源氏物語

源氏物語たより108

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  心の鬼   源氏物語たより108

 『心の鬼』という言葉がある。古典に時折顔を出す言葉だ。人の心の中には誰もみな『鬼』が棲んでいるという。さて、それはどんな鬼であろうか。
 【 ひけ目、負い目、やましさ、咎(とが)め、恨み、怖れ、不審や疑惑、罪の意識 】
などがその鬼といわれるものである。辞書には「良心の呵責」などとあるが、必ずしも良心の呵責だけではない。


 それでは、これらの鬼は、我々のどういう行為や行動、あるいは言葉などから生じ、そして心の中に棲みつくのだろうか。
 たとえば、仏教などでいうところの「五悪」などは、心の鬼を生じさせる典型であろう。五悪とは『妄語(嘘をつくこと)、飲酒、邪淫、偸盗、殺生』の五つのことである。  
 しかしそれだけではない。もっと単純素朴な行為でも心の鬼を生じさせる。思い浮かぶに任せてそれを列挙していってみよう。
 
 約束を破ってしまった    借りた金を返していない    守るべきことを守らなかった  
 言うべきことを言わなかった 秘密を明かしてしまった 
 相手に恥をかかせてしまった 相手に冷たく当たってしまった 相手に辛い思いをさせてしまった  
 不義を働いてしまった    仕事上の不正をしてしまった 
 自慢・自惚れが過ぎた    頑固で融通が利かなかった   権勢に任せて横柄だった 
 嫉妬が過ぎた        相手を恨んでしまった・・
 
 人は意識するとしないにかかわらず、これらの罪を犯しているものである。人は、他人とのかかわりの中で生きていかなければならない限り、それは仕方のないことである。光源氏の「犯し」などは枚挙にいとまがないほどである。彼は、意図的に犯しをしているのだ。それに比べれば、我々凡人の犯しなどは、無いに等しい。
 いずれにしても、これらが、心の鬼を生じさせるのだ。
 同じ犯しでも、人によって大きな鬼になったり、小さな鬼になったりする。中には、どんな犯しをしても、鬼にならない者もいる。いわゆる冷血漢、鉄面皮のような人間である。普通の者は、犯しが大きければ大きいほど、心の鬼は大きくなるはずである。

 ただこの鬼は、日頃は心の隅に隠れていて、姿を見せない。「鬼」とは「隠(おに)」のことだと言う。姿がはっきりとは見えない得体のしれない存在ということである。
 それが、あることを契機(きっかけ)として、むっくり姿を現すのだ。たとえば、約束を破ってしまった相手に会ってしまった時などは、「負い目」を感じて、できれば会いたくない、顔も合わせたくない、と心が騒ぎ出す、などということである。時にはそれがひどく暴れ出すこともある。心の鬼のなせる業である。
 もっとも、殺生や偸盗などの大きな罪を犯した者の心の鬼は、隅の方に隠れてなどいないで、いつも意識の中で、その者を脅かし続けているのではないだろうか。小さな罪しか犯していない私には分からないが。

 それでは、三つの古典に描かれた「心の鬼」をみてみることにしよう。

 まずは、『枕草子』の『百三十五段』(岩波書店 日本古典文学大系の場合)
 清少納言が仕える中宮定子の故父・藤原道隆(道長の兄)の法要が、月ごとに行われる。ある法要の時に、清少納言が、いつもその才能に感心させられている頭中将・藤原斉信(ただのぶ)が、法要の後の宴席で、ある漢詩を朗詠した。その漢詩が、道隆の法要には誠に時宜を得たものであった。感動した清少納言は、中宮のところにその感動を伝えようと寄って行った。すると、中宮も彼女の方に寄ってきたではないか。二人は斉信の素晴らしい才を、手を取り合わんばかりに褒めそやした。
 一方、斉信は、清少納言のことを憎からず思っていた。会うたびに「どうしてもっと親しく付き合ってくれないのか」と愚痴を言う。すると清少納言はいつもこう答える。
 『さもあらん後には、え褒めたてまつらざらむが、口惜しきなり・・ただおぼせかし。かたはらいたく、心の鬼出できて、言ひにくくなり侍らん』
 「愛人関係になってしまうと、あなたを褒めることができなくなってしまうでしょう。それが残念なのよ。ただ私のことを好きだと思っていてくれれば、それでいいわ。そうでないと、きまり悪いし、気が咎めて、あなたのことを良くは言えなくなってしまうわ」という意味である。 
 ここでは「心の鬼」を「気が咎めること」としている。確かに身近な人や好きだと思う人のことを、良く言うのは、気が咎めるものである。もっとも平気で身内を自慢したり好きな人を大褒めしたりする人がいるが、清少納言は、そういう人の神経を疑っているのだ。そういう人には心の鬼がいないのかしら、という疑いである。

 次は、『蜻蛉日記』の『下』
 蜻蛉日記の作者・藤原道綱の母は、夫・兼家(後の摂政太政大臣)の夜がれに、日々泣かされている。ある夜のことである。
 『暗う家に帰りて、うち寝たるほどに、門いちはやく(乱暴に)叩く。胸うちつぶれて覚めたれば、思ひのほかに、さ(兼家の訪れ)なりけり。心の鬼は、もしここ近きところにさはり(女が月経などの支障が)ありて、帰されて(帰り道)にやあらんと思ふに、人はさりげなけれ(知らん顔をしているけれ)ど、うちとけずこそ思ひ明かしけれ』
 彼女の「心の鬼」は、激しい嫉妬心からくる不審・疑惑であった。夫のすることなすことすべてが信じられないから、余計な詮索をしてしまうのだ。
 この近所に愛人がいて、今夜はそこに通って行ったのだが、相手が月のさわりか方塞がりであったかしたために、仕方がないので戻ってきた、その帰りにここに寄ってみただけなのだろう・・ということである。
 たまに訪れてくれたのだから、そんな詮索などしないで、温かく迎えてやればいいのに、それができない。嫉妬の炎が燃え上がっているから、素直になれないのだ。まさに心の鬼である。

 最期は、『源氏物語』の『紅葉賀』の巻、
 光源氏との不義の子が、ついに生まれた。源氏は、その子が自分の子であることを知っているから、早く会いたくてたまらず、里下がりをしている藤壺宮の家を訪れる。ところが、宮は会わせてくれない。
 それにしても、
 『(若宮は)いとあさましう珍らかなるまで、(源氏の顔を)写しとり給へるさま(で、源氏の子に)まがふべくもあらず。宮の心の鬼にいと苦しく、人の(他人がこの子を)見たてまつるも、怪しかりつる程(晩)の過り(密通)を、まさに、人の思ひ咎めじや』
と、藤壺宮は、怖れるのである。これは深刻である。あれほど自分を寵愛してくれている夫・桐壺帝を欺いて、その子供である源氏と密通を働いてしまったのだ。しかも子供までできてしまった。絶体絶命である。彼女の心の鬼は、計り知れないほどの深さであり大きさであったはずである。それへの激しい悔恨・懺悔・怖れの情である。
 ここでは「人が咎めないだろうか」と言っているだけだが、そんなことで済むことではない。今後、源氏の姿を見るたびに、子供の顔を見るたびに、あの「怪しかりつる程(晩)の過り」が思い出され、心の鬼は激しく騒ぎ出すだろう。これは生きている限り消えることのないものである。
 彼女は、これ以上の源氏の求愛は避けなければならないと決意し、出家の道に入って行く。しかしその出家は、源氏の求愛から逃れるためのみだったろうか。そうではないはずだ。生きている限りこの重荷を負って行かなければならないことは仕方ないとしても、できればあの世に行く時には、この罪を軽くし少しでも償っておくことができないものか、と考えたからだ。今から仏道修行に励むことで、それが可能になるかもしれない。

 地獄は、あの世にあるのではなく、人々の心の中にあるのだ、という人がある。私もそう思う。それが心の鬼なのではなかろうか。
 人は、心の鬼はできるだけ小さいようにという潜在的願望を持っている。そのために自らの行動を自制し言葉を慎ませるのだ。あの世で、地獄の責め苦にあわないためではない。今のこの世で、心の鬼に悩まされることのないよう、平穏無事に過ごせるよう、願っているのだ。
 しかし、それでもいつの間にか何らかの罪を犯してしまう。故桐壺帝は、源氏の悲運(須磨流謫)を見かねて、地獄から這い上がってきて、こう言う。
 『我は、位にありし時、あやまつことなかりしかど、自ずから、犯しありければ、その罪終ふる程(間)、いとまなく』
 賢帝の誉れ高い醍醐帝がモデルになっていると言われる桐壺帝でさえ、いつの間にか犯しがあったのだ。地獄ではその罪を終わらせるために大変忙しいという。
 まして凡人の我々は、いくら慎み深い生き方をしても、いつか相手を損ねているものである。それが心の鬼となって、時に姿を現わし、人々を苦しませるのだ。そうはなりたくないのだが、いつかそうなってしまう。それが人間というものなのかもしれない。それが人の負う業というものなのかもしれない
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