源氏物語

源氏物語たより75

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  意味も分からず百人一首  源氏物語たより75

 私の子供の頃の遊びと言えば、野山を駆け回るか、百人一首をするかであった。正月ともなれば、狭い炬燵の上に百枚の札を並べて、よくカルタ取りをしたものだ。だいたい父が読み手になる。それを兄妹四、五人が夢中になって札を取り合った。時には、ご近所を渡り歩いて、百人一首をやった。


 ところが、歌の意味などにはさらさら関心がなく、ひたすら札取りに専念しただけであった。今度は何枚取れたとか、誰それに何枚負けたとか言って、泣きみ笑いみしたものである。

 源氏物語を読んでいたら、光源氏が、紫上に向かって、明石に残してきた明石の君について語っている時に、紫上はぽつり次の言葉を呟く場面が出てきた。
 『身をば思はず』
 「あれどこかで聞いた言葉だ?」と思ったら、やはり百人一首の句であった。今でもよく覚えている。しかしその意味となるとさっぱりである。
 この歌は、『拾遺集』に載っているもので、作者は、少将・藤原季綱の娘・右近。
 『忘らるる身をば思わず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな』
という句で、それを紫上は借りたのである。
 『忘らるる』とは「すっかり忘れられてしまった」という意味。『身』とは、「自分の身」のこと。『思わず』とは、「どうでもいい、気にしない」ということ。『誓ひてし』とは、「神に向かって、いつまでも私を愛していくと誓った」ということ。『人の命』とは、「誓ってくれた男の命」のこと。『惜しくもあるかな』とは、「気がかりである、心配である」ということ。なかなか難しい歌で、子供にわかるわけがない。全体の意味は
 「あなたにすっかり忘れられてしまった私自身のことなどは、どうでもいいの。何の心配もしてはいません。それよりも、あれほど私をいつまでも愛してくれると神かけて誓ってくださったあなたの命が、その誓いを破ってしまったために、神罰でも受けはしないかと、そればかりが心配でたまりません」
ということである。
 以前、右近のところに通っていた男が、今ではすっかりお見限りになってしまったので、頭にきた右近が、相手の男に送った歌である。
 「気がかりだ、心配だ」と言いながら、実は皮肉たっぷりで、嫌味に溢れ、恨みつらみを通り抜けて、もう呪いの境地の歌である。なんとも
 「怖い~」
歌なのである。

 『大和物語』には、この右近に関する話が、四つ続いて出ている。四つの話に登場する男は、いずれも同一人物のようで、八十一段には、男の不実を訴えた次の歌が載せられている。
 『忘れじとたのめし人はありと聞く 言ひし言の葉いづちいにけん』
 「あんなに〈あなたのことは忘れることはない〉と言っていたのにさ。今ではさっぱりじゃないの。あなたは元気にご活躍という話だけど、あの〈あなたのことは忘れない〉っていう言葉は、一体どこに行ってしまったのさあ」ということで、これも相当きつい恨みつらみの歌である。こんな怖い女は早く捨ててしまった方が賢明である。
 百人一首の『忘らるる』は、『大和物語』の八十四段に出てくる。次のような短い話である。
 『同じ女、男の「わすれじ」とよろづのことを(言葉を)かけて(神に懸けて)誓ひけれど、忘れにける後に言ひやりける。
 「わすらるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな」 
 かへしはえ聞かず』
 歌の内容の説明のような話であるが、『かへしはえ聞かず』というのが笑ってしまう。男に手紙を送ったが、男は一切返事を送ってこなかったということである。男は、こんな怖い女とは早くさっぱり縁を切った方がいいと思って、返事も出さなかったのだろう。当然のことである。
 この歌は、非常に屈折した女の心境を詠っている。「わすらるる身をば思はず」で意味が切れている。二句切れである。一、二句と三句以下が、全くどんでん返しの意味を持っているのだ。つまり、一,二句は、なんとなくしおらしく歌いだしておいて、三句以下では、「神罰が当たるかも」と呪いの言葉で脅しているのだ。

 そもそも短歌というものは、読む時には、上の句の「五、七、五」でいったん切り、そして「七、七」と流していくものである。それが日本語のリズム感というものだ。その方が口調が滑らかなのだ。この特徴を生かして、「カルタ取り」という遊びが出来上がった。
 ところが、二句で区切ってしまうと、そのリズム感がなくなってしまう。この歌はあえてその効果を狙ったのかもしれない。つまり、二句で切って、おどろおどろしさを出そうということである。どこで句切るかで、歌の雰囲気が変わってくるのだ。

 次の与謝野晶子の歌は、初句切れであるが、乙女の純真な心情をストレートに出すために、あえて初句で切って、「ああ、あの海!」と強調したものである。
 『海恋し 潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家』
 木下利玄の次の歌は、珍しい四句切れである。まずは新鮮な蜜柑の香がぷんと匂ってきたことを詠い、そして、「ああ、冬が来るのだ!」と、五句でしみじみ季節の変化に感じ入っているのである。
 『街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり 冬がまた来る』

 ところで、紫上は、どうして右近の「怖~い」歌を借りてきたのだろうか。
 源氏は、26歳の春に、政敵である右大臣の報復(右大臣の娘であり、朱雀帝の尚侍である朧月夜と不倫事件を犯した)を恐れて、自ら須磨に流れて行く。須磨では天変地異などに見舞われ、辛酸を極める。
 ところが、一年後、わずか10キロメートルあまり離れただけの明石に移って後は、辛酸などどこ吹く風、またまた、源氏のお家芸である女遍歴が始まるのである。あれほど「愛してる、愛してる」と言い続けていた紫上も、源氏が明石に移ってからというもの、すっかり影が薄くなってしまった。それでも源氏は気が咎めるのか、女(明石の君)の家に通う時に、馬にうちまたがりながらこんな歌を詠う。
 『秋の夜の月げの駒よ我が恋ふる雲井にかけれ 時の間も見む』
 (月毛の駒よ、私が恋しいと思っている遠い雲井(都)まで駆けて行っておくれ。そうすれば、恋しい人(紫上)をしばらくの間でも見ることができるのだから)
 なんとも、しおらしい歌である。
 しかし、心はルンルンである。なぜなら、明石の君は、鄙(ひな)には稀な、気品があり教養があり、優しい女性だからだ。そしてついに子供まで作ってしまったのである。あれほど愛していたはずの紫上との間には、八年もの間子供もできなかったのに、明石ではたった一年あまりで作ってしまった。
 しかも、内心では、子供ができたことを「しめた!」と小躍りしているのである。
 なぜか。それは、生まれてくる子がもし女の子であれば、将来の可能性は洋々たるものになるからだ。天皇の后となることもあり得ないことではないし、さらに皇子でも生まれれば、やがては天皇の外戚となることも可能だ。そしてついには摂政、関白として世を牛耳ることも夢ではなくなるのだ。(事実そうなるのだが)
 二年半の流謫の後、源氏は許されて帰京すると、とんとん拍子に出世していく。
 ただ気がかりなのは、紫上のことである。流謫の身にありながら、子供まで作ってしまったのだから。このことをいつまでも内緒にしておくこともできない。
 そこで、紫上にポツリポツリと事実を語り出す。しかし語るにつれて、はるか明石に残してきた明石の君の人柄のよかったこと、琴の演奏が特別優れていたこと、容貌のこと・・などを思い出して、放心状態になってくる。その表情を見て、明石の君に対する思いの尋常ではないことを紫上は感じ取る。やりけれない。
 「流謫の間は、私に逢いたいと袖も涙で乾く間もなし、ではなかったのか、愛しているという便りや歌もあれほど送って来たではないか。にもかかわらず、ルンルン気分で子作りに励んでいたとは」許せない。
 紫上が、『身をば思わず』と呟いたというのは、源氏の行為に対して相当頭にきていたからだ。あの優しくて気品に満ちた紫上が、精一杯の皮肉を込めて、この古歌を引用したのだ。よほどのことである。紫上の気持ちがよく理解できる。
 しかし、紫上は、二句だけを引いた。いかにもさびしく哀しい引用である。右近のように激しく呪いがましくは言わなかった。そこに紫上という女性の人柄がにじみ出ている。
 結局、紫上は、この明石の君が生んだ子を自分の子として引き取ることになる。そして、この子を立派に育てるために、健気(けなげ)に尽くしていくのだ。どこまで源氏の意のままになるのだろう。何か紫上という女性が、『たより74』で述べた「召人」のような気がしてならない。紫上にいつも漂っている寂しさは、こんなところにあったのだ。

 百人一首に限らず、平安時代や鎌倉時代の歌は確かに難しい。歌の中に複雑で屈折した心境が含まれているからだ。この『わすらるる身をば思わず』の歌などはその代表である。しかし、そこに人間の真実の心を見ることができて、面白い。
 源氏物語に親しんできて、ようやくこれらの歌の特徴や決まりや癖が分かりかけてきたが、まだまだ怪しいことが多い。
 『百人一首』と、源氏物語がしばしば引用する『古今集』だけでも、もっと理解を深めておきたいと思っている。
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