源氏物語

源氏物語たより113

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遥かなる平安京 賀茂祭のこと 源氏物語たより113

源氏物語の講義を受けている時のことである。『葵』の巻のあの有名な葵上と六条御息所の車争いの箇所が教材であったが、講義が一段落して、質問の時間になった。すると女の人が手を挙げた。


 「賀茂祭はどうして一条通りなどを通ったのですか。むしろ三条や四条の方を回った方が、いいと思うのですけれど?」
 質問の意図は、三条や四条の方がにぎやかで、そこを通った方が祭りはますます盛り上がるのでは、ということなのであろう。「ああ、そういうことだったら、私にもすぐ答えられるな」と思っていたら、講師はちょっと戸惑って、
 「間違いがあるといけませんから、調べて、次回お答えしましょう」
と言って、答えを保留にしてしまった。
 しかし、そんなに戸惑うほどの質問だろうか。そもそも、三条や四条まで行ってしまうと、下鴨神社に行くには随分の遠回りになってしまうからではないか。それが一つの回答であるはずだ。
 現在の賀茂祭のコースは、上賀茂神社まで8キロあるという。もし四条まで行くとすると、往復3キロ近い遠回りになってしまう。これは平安時代も同じことであろう。

 それに、距離の面でいうと、もう一つ念頭に置かなければならないことがある。それは、平安時代の内裏の位置と、現代の御所とは全く異なるということである。当時の内裏は、現在の御所よりも約二キロも西(桂川より)にあったのだ。したがって、内裏から上賀茂神社までは十キロもの行程になってしまう。十キロと言えば、京から宇治までの距離に匹敵する。
 当時の朱雀門は、山陰本線二条駅近くで(二条城の近く)、周辺に朱雀高校や朱雀小学校があることで当時を偲ぶことができる。また大極殿跡もこの近くにある。

 当時の賀茂祭がどういうコースを通ったかは定かではないが、現代行われている祭りのコースから類推してみよう。
現代行われているのは、御所の建礼門の前を出発し、丸太町通りに出て東進、河原町通りを鴨川沿いに北上して、今出川通りを横切り、賀茂川を渡り、下鴨神社に至るというものである。昔の一条大路(現在の今出川通りか)は全く通らない。
 当時も、まずは、内裏での儀式を終えると、建礼門の前から朱雀門へ。そして二条大路に出て東進。東大宮大路を北進し、一条大路に出て、賀茂川を渡り、下鴨社神社に至る、というものではなかったろうか。
 内裏を出た五百人もの行列が、十キロ以上も歩かなければならないというのは、容易なことではない。ちなみに、賀茂川には橋が架けられていなかったので、浮橋を渡ったという。牛車や輿や馬などが、浮橋を渡っている光景を思い浮かべると、「大変なこと!」というよりも、むしろ何か滑稽な感すらするほどである。
 いずれにしても少しでも短い距離を選ぶことが必須だったわけである。

 それに、質問者は、平安京のイメージを、現代のものと混同しているのではないか、とも思った。それを説明してあげればいいのだ。現在京都市の中心街は、確かに四条や五条にあるが、平安時代は全く違うのである。
 当時一流貴族の邸は一条から三条までに集中していた。特に、五条を過ぎると、そこは下級貴族や庶民の邸が、ほとんどだったのである。賀茂祭は、元々上級貴族の祭りである。庶民の多いところを通る必要はなかったのだ。これが質問に対する二つ目の答えになるのではなかろうか。
 平安京は、東西が4,5キロ、南北が5,2キロの広さで、その中央を、羅生門から朱雀門に向って、朱雀大路が貫いていた。その突き当りが大内裏で、大内裏に向かって右(鴨川側)が左京、左が右京である。
 この朱雀大路(現在の千本通りあたり)は、八十四メートルという道幅であったが、他の大路は概ね三十メートルで、一条大路も三十メトールの広さであった。

 葵上と六条御息所が、車争いをしたのは、もちろん一条大路なのだが、実は、その日は、斎院(賀茂神社に奉仕する未婚の皇女)の御禊(ごけい 河原で禊をすること)の日であった。賀茂祭は、その数日後に行われる。
 斎院はもとより、天皇や摂関、大臣、上級貴族も、祓(はらえ)や禊(みそぎ)をする時には、みなこの一条大路を通って、賀茂の河原に出た。そのために、
 『一条大路は、此れ祭場なり』
と言われていたそうだ(集英社 『日本の歴史 王朝の貴族』)。したがって、賀茂祭が一条大路を通るのは、当然のコースだったのである。

 光源氏は、御禊の日は、左近中将としての勅使で、行列の中心的人物であったが、祭りの当日は、紫上とのんびり祭り見物をした。彼は、紫上にこんなふうに言って、誘った。
 『君は、いざ給へ(さあ、来なさい)。もろともに見むよ』
 そして、『馬場のおとど』のあたりで見物しようとしたが、
 『今日も所もなく(物見車が)立ちにけり』
という具合で、御禊の日と同じように車の立て所もないほどの猛烈な混雑であった。
 「馬場のおとど」とは、近衛府の者が乗馬の練習や競技をするところで、内裏よりも賀茂川よりにあったという。
 大路の両側には桟敷が立ち並ぶ。そこに数知れない物見車や見物人が集まってくるのだから、その喧騒たるや並大抵のものでなく、しばしば場所取り争いが起こった。葵上と六条御息所の争いもそんなところに原因があったのだ。
 ところが、光源氏は、やはり色男。突然声がかかった。
 『ここにやは、立たせ給はぬ。ところさり聞こえむ』
 (ここにお車をお立ちなさいませ。場所をよけ申しましょう)
と言って女が手招きをしているではないか。そこは祭り見物をするには格好の場所であった。どこの好き者が席を譲ってくれるというのだろう、と思ったら、何と、かの老女・源の内侍(57,8歳の色好み女)であった。
 一条大路は、道幅三十メートル。行列のために十メートルは開けなければならないだろう。その両側に桟敷が詰まっている。
 牛車は、屋形(人間の乗る部分 箱ともいう)そのものは、長さ2,4メートル、幅1メートルが標準だというから、それほど大きなものではないが、轅(ながえ)のなげえこと。轅とは、牛車などで前方に長く平行に出した二本の棒のことで、屋形以上の長さがある。したがって、全長では、六メートル以上になるかもしれない。そうすると、当然、祭り見物の時は横向きに止めたであろう。桟敷のあるところには、止められないから、そこを除いて、牛車は二重三重に止められる。
 六条御息所が、葵上に乱暴されて、端に押しやられ、まともに行列も見えなくなってしまった。これでは
 『なにに来つらん。・・ものも見で帰らむ』
と、帰ろうとするのだが、
 『通り出でん隙もな』
い状況である。車を出そうにも出せず、帰るに帰れない。恥を忍んで源氏の雄姿を涙ながらにほのかに見ているしかないという凄まじさである。御息所の屈辱がよく理解できるというものだ。後に生霊となって、葵上を呪い殺すのももっともなことである。

 私が、賀茂祭を見に行ったのは、もう三年も前になってしまった。河原町通りを交通遮断し、延々と牛車や輿や騎馬や女人列や風流笠などが続く。源氏物語のような混雑はなかったが、それでも人垣が二重三重になっていて、どれが斎王代なのやら、どれが勅使なのやら、さっぱり分からない。いい場所を譲ってくれる女もいない。
 でも、まあ、いい。のんびり平安の風情を勝手に堪能していれば十分だ、と思って見ていた。みんなそんな感じである。人を押しのけたり、道路側にはみ出たりする人もいず、粛々と見ている。場所取り争いなど起きない。現代人は、平安人に比べて優しくおだやかなのだ。
 そして、賀茂川に沿って、上賀茂神社まで付いて行った。もっとも行列は、賀茂川の西側の堤を通っていくのだが、私は東側の河原を歩いていった。堤の街路樹のかげに見え隠れする行列と、川の流れを交互に見ながら、この川は、千年以上、賀茂の祭りを見続けてきたのだろう、などと思った。
 上賀茂神社に到着したが、ここは人人・・で立錐の余地もない。行列がみな境内に入ってしまってから、ようやく中に入っていった。神社の入り口で馬が荒い息をしていた。
 下鴨神社では、走り馬の騎乗の武士の頭しか見えなかったし、上賀茂神社では、はるかかなたに斎王代らしい女性が、六、七人の童女にかしずかれているのが見えただけだったが、はるかな千年の歴史の息吹が、この行列に残っているのだと思うと、日本人の誇りのようなものが感じられて、十分満足であった。
 町の様子も祭りのコースも内容も、今ではすっかり変わってしまったが、これからも少しずつ形を変えながら、何百年も何千年も継承されていくのであろう。
 さあ、次回の講師の回答が楽しみである。

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