源氏物語

源氏物語たより79

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  最長不倒の垣間見  源氏物語たより79

 “垣間見”は、平安時代においては「必要悪」であると言った。それは「必要悪」というよりも、「必要事」であったと言った方が当たっているかもしれない。男が、女に逢う方法は「垣間見」を通してしか方法がなかったからである。
 それにしても、ここに凄まじいほどの垣間見をした人物がいる。薫である。


 薫は、光源氏の子として育てられたが、実は、源氏の正妻である女三宮(朱雀帝の娘)と頭中将の息子・柏木との間に生まれた不義の子である。
 薫は、自分の出生に疑いを持ち、源氏の弟で、俗聖(ぞくひじり)として宇治に籠っていた八の宮の生きざまを慕って、宇治に何度も訪れるようになった。そこで八の宮の娘・大君と運命的な出会いをするのだが、大君は若くして亡くなってしまう。
 そんな時、大君に似た女が現れる。それが浮舟である。
 浮舟は、八の宮の実の娘ではあるが、大君とは異腹の子で、八の宮に正式に認められることもなく、母もろとも宇治を追い出され、母は、受領の常陸介の後妻として再婚していた。
 浮舟母子は、八の宮が亡くなって、長谷寺詣での折などに、宇治のこの邸を中宿りとして利用していた。

 ある時、薫が、宇治の御堂(源融が建てた御堂で、後の平等院がモデルになっていると言われる)が完成したので、その見分のために、故八の宮の邸を訪ねた。
 すると、たまたまそこに、大勢の屈強な東男に守られた女車が、橋(宇治橋であろうか)を渡って、こちらにやってくるではないか。長谷寺詣でから帰ってきた浮舟一行である。薫は、彼女のことについては、以前から、うわさに聞いていたので、「しめた!」と思った。彼女を見ることのできるまたとない機会である。

 薫は、自分の出生に対して疑問を持っているような男であったから、いささか屈折した性格の持ち主で、「『うじ、うじ」していて、決断力に欠けるところがあった。ところが、この時ばかりは、誠に迅速果敢な行動に出るのである。お供の者に向かって、
 「みんな、物陰に隠れろ!」
 「車は見つからないように中に入れなさい!」
などと指図し、
 「自分がここに来ていることは、決して言うではないぞ!」
と口固めをさせたりするのである。普段の彼の「うじ、うじ」は、すっかり姿をひそめてしまったような手際よさである。
 彼は、寝殿の部屋に入るや、浮舟の一挙一動を注視する。
 そして、浮舟が、車から降りるところから、じっくりと垣間見を始めるのである。
 そう、そう、その時間を確認しておかなければなるまい。浮舟一行が到着したのは
 『日たけて』
である。「日たけて」とは、「日が盛りになって」ということである。時は、葵祭の頃であるというから、四月、今なら五月である。日が盛りなるのは、12時前後ということであろうか。ここから薫の垣間見はスタートしたのである。
 彼は、視覚、聴覚、嗅覚と、あらゆる感覚を総動員して、浮舟の容姿はもとより、その行動、衣装、話し方などすべてを撫でるように眺めまわすのである。

 車から降りてくる浮舟は、こんな風に描写される。
 若い女房や年配の女房たちはさっさと車を降りてきて、『早う(降りなないませ)』と促すのだが、浮舟は、
 『あやしくあらわはなる心地こそすれ』
と、なかなか降りて来ようとしない。「人に丸見えされているようだ」と警戒しているのだ。ひょっとすると薫の垣間見をなんとなく感じ取っていたのかもしれない。そんな繊細な心使いが、上流貴族の男の心を虜にするのだ。あにはからんや、薫は思う。
 『言う声、ほのかなれど、いとあてやかに聞こゆ』
 さっさと降りてきて「早く、早く」などとせかしている女房などとは、品位が違うのである。かすかな声でも「あてやか(上品)」に聞こえるのだ。
 『頭つき、様だい、細やかに、あてなるほどは、いと、やう、思い出でられぬべし』
 ほっそりとして上品な感じは、あの大君を思い出させるものであった。扇をかざしているので、顔はしかとは見えないけれど、とにかく「あ、大君、」と思って『胸つぶれ』ながら、垣間見ているのである。浮舟の着物は、
 『濃き袿(うちき)に、撫子とおぼしき細長、若苗色の小袿なり』

 浮舟は、長い時間をかけて、ようやく車から降りてくると、いよいよ部屋に入った。
 薫は、隣の部屋から、さらに観察を続ける。しかも、彼は、衣擦れの音がしてはいけないと、直衣と指貫だけになって(もちろん肌着の単衣は着ているはずだが)、用意万端、臨戦態勢に入るのであった。
 『四尺の屏風を、この障子に添えて立てたるが、上より見ゆる穴なれば、残るべくもあらず』
 隣の部屋との間には、障子(襖のこと)があるが、穴が開いているから、へっちゃら。残るところとてなく丸見えである。障子の向こうには、屏風が立ててあるが、四尺の高さの屏風だから、何の支障にもならない。なぜなら薫は、五尺以上の背丈だから、屏風の上から、高みの見物ができるのである。
 長谷寺への旅ですっかり疲れてしまったらしく、空蝉は部屋に入るなり、
 『音もせで、添ひ臥したり。腕をさし出でたるが、まろらかにをかしげなる』
姿である。薫は、日頃、まじめ人間として人々から「面白みのない人間」と評価されている。それが、ものに添い臥して、腕を出しているその女の腕が、「丸々として綺麗だ」などと好色心旺盛に見ているのだから、人々の評価は間違っている。
 さすがに長時間、立ち尽くして見ていたので、
 『やうやう、腰痛きまで立ちすくみ給へど・・なほ動かで見給ふ』
のだが、腰の痛みなどどこ吹く風、さらに微動もしないで、延々と見続けるのである。その体力たるや、計り知れないものがある。

 ところで、薫には、生まれついての不思議な体臭があった。それが、何とも言えない芳香を放つのだ。当然ここでも、その芳香は隣の部屋までぷんぷん匂っていく。ところがこの香を嗅いだ女房たちは、そんなことは知る由もなく、騒ぎ出す。
 『あな、香ばしや。いみじき香(こう)の香こそすれ。げに、あな、めでたの物の香や。京の人は、なお、みやびかに、いまめかしけれ』
 薫の体臭とも知らず、
 「やはり京の人は、香の焚き方が違う。さすがに雅に焚くものだ」
としきりに感動するのである。この辺り、紫式部の筆のさえである。
 やがて、童が、浮舟の部屋に食べ物を運んでくる。ところが、肝心の浮舟は、いくら起こしても疲れていて、起き上がろうともしない。食欲もないようだ。それを女房たちが代わりに食べている。栗か何かのようである。
 『(女房たち)二人して、栗などやうの物にや、ほろほろと食ふも・・』
 「ほろほろと」とは、栗を食べる音である。それがこちらに聞こえてくる。さすがに女房どものあまりのはしたなさを見るにしのびず、
 『退き給へど、またゆかしくなりつつ、なほ、立ち寄り立ち寄り見給ふ』
のである。いったんは垣間見から退いたのだが、やっぱり、もっと見たくて、何度も何度も障子の穴に寄って行っては見た、というのだ。それほどに立ち去り難かったのだ。
 ついに、
 『日も暮れもてゆけば、君も、やをら、出でて、御衣など着給ひてぞ』
弁の尼という者を召して、話をし始める。
 ここで、ついに薫の垣間見は終わった。

 さて、この間、何時間かかったことであろう。スタートしたのが、12時前後。終わったのが、「日も暮れ」ということだから、午後6時ころであろうか。なんと六時間も垣間見をし続けたのである。これはもうギネスものである。この間トイレはどうしたのだろうか、とか、お茶も飲まなかったのだろうか、などと考えるのは「下衆の勘ぐり」というもので、彼の意識は、ひたすら浮舟に釘付けにされていたのだ。

 この後、薫の出生の秘密を知る弁の尼と、可笑しなやり取りをしながら、浮舟への取り持ちを頼むことになる。
 しかし、これほど垣間見には積極的であった薫だが、源氏のように女に対する積極的な行動力はなかった光源氏なら、空蝉や朧月夜のように、初めて逢った女でも、甘言を駆使して、平気で抱きかかえ、隣の部屋に連れ込んで、思いを遂げた、というのに。この場合も、恐らく源氏であったら、垣間見は10分くらいで切り上げておき、さっさと浮舟の部屋に入り込んで、思いを遂げたことであろう。
 彼は、浮舟を大君以上に愛するようになるのだが、結局、彼の「うじ、うじ」心が災いして、迅速な行動がとれず、官能的で、好色で、女に対しては源氏以上の積極性を発揮する匂宮に、浮舟を奪われてしまう。
 そして、この「うじ、うじ」心が、ついには浮舟を絶望の淵に陥らせてしまうのである。
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