源氏物語

源氏物語たより86

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   初瀬詣での有様  源氏物語たより86

 夕顔の忘れ形見・玉鬘が、右近(夕顔のかつての女房)と十八年ぶりに再会できたのが、初瀬詣でによってである。長谷の観世音菩薩のあらたかなる効験である。玉鬘を何としても探し出したいという右近の一念が、彼女をしばしば初瀬に詣でさせ、その一念が観世音菩薩に通じて、奇跡とも思える再会を可能にした。


 その初瀬は、当時の貴族、特に女性にとっては、「生涯に一度はぜひに」という熱い思いを抱かせる場所だったのである。それゆえ参詣者が絶えなかった。
 前回の『たより』では、このことを扱い、その中で、『蜻蛉日記』や『更級日記』の作者も初瀬詣でをしていると述べた。
 彼女たちは、それぞれ二度も初瀬詣でをしているのであるが、それでは、彼女たちの初瀬詣ではどんなものであったのだろうか、見ていってみようと思う。

 『蜻蛉日記』の作者・道綱の母は、藤原兼家の妻である。藤原兼家といえば、後の摂政太政大臣で、藤原道長の親である。道綱の母は正妻ではないが、そんな栄光の人と結婚したのが、彼女の人生を狂わせる元となってしまった。男(兼家)が、彼女の元にあまり通わなくなるのも、そう遠いことではなく、夜がれが始まったのである。その思いが次の歌を生んだ。
 『嘆きつつ一人寝る夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る』
 蜻蛉日記は、そんな女の恨みつらみや哀しみを綿々と綴った日記である。源氏物語を遡ること30年(977年ころ完成か)であるが、源氏物語以前にも、かくも人間の心のひだを鋭く描いた作品があったのかと思わせる、見事な日記である。岩波書店『日本古典文学大系』の注釈には、『格調の高さ、叫びにも似た訴えの激しさ』とある。確かに救いようのない女の哀しみが満ちた日記である。ただし、やや「綿々」としすぎるきらいがあって、源氏物語のように読むたびに心躍るという作品ではない。

 さて、そんな道綱の母が、最初に初瀬詣でをしたのは、兼家との関係から距離を置き、しばしの安らぎを得たいと思い立ったからのようで、お忍びの旅であった。
 京~宇治~奈良~椿市~長谷寺
 これが彼女たちがたどったコースである。そして、宇治周辺と奈良(東大寺周辺)に宿泊するというのが標準で、概ね牛車での旅で、片道三日をかけた。例の玉鬘は徒歩でということだったので、疲れ果てて、行きに四日間も要している。初瀬に三日とどまるとすれば、合計七泊八日という大旅行になる。道綱の母は、
 『年ごろの願あるを、いかでか初瀬にと思ひたち』
て、出かけた。彼女の境遇からすれば、願は山ほどあったことであろう。
 朝六時、九条河原にある法性寺を出発、正午、宇治の院に到着した。周囲を見やれば
 『木の間より水(宇治川)の面つややかに、いとあはれなる心地す。・・(車の)簾まき上げて見れば、網代どもをしなしわたしたり。行き交う舟どもあまた、見ざりしことなれば、すべてあはれにをかし。』
 貴族の女性が、こんな風景を見ることなどまずないであろう。宇治の風物に「あはれにをかし」と、すっかり見惚れて、時の移るのも忘れてしまうほどであった。この時は、おらく夫・兼家との悶着などはすっかり念頭から離れていたことであろう。
 その日の夕方六時、橋寺(宇治に近い木津)というところに泊まる。そして翌日
 『けふも寺めくところに泊まりて、またの日(次の日)は、椿市といふところに泊まる。』
 「寺めくところ」とは、奈良の寺院の多いところ、つまり東大寺あたりを指しているのであろう。そして、三日目が、例の「椿市」である。玉鬘が、疲れ果てて宿で休憩せざるを得なくなり、そのために右近と劇的な出会がもたらされたところだ。ここは、長谷寺の門前町で、当時殷賑(いんしん)を極めていたという。道綱の母が訪れた時も、貴賤さまざまな人々で賑わっていた。長谷寺にはもう一里ほどのところである。
 ここ椿市までは、『たひらかに』来たとある。それは彼女が牛車で来たからであろう。が、徒歩の供人たちは、宇治のところですでに、『こう(困)じはてて』いた。やはり徒歩では相当の難行だったようである。玉鬘がダウンするのも無理はない。
 この日はいよいよ長谷寺詣でで、御堂に籠る。
 さらに初瀬にとどまりたかったようであるが、翌日はもう帰りで、同じコースをたどって、宇治まできた。そこに夫・兼家が迎えに来ていて、兼家お付きの多くの供人を交えて大仰な「もうけ(宴)」が催される。

 二回目の彼女の初瀬詣では、父と同道であった。そのため、『いときらきらし』き旅になった。この時も同じコースをたどるが、やはり宇治にはひとしおの感慨を催したのだろう、行きも帰りも、宇治の様がこと細かに書かれている。特に心惹かれたのが鵜飼である。
 『足の下、(多くの)鵜飼(舟が行き)ちがふ。鵜舟どもなど、まだ見ざりつることなれば、いとをかしう見ゆ。・・夜のふくるをも知らず見入りたれば』
お付きの者が、早く宿に帰らせたまえと促すので、部屋に戻ったが、それでも
 『(部屋から)あかず見やれば、れいの夜一夜、(篝火を)灯しわたる』
風情であった。この帰りは、宇治で大饗宴となった。なにせ兼家の妻と受領である彼女の父の一行の、公の初瀬詣でである。多くの人々が参集するものものしい宴となった。

 それでは、『更級日記』の作者の旅はどんなであったのだろうか。『更級日記』は、源氏物語の五十年後の作品である。
 こちらは、最初から、ルンルン気分である。まるで小学生の遠足のようである。
 京を出立する日は、たまたま「大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい 川で身を清める儀式)の日」であった。天皇の御代替わりに行われる大変な行事である。京中の者、国中の者がその見物のために沸きたっていた。彼女は、何とその日に初瀬詣でをしようというのである。だから誰も誰も、
 『(天皇)一代に一度の見ものにて・・月日多かり。その日しも京を振り出て行かむも、いとものぐるほし』
と非難する。初瀬詣での日にちなどはいくらでもあろうに、よりによって大嘗会の日に旅立ちとは・・、と言うわけである。しかし、それが彼女にとっては得意である。
 『物見て何にかはせむ。かかるをりに、詣でむ志を、さりともおぼしなむ。必ず仏の御しるしを見む』
 「大嘗会を見たとて何になろう。こういう時こそ仏の御利益があるというものだ」と意気盛んである。

 暁(朝六時ころか)、京の二条を出立し、法性寺を通り、宇治に着く。ここには、藤原道長からその子・頼通に引き継がれた藤原氏の別荘、後の平等院がある。彼女の思いは、すぐさま源氏物語に飛んだ。
 『紫の物語(源氏物語のこと)に宇治の宮の娘(大君、中の君)どものことあるを。いかなるところなれば、そこにしも住ませたるならむと、ゆかしく(見たいと)思ひし所ぞかし』
 『(平等院に)入りて見るにも、浮舟(宇治十帖のヒロイン)の女君のかかる所にやありけんなど、まず思ひ出る』
と、もう初瀬詣でなどはそっちのけで、ひたすら源氏物語の追っかけである。
 その後、道中の栗駒山では「盗賊が出る」の、山を越えたところに取った宿は大層わびしげな「下衆の小家だっ」の、「泥棒が・・」などと、まるで弥次喜多道中である。
 二日目は、東大寺を参拝、さらに石上神社に寄り、山の辺の寺に泊まる。その翌日はいよいよ長谷寺である。そして、ここに三日間留まり、帰洛という旅であった。
 二回目の旅は、夫と一緒なので、盗賊や泥棒の心配もない、のどかな旅であった。

 二人の二度の初瀬詣でを見てみるに、不思議なことは、仏の姿がほとんど見えないということである。あの二丈六尺(8,1メートル)という巨大な仏(現在のもの)が、まったく日記には登場してこないのである。しかも、彼女たちの願はどうなってしまったのか、どういう願をたてたのか、これについての記述が一切ないのである。
 道綱の母などは、夫・兼家との夫婦仲修復という大願があったはずなのに、一回目は何もそれに触れてはいないし、二回目も『(思うことは多かったが)なにごとも申さで』
帰ってきてしまっている。
 特に『更級日記』の作者は、
 『何事も心にかなはぬこともなきままに、かやうにたち離れたる物詣でをしても、道のほどを、をかしとも苦しともみるに、自ずから心も慰め・・さしあたりて嘆かわしくおぼゆることもないままに・・』
という生活状況であった。深刻に仏に願をたてる必要など、さらさらなかったようである。彼女たちは、石山や鞍馬や比叡の横川などを何度も詣でているのだが、それらも、敬虔な信仰心とか願をたてるとかというものでなく、旅そのものが目的だったような気がする。
 平安人の宗教心や生活様式というものが垣間みられて面白い。
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