源氏物語

源氏物語たより93

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   紫上の悲痛な叫びを理解しよう 源氏物語たより93

 源氏物語には非常に難解なところがあって、どの解説書を見てもその内容が理解できないことがよくある。『たより84』の『夕顔』の巻などがその一つである。『若菜下』にもいつも引っかかるところがある。たとえば次のような場面である。
 


 光源氏は、朱雀院のたっての望みということもあって、院が、愛してやまない娘の女三宮(以下 三宮)と結婚することになった。彼女は、内親王であるから、今まで六条院の正妻格であった紫上よりも、はるかに上の身分である。したがって、自ずから六条院の女主は三宮ということになった。今までずっと六条院を切り盛りしてきた紫上にとっては屈辱である。

 結婚後久しくして、三宮が、父・朱雀院に会いに行くことになった。その折、院に三宮の琴(七絃琴)の実力のほどを聞いてもらうことにした。
 良い機会であるということで、事前に六条院で、他の女方も交えて、合奏するという女楽の試みを催すことになった。紫上の和琴(六弦)、明石君の琵琶、明石姫宮(東宮の女御)の筝の琴(十三弦)という四重奏である。
 この試みの女樂は、見事なものであった。

 その翌日のこと、源氏は、紫上を相手に女樂について語りあっていた。話は次第にしんみりした内容になっていき、源氏は、自らの半生を顧みながらこう言う。
 「今まで私は、さまざまなもの思いをし、悲しいことや不満なことを経験してきた。しかし、その代わりとしてこの歳まで命長らえることができた。
 それに比べて、あなたは私の元にいたから、何のもの思いもなく、心安く過ごすことができたことでしょう。その面では、あなたは人に優れた宿世だと思いますが、それがお分かりですか」
 これに対して、紫上はこう答える。
 『のたまふやうに、ものはかなき身には「過ぎたる」よそのおぼへあらめど、心に堪えぬもの嘆かしさのみ、うち添ふや、さは、自らの祈りなりける』
 (あなたがおっしゃるように、何の後ろ盾もなく頼りない私は、六条院でこのように生活できますのは「分に過ぎた幸せである」という世間の人の思いもあるでしょうが、自分の心ひとつでは、とても耐へることのできない嘆かしさが、いつも身に付きまとっています。それが自らの祈りなのです)

 源氏の言葉は、なんとも自己本位な考えで、紫上に恩を強要している嫌らしさがあるのだが、事実その通りなのだから、紫上は「おっしゃる通り」と言わざるを得ない。
 ただ、「何のもの思いもなく、心安く過ごしてきたことだろう」と言われると、素直に、「その通りです」とも言えない。そこで、「とても心ひとつでは堪へることのできない嘆かしさが・・」と、ささやかな反論をするのだ。
 それでは、彼女が最後にもらした言葉、『さは、自らの祈りなりける』とは、一体どういう意味であろうか。これがまことに難しく、容易に理解できない。そこで、やや煩雑ではあるが、有名な三人の文学者の解釈をそのまま上げてみることにする。

 玉上琢弥『源氏物語評釈』角川書店
  「もの思いにうちひしがれて、それが生への支えになるのだが、もの思いがなくなりもの嘆かしさがなくなる時、それは生   きる気力を失う時なのである」
 山岸徳平『日本古典文学大系、源氏物語』岩波書店
  「私自身の生きる上の祈祷であったものか(それで緊張もし、今まで長らえてきたものであったものか)と思 う。」
 秋山虔他『完訳 日本の古典 源氏物語』小学館
 「憂愁こそ自分のための祈祷、人生の支えだった」

 山岸と秋山他の訳は、主旨は同じことであるが、これでは何のことやらさっぱり分からない。これで、「自らの祈り」の訳になっていると思っているのだろうか。もしこの解釈で紫上が言わんとすることが理解できるという人は、極めて頭脳明晰な人だと思う。
 玉上の訳は、全体の意味は分かるとしても、やはり「自らの祈り」の訳にはなっていない。
 いずれにしても三者とも主旨は、
 「嘆かしさ、もの思い、あるいは憂愁こそは、生きる支えになるものである」
ということである。

 しかし、紫上の言葉は、そんなに単純なものだろうか。
 私は、この場面を読むたびに、いつも涙が滲んできて仕方がないのだが、もし三人の文学者が解釈されているような意味だとすれば、涙など出てくるはずがないのだ。なぜなら、
 「嘆き悲しみは、生きる上で大事なことで、その嘆き悲しみを持ち続けていけば、これからの人生は盤石で、さぞ長生きすることができることでしょう」
ということになってしまうからだ。これでは、涙など引っ込んでしまって、紫上に万歳三唱をしなくてはならないことになってしまう。紫上は「心に堪へぬ」と悲痛な叫びをあげているのだから、これではすこしも彼女の思いに寄り添った訳にはなっていず、紫上にとってはなんとも薄情な訳し方である、

 実は、「さは、自らの祈りなりける」と言ったあと、次のような言葉が続くのである。
 『・・とて、残り多げなるけはい』
 つまり、何かもっともっと源氏に言いたいことがいっぱいあるのだが、源氏に言っても仕方ないと思って、言いさしてしまったのだ。つまり相当深刻な思いを持っているということだ。そしてこの後、彼女はこう切り出す。
 『まめやかに(真面目な話)、いと行く先(残りの寿命)少なき心地するを。今年もかく、知らず顔にて過ぐすは、いと後ろめたくこそ(気がかりである)。先々聞ゆること、いかで御許しあらば』
 「先々聞ゆること」とは、出家のことである。先きにも彼女は出家をしたいと申し出ていたのだが、源氏は、がんとしてこれを許そうとしなかったのである。
 彼女が、なぜ再三にわたって出家を願い出たのだろうか。それこそ、彼女の「もの嘆かしさ」と関係があると考えなければならないのではなかろうか。

 それでは、彼女にとっての「もの嘆かしさ」とは、一体何なのだろう。
 紫上は、いつも六条院にいて、そこからから出ることはなかった。だから、彼女の嘆きや悩みは、六条院の中で生じるものとしか考えようがない。ただ経済的な面や身分上では何の心配もないのだ。その上、彼女は聡明で、しかも人柄も立派だから、六条院のすべての人々の信頼を得ている。何一つ非難されることとてないので、この面から嘆きや悩みが出てくるとは思われない。
 とすると、源氏とのかかわりの中から出て来るものとしか考えようがない。
 その一つが、彼の色好みによるものである。四十歳にもなって、もうそんなことはないだろうと安心していた矢先、突然十四歳という若さの内親王と結婚したのである。さらに、かつての愛人・朧月夜とも再び熱い逢瀬を始めたようである。
 三宮との新婚三晩、また嘘を言いながらも、そわそわと朧月夜に忍んで行く姿には、どれほど心を痛めたことであろうか。源氏のこの色好みは、いつになってもやむことはなさそうである。その面で彼女の嘆きは尽きることはないのだ。
 それ以外では、源氏のはなはだしい自己中心的な考え方、優しい言葉とは裏腹な行動、自負心の強さ・・など、枚挙に暇がないほどなのだが、それらに幾たび悩み惑わされ、辛い思いをさせられてきたことか。

 嘆いているうちはまだ救われる。肝心なことは、その嘆きが、やがては恨みや憎しみに変わって行くのではないのかということである。源氏は、紫上にとって、何物にも代えがたい恩人である。その恩人を恨み、憎みなどすることが許されることであろうか。それは、恩をあだで返す罪悪でさえあるのだ。
 恨みや憎しみに変わっていくであろう嘆きは、「祈り」をもってしか消すことはできないのだ。祈りとは、出家することで可能である。彼女にとっては、出家は必須のことなのである。

 実は、この年は、紫上は三十七歳の重厄の年であった。源氏は、盛んに
 「厄落としのための祈祷をしなさい」
と勧めている。しかし、彼女にとっては、自らの命など問題ではないのである。「行く先少なき心地する」と諦観にも等しい割り切り方をしているのだ。だから、「自らの祈りなりける」とは、「自分の命よりも、この嘆きが、あなたを恨み憎みすることにならないか、それをこそ避けなければならない」のだという必死の叫びなのである。
 源氏は、紫上のこの必死な思いが分かっていない。ただ、
 「私が、これほど深くあなたを愛しているのだ、私が、あなたを幸せにしてきたのだ、何の不満があるというのだ」
というばかりである。

 『紫式部日記』にこんな場面がある。
 紫式部が仕える中宮彰子が、一条天皇との間に皇子(後の後一条天皇)をもうけた。
 藤原道長にとっては初孫である。道長の喜びはもとより、土御門邸は、その祝いに大はしゃぎである。やれ産養(うぶやしない)だ、天皇の土御門邸への行幸だと、沸き立っている。
 ところが紫式部は、独りこう呟(つぶや)く。  
 『めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引くかたのみ強くて(出家遁世の思いに強く引かれて)、もの憂く、思はずに嘆かしきことの勝るぞ、いと苦しき。
 いかで、今はなほ、もの忘れしなむ。思ひがひもなし(みんな忘れてしまおう、思ってもかいのないことだから)、罪も深かなりなど、明けたてばうちながめて(朝になると思い悩み)、水鳥どもの、思ふことなげに遊びあへるを見る』
 紫式部のこの時の嘆きやもの思いが、なんであるかはわからないが、とにかく、嘆きやもの思いは、周りの人をも嘆かせるもので、それは罪深いことである。
 嘆いても仕方がない、もの思いに沈んでもかいのないことだ、と理性では納得できるのだが、現実のさまざまな煩わしさに遭遇すると、また新たな嘆き、もの思いが生まれてくる。それを断ち切るためには、現実生活のほだしを切ること、つまり、出家遁世によるしかないのだ、という思いである。
 しかももの思いや嘆かしさは、極楽往生の妨げにもなるのだ。

 改めて、紫上に帰ってみよう。紫上の思いもまさにそこにある。現世でのもの思いや嘆きは、周りの者をも嘆かせる元となる。そして、嘆きの積もりは、やがて恨み憎しみに変わっていく。多大な恩を受け、惜しみなく愛を注いでくれる源氏を恨み憎むことは、大いなる罪である。それを消す方法は、祈りしかないのである。祈りは出家を持って可能である。それしか、現実の世界でもあの世でも、安穏な生活を送る方法はないのだ。
 このように彼女の祈り(出家)の思いは、生易しいものではなかったのである。ところが、源氏は、つれなく言い放つ。
 『それはしも、あるまじきことになん』
 厳しい源氏の拒否を聞いた紫上は
 『「例のこと」と、心やましくて(心安らかでなく)、涙ぐみ給へる』
のである。
 源氏はいつも自己本位に生きてきたから、人(紫上)の嘆きや悲しみを理解することができない。源氏との間の溝の、なんと深いことか。この溝を埋めるすべはもうない。紫上にとっては、死もって解決するしか、方法はなくなったのである。
 私が、いつもこの箇所で涙をにじませたのは、そんな紫上の悲痛な叫びが、あったからだ。
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こんにちは 

ジェード・ランジェイことkitilyou命です。
桜満開の時期、春を愛する桜によの容姿をなぞられた、紫上を思いました。何故、彼女が、秋より春を好しとしたか、桜の樹の下で思いました。私も、紫上の祈りの言葉に、泣けてしまう一人です

Re: こんにちは 

> ジェード・ランジェイことkitilyou命です。
> 桜満開の時期、春を愛する桜によの容姿をなぞられた、紫上を思いました。何故、彼女が、秋より春を好しとしたか、桜の樹の下で思いました。私も、紫上の祈りの言葉に、泣けてしまう一人です

 源氏物語のテーマは多すぎて、簡単にこれと決めつけるわけにはいきませんが、現在私個人として捉えているものの一つが「あはれ」です。本居宣長の言う「もののあはれ」と同じことかもしれませんが、私は「あはれ」を「変化する相」と見ています。
 この世の変化のうち最も大きなものが「別れ」でしょう。中でも生別、死別が最大のものと思われます。そして次には「恋」が上げられましょう。恋ほど変化するものはないからです。古今集や新古今集に恋の歌が多いのもこのことを物語っています。そして自然の変化も人々の心に「あはれ」を誘います。
 このことについては私の生涯の課題として追及し続けていきたいと思っていますし、いずれまとめてみるつもりでいます。
 さて、ご指摘の「紫上」の件ですが、私も源氏物語を読むたびに、彼女の「哀しみ」に涙します。光源氏がこよなく紫上を愛していることについては疑いようのないところなのですが、人の心は常に「変化」せざるを得ないという宿命を担っています。特に光源氏のような多感な男は、ものことにあたって常に心を動かしています。紫上を愛しながらもそれですむ人間ではないということです。それ故に彼のパーソナリテーには無限の面白さを感じさせられるのでしょう。
 しかし、紫上は、光源氏に「変わらぬ愛」を求めました。そこに彼女の深い哀しみと『自らの祈り」が生まれているものと思います。
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