源氏物語

源氏物語たより115

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  論理的な古語  源氏物語たより115

 巨人が、10ゲーム以上を残して、早々とリーグ優勝を果たしてしまった。その立役者は阿部慎之助である。打率、打点ともにリーグトップ。ホームランは、首位と二本差の二位。三冠王を狙えるほどの大活躍である。
 

 ところが、そんな阿部にもミスはある。ある試合で平凡なキャッチャーフライを、ポロリと落としてしまって、逆転負けしてしまったことがあるのだそうだ。悔しさ、情けなさに沈んでいると、原監督がこんなことを言って慰めてくれたという。
 『難は有るものさ。だから有難いということだよ』
 原監督の言わんとすることは、
 「“有難い”という言葉があるが、災難は時には有るものだ。だからこそ、その「難」を教訓にして今後に生かすんだな。そう考えれば難も有難いということだよ」
ということであろうか。ともかく、阿部は、監督のその一言で、気が楽になったと、しみじみ語っていた。
 原監督は、「有難い」という言葉を、本来の意味とは全く違えて捉えて、逆にそれを教訓としたのだ。一種の言葉遊びだ。
 「有難い」とは、「(人の親切や好意に対し)感謝したい気持ち、身にしみてうれしい感情」である。
 この言葉は、元々は「あることが、難しい」、つまり「なかなかありそうもない、存在することが稀である」ということである。そして、ここから、「(世にも珍しいほど)優れている、立派である」とか、「またとなく尊い、もったいない、恐れ多い」などという意味を派生してきたのだ。(以上 広辞苑参照)

 源氏物語を読んでいて、やはり古語が支障となって理解をさまてっげる。古語を習熟するまでに、随分の労力と精力が必要になる。
 ところが、慣れてくると古語というものは意外に論理的にできているものだということに気づく。この「ありがたい」という言葉も源氏物語にしばしば登場するが、現在使われているような「人に感謝したい」とか「身に染みてうれしい」などという意味で使われることはほとんどない。恐らく今使われている意味は、随分後になって一般化してきたものではなかろうか。広辞苑でも、「人に感謝したい」の例として挙げられているのは、江戸末期の人気人情本『春色梅暦』である。
 ところで、私が、古語は「論理的である」というのは、たとえば「有難い」という言葉が、「有る」ことが「難しい」つまり「めったにない」からこそ、「優れている」とか「立派である」とかいう意味を生み、それゆえに「またとなく尊い」とか「もったいない」とかの感情が生まれてくる、というつながりのことである。もし「有り易い(いくらでも有る)」のだったら、「立派である」や「またとなく尊い」という感情は生じない。

 源氏物語『桐壷』の巻で、この「ありがたし」をみてみよう。
 寵愛する桐壷更衣を亡くした帝は、悲しみにくれるあまりに、政さえおろそかにするようになってしまった。そんな時に、ある典侍(ないしのすけ)が、桐壺更衣にたいそう似ている人を知っていると帝に奏上する。
 『(先帝)の后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて(似ていて)、ありがたき御かたちになむ』
 「ありがたき御かたち」とは、めったにない御容貌ということで、小学館『日本の古典 源氏物語』では、「世にもまれなご器量よし」と訳している。この姫宮こそ、後に光源氏が、命を賭けてお慕いするようになる理想の女性・藤壺宮である。

 もう一つ、光源氏の将来を占った高麗の相人の言葉を上げておこう。
 高麗の相人は、光源氏の容貌の類まれなことに驚き、首を傾げながら、不思議な予言をする。そして最後にこう言う。
 『かくありがたき人に対面したるよろこび、かへりては悲しかるべき』
 (こんなに素晴らしい相をした人にお会いできた喜びは、会わなければなんでもなかったのに、かえって悲しい離別の思いを生じさせてしまうことだろう)
 とにかく光源氏も藤壺宮も、この世のものとも思われないほどの「ありがたき」人であったのだ。それ故に世間の人々は、
 『(光源氏を)“光の君”ときこゆ。藤壺(光源氏に)ならび給ひて・・“かがやく日の宮”ときこゆ』
と、「光」「輝く」という最高の称賛の言葉をもって褒め称えたのである。枕草子には
 『ありがたきもの、舅に褒めらるる婿。また姑に思はるる嫁。・・主そしらぬ従者』
とある。たしかに姑に良く思われる嫁はいないもので、だから周囲は、「あの嫁さんは偉い」と言うのである。

 古語は、論理的であるから、丁寧に見、そして考えていけば、自ずから意味が想像できてくるものである。またそういう姿勢で古語を見ていくと、いったん覚えた言葉はなかなか忘れないものである。
 古語には、名詞に「なし」がつく言葉が多い。たとえば『心なし』などを考えてみると、そのことがよく分かる。これは「心」が「ない」ということである。したがってそこから「思いやりがない」「思慮がない」「情趣を解さない」などという意味が出てくるのである。新古今集に西行法師の有名な歌がある。
 『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮』
 「僧侶という愛憎悲喜を捨てた身であるが、それでも鴫立つ沢の秋の情趣というものは、しみじみと感じられるものだ」ということで、「情趣を解さない」はずの僧でも、鴫立つ沢の秋の情趣には心を揺すられざるを得ないということである。
 「心」と「なし」を分けて考えてみると、覚えやすい。
 『さがなし』や『わりなし』などもみな同じ論理性を持っている。「さが」とは「性格」ということ、「わり」とは「ことわり(道理)」ということである。「性格がない人」とはどういう人であろうか、「道理がない」とどういうことになるだろうか、などと考えるのも面白い。前者のヒントとしては、光源氏の宿敵・弘徽殿女御は「さがなき」人の典型である、後者としては、『空蝉』に出てくる女房が、夜中にトイレに駆け込むところで 『おととひより腹を病みてわりなければ』が上げられる。
 ただ、古語はいろいろの意味を持つので、論理的にばかりは行かないのでやはり「古典は難しい」。
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