語では、さまざまな場面で、感覚というものが物語を展開させる要素になっている。『梅枝』の巻などでは、嗅覚そのものが主題になっていると言ってもいいほどである。この巻で、源氏が六条院のご婦人方に、香の材を配り、二種類の薫物(たきもの)を作るよう依頼している。すると六条院は
v『鉄臼(かなうす)の音、耳かしがましき頃なり』
 御婦人方は、香木を鉄臼で引いてそれらをいろいろに調合し、より良い薫物を作ろうと、鉄臼の音が耳にうるさいほど必死になる。特に源氏と紫上は、互いに負けまいと秘密裡に薫物を作ろうとする。
 『にほいの深さ、浅さも、勝負の定めあるべし』
ということで、薫物の深さ浅さが、勝負の分かれ目になるのである。
判者に選ばれたのは、源氏の弟の風流人・蛍兵部卿宮である。彼は、最初は判者になることを渋るのであるが、それでも、『すぐれて、なまめかしく、懐かしき香』であるとか『はなやかに、今めかしう、すこしはやき心(鋭く強い感じ)』であるとか『さま変はり、しめやかなる香して、あはれに、なつかし』き香であるなどと、どれもこれも
 『無徳ならず(いずれが良しともなく)』定め給ふ』
のである。源氏はその判定に不服で、こう言って笑う。
 『心ぎたなき判者なり』
 それはそうであろう。何しろ何種類もの香木を調合し、さらにそれに蜜やあまずら(あまちゃづるから取った甘味料)を加えるのだ。しかも一流の御婦人方が腕によりをかけて造り出したものである。優劣の付けようなどありはしない。今でも香合わせなどをしているようであるが、果たして、判者は嗅ぎ分けることができるのであろうか。私は酒好きで、酒には目がないのだが、それでも「甘い酒」も「辛い酒」も分からないし、「大吟醸」「中吟醸(?)」も「越乃寒梅」も「久保田の万寿」も分かりはしない。飲めればいい。

 この香合わせの後、例にもれず宴が始まる。
 『御みきなどまゐり給うて、むかしの御物語などし給ふ。霞める月の影、心にくき(素晴らしい)を、雨の名残の風、少し吹きて、花の香なつかしきに、おとど(六条院)のあたり、いひ知らず匂い満ちて、人の御ここちども、いと艶なり』
 酒を酌み交わし、話に興じながらも、彼らの嗅覚、視覚は止むことがない。

 源氏亡き後の物語の主役は、『薫』『匂宮』にと受け継がれていく。二人の名前がそもそも嗅覚である。
 「薫」は、源氏の正妻である女三宮と柏木の間にできた不義の子であるが、なんと彼の体臭は、
 『香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまでうちふるまひ(行動する)給へるあたり、遠く隔てたるほどの追い風も、まことに百歩のほかも、薫りぬべき心地し給ひける』
のだ。麗しく独特な「薫」の香りが、百歩離れていても匂ってくるというのだから、すごいものである。
 「薫」の良き遊び相手であり競争相手である「匂宮」も、これにはとても勝負にならない。そこで、匂宮は、「これでもか!」というほどに、衣に香を焚きしめ、薫に負けまいと女のところに通うのである。

 平安人は「音」にも鋭い。わずかの音にも耳を傾ける。松の梢を渡る風、空行く雁がね、奥山のさ牡鹿の鳴き音、衣打つ砧の音・・。
 『秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』  藤原敏行
 『さ夜なかと夜は更けぬらし 雁がねのきこゆる空に月わたる見ゆ』  大江千里
 『奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の声きく時ぞ 秋はかなしき』      詠み人知らず
 『白妙の衣うつ砧の音もかすかに、こなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声・・』 源氏物語『夕顔』の巻
 彼らは、雪、月 花 風 雨、鳥、虫のかそけき営みに自己の心情を重ね、喜び悲しみを歌にし、日記に書きとめてきたのだ。

 最後に『更級日記』の一節を上げておこう。
 『月いみじうあかきに、風の音、虫の音、取り集めたる心地するに、筝の琴かきならされたる、ゐやう定(横笛)の吹きすまれたるは、何ぞの春(春など何ということもない)とおぼゆかし。また、さかと(そのように)思へば、冬の夜の空さへさえわたりいみじきに、雪の降り積もりひかりあひたるに・・』

 現代人が忘れて久しい自然の移ろいに、彼らは、時につけ所につけ物につけつつ、心を震わせていたのだ。
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