源氏物語

源氏物語たより101

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  平安王朝の響き  源氏物語たより101

 新聞に、横浜の本郷台で「平安響」という楽団によって雅楽が演奏される、とあったので出かけた。入場無料であるというのがいい。この楽団は、20年前、立正大学の有志学生により始められたものが独立したもので、今に続いているのだという。


 雅楽は、テレビなどで時折放送されるものを、垣間見るくらいで、正式に見たり聴いたりしたことはない。源氏物語にもよく登場するし、日本人の心の原点の一つにもなっているのだろうから、まあ一度くらいは見ておく必要もあろうかという、軽い気持ちで出かけた。

 源氏物語には、「宴」や「賀」などが催されるごとに雅楽が登場する。たとえば、花宴や源氏の四十賀、あるいは、競射や競馬などの折にも演奏され、舞われる。とにかく当時は、催し物といえば、雅楽はつきもので、雅楽がなければことが始まらないというほどに、平安人はこれを好んでいたようである。
 琴や笛や琵琶などは、一人静かにつま弾かれたり、あるいは何人かによって合奏されたりしたものである。
 笙(しょう)や篳篥(ひちりき)は、琴や笛などのように一人で演奏されるものなのかどうかは知らないが、何か締まりのない騒々しい音を出すので、やはり合奏用なのであろう。そういえば源氏物語では、上流貴族が、笙や篳篥を吹く場面はない。恐らく専門家か吹くか、近衛の兵士あたりが演奏したものだろう。打楽器も同じように上流貴族は叩かない。これらは下賤の者が奏する楽器なのであろう。

 清少納言は、これらの楽器の特徴をうまく捉えて、それを面白く紹介している。いささか長くなるが、参考になるので上げておこう。

 『弾くものは、琵琶。・・筝の琴いとめでたし。調べは想夫恋』  (218段)
 『笛は、横笛いみじうをかし。遠うより聞こゆるが、やうやう近うなりゆくもをかし。近かりつるがはるかになりて、いとほのかに聞こゆるもいとをかし。車にても,徒歩よりも、馬にても、すべて、ふところにさし入れて持たるも、なにともみえず、さばかりをかしきものはなし。(略)
 笙の笛は、月の明きに、車など(乗っている時)にて聞きえたる、いとをかし。ところせく持て扱ひにくく(大柄なので仰々しく、扱いにくく)ぞ見えたる。(略)
 篳篥は、いとかしまがしく、秋の虫をいはば,くつわむしなどの心地して、うたて(嫌で)けぢかく聞かまほしからず。ましてわろく吹きたるは、いとにくきに、臨時の祭の日、まだ(楽人が、帝の)御前には出で果てで、もののうしろに横笛をいみじう吹き立てたる、あな、おもしろ、と聞くほどに、なからばかりより(その半ばころから篳篥が)うち添えて吹きのぼりたるこそ、ただいみじう、うるはし髪持たらん人も、みな立ち上がりぬべき心地すれ(略)』                                              
 随分長い引用になってしまったが、今回の雅楽の演奏と引き比べてみて、各楽器の特徴を見事に捉えていて、その観察眼、表現力には驚かされる。
 琵琶は、明石の君の得意とする楽器である。また、平家琵琶などとしても登場するし笙や篳篥に比べれば、よく知られているので今更言うまでもないが、今回の演奏会では、ただ1基だけだったのであまり目立たなかった。

 以前、上原まりの筑前琵琶を聞いたことがあるが、あの時は源氏物語(瀬戸内寂聴訳)の語りとあいまって、感動的に聞くことができた。今回は、笙や篳篥のかしまがしい音にかき消されてしまい、存在感の薄い楽器になっていた。独奏用なのかもしれない。
 筝の琴は、源氏物語でもいたるところに出て来る。清少納言が、琴の調べ(曲)として合う曲に、まずは「想夫恋」をあげているが、源氏の息子・夕霧が、亡き柏木の未亡人・落葉宮に恋心を秘めながら、共に想夫恋を弾く場面がある。後で源氏にその話をしたところ、
 「未亡人と想夫恋を合奏するというのもどんなものだろうか」
と、源氏に皮肉を言われ、たしなめられている。
 今回の琴は、普通の十三弦のものより小ぶりのものであった。琴にはこの他に、七絃の琴の琴、六弦の和琴がある。
 横笛は、嫋嫋とした音色で、情感豊かである。月の皓皓と輝く夜などにほのかに聞くのなどは、堪えられないほどのあはれを覚えることだろう。もっとも清少納言が言うとおり、吹く人によりけりではあろうが。
 源氏物語には、末摘花の家で滑稽を演じた源氏と頭中将が、その帰りに
 『一つ車に乗りて、月の、をかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合わせて大殿(左大臣邸)におはしぬ』
とある。彼らはいつも腰に笛を挿していたようである。
 また、横笛と言えば、平家物語の『敦盛最期』を思い出す。一の谷に追われた平氏は次々に打ち取られていき、若き武将・平敦盛も、熊谷直実に頸を刎ねられる。直実が、
 『よろい直垂を取って、頸(くび)を包まんとしけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ腰にさされたる。「あな、いとおし。この暁、城のうちにて管弦し給ひつるは」』
と、嘆く感動的な場面である。平家は、すっかり貴族化してしまい、戦場でも管弦を尽くし、中には笛を腰に挿したまま首刎ねられていった者もいたのだ。平安貴族の雅が、そのまま平氏の公達に受け継がれていったようである。

 「笙の笛」とは、「木製の椀型の頭(かしら)の周りに、長短17本の竹管を環状に立て、頭の吹き口に口を当てて吹く」管楽器で、両手で挟んだ頭の吸い口に、口を押し付けて吹くのが、なんとなくユーモラスである。清少納言はその吹く様子を
 『吹く顔や、いかにぞや』
と言っている。あまり恰好の良いものとは思っていなかったようである。今回は大勢の人が吹いていたので、「吹く顔や、いかにぞ」というほどには、演奏者の顔は見えなかった。「大仰で持ち扱いにくい」と清少納言は言っているが、それほど大きいものではない。なぜ扱いにくいと言ったのだろうか。当時の笙はもっと大型だったのだろうか。いずれにしても、その音色は、現代人にはなじまない。ご遠慮申し上げたい音である。

 笙以上に「ご遠慮申し上げたい」のが、清少納言が言うとおりやはり「篳篥」である。まあそのかしましいこと、あきれるほどで、破壊的な音である。笙とともに、現代人には合わない楽器である。生理的な嫌悪感さえ覚える。清少納言が、これを「くつわむし」に喩えたは卓見である。『うたてけ近く聞かまほしからず』と言っている。「うたて」とは、「不快なさま、うとましいさま」ということである。「聞かまほし」といえば「聞きたい」ということなのだが、その反対の「聞かまほしからず」と言っているのだから、彼女も篳篥には我慢できなかったのだろう。さらに念を押すように、
 「横笛を心地よく聞いていたのに、途中から篳篥が割り込んできて、何とも興ざましなこと。これではしゃんとした髪の持ち主でも、髪の毛が逆立ってしまう」
とまで言っているのだから、もう敵意にも等しい感情を持っていたということである。いかに凄まじい音であるかが分かるというものである。
 やはり古代人の感覚も、現代人と同じだったのだろう。
 この楽器は、縦笛で、18センチほどの小さなものなのに、なぜあんなに凄まじい音を出すことができるのであろうか。しかし、篳篥は、
 「雅楽の主要旋律楽器で、唐樂(中国の音楽)はもちろん、高麗楽、東遊(あずまあそび 歌舞の一種)などの日本古来の楽舞や催馬楽、朗詠に至るまで各種の歌曲の伴奏に用いられる (広辞苑)」
楽器だというのだから、非常に大切な楽器であったことに間違いはない。ひょっとすると清少納言の感覚そのものが、古代人的でなく、現代人に近かったのかもしれない。

 「平安響」は、これらの楽器の他に、太鼓、鉦鼓、鞨鼓(かっこ)などで演奏したが、なんとも眠い。周囲に何人も睡眠をむさぼっている人がいた。とにかく、同じリズムの、単調な旋律がいつ果てるともなく、だらだらと続くのである。変化のない荒野を線路がどこまでも続いているようなものである。
 最後の曲は『越天楽』だったが、正月などに、琴などで弾かれるあの越天楽とは違って聞こえた、間延びしていて相変わらずどこまでも「線路は続くよ」であった。

 ところが、後半の『舞楽』に入って目が覚めた。管弦とは雰囲気ががらりと変わり、耳だけでなく、目も楽しませる。
 最初の曲は『陵王』。
 北斉の時代(6世紀中ごろ)蘭の陵王・高長恭は『音容兼備(とても美しい声と美貌の持ち主)』であったために、兵士たちが見惚れて士気が上がらない。敵に侮られるのを恐れた陵王は、獰猛(どうもう)な龍の頭の仮面をかぶって出陣し、敵を破ったという故事から生まれた舞楽だという。
 緋色を主とした衣装で、誠に派手な綾が織りなされている。仮面は紺青に彩された奇怪な様相ではあるが、それほど獰猛には見えない。あの面の中に、味方の兵士がうっとり見惚れてしまうという容貌が隠されているのかと思うと、何か面白い。仮面の内側を覗きたくなる。手には房の付いた長い箸のようなものを持っている。
 この舞の第一の特徴は、実にメリハリがあるということである。その点が、先ほどの雅楽の演奏とは全く違う。足取りもしっかりとしていて、力強く、腰がぴたりと座っている。舞うというよりも跳ぶような仕草が多く、きびきびとして男性的である。先ほどの長い箸のようなものをグイと天にかざす姿は、敵を圧倒するに十分である。

 二曲目は『納曾利』。
 この舞楽には、一人舞と二人舞があるそうだが、今日は二人舞。こちらは『双龍舞』ともいわれ、二匹の龍が戯れる様子を描いたものである。いつか勘九郎親子の演じる歌舞伎『連獅子』を見たことがあるが、それに通じるものがあった。二匹の龍の舞が、ぴたりと呼吸が合って、見ていて心がぴんと引き締まる。
 この二曲共に、直線的、鋭角的、躍動的で、見ごたえがあった。
 ただ、残念なことには、二つの舞とも、曲が単調であること、そして長々としすぎるということである。舞も同じ仕草が何度も何度も繰り返されるので、せっかくのメリハリを損ねてしまう。一曲20~30分も舞っていたが、半分で十分である。

 光源氏は、紅葉賀の折、頭中将と『青海波』を舞った。
 『木高き紅葉のかげに、四十人の垣代(かいしろ)いひ知らず吹き立てたるものの音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、いろいろに散りかふ木の葉の中より、青海波の輝き出でたる様、いと恐ろしきまで見ゆ』
 「垣代」とは、青海波を舞う時に,庭に垣のように円になって舞人を取り囲む楽人のことで、四十人の垣代の中に颯爽と二人の舞人が舞い込んでくるのである。青海波は、
 「二人の舞人が、青海の波と千鳥の文様をあしらった別装束を着け、千鳥の螺鈿(らでん)の太刀を帯びる。舞楽中、最も華麗優雅な名曲  (広辞苑)」
であるそうだ。その名曲を、若き源氏と頭中将が舞うのだ。その舞の姿は、見る者の涙を誘ったという。弘徽殿女御などは、
 『神など空にめでつべきかたち(容貌)かな。うたて、ゆゆし』
とまで言っている。「あれでは鬼神に魅せられることだろう。まあ、嫌な。気味の悪いこと」ということであるが、裏の心は、「鬼神に魅入られて、死んでしまえばいい」ということである。
 当時も、管弦は、今日演奏されたと同じであったろうし、舞も、今と変わってはいないはずである。源氏の舞った青海波では、面をかぶっていない。だから、彼の素顔もいかんなく見えたはずである。舞の仕草と装束と楽曲と源氏の容貌とが相まって、見る者の心を痺れさせたのだ。鬼神がさらっていくほどの源氏の舞とはどんなものなのであろうか、見てみたい気がする。
 「平安響」で舞われた舞いも、それなりに感動的なものではあったが、「いと恐ろしきまで見ゆ」とまではいかなかった。

 洋楽に慣れてしまった現代人には、付いていけないものが雅楽にはあるのだが、平安朝の人々をあれほど夢中にさせたのだから、必ず何か人の心を引き付ける魅力があるはずである。
 現代人の生活があまりにもせかせかとして落ち着かず、心もそわそわしたしてしまって、ゆったりとしたテンポには馴染めなくなってしまったのだろうが、日本人の原点をもう一度振り返ってみる必要がありそうだ。
 
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