源氏物語

源氏物語たより116

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  性的倒錯の人・薫  源氏物語たより116

 薫は、世間的には光源氏と女三宮との子であるが、実は、女三宮と柏木との間の不義の子である。自分の出生に疑惑を抱いた薫は、生きることに対して懐疑的であり、厭世的である。まじめ人間の世間の評価通り、彼は当時の貴族がこととしていた女遊びには関心を示さず、出家さえ考えている。光源氏の子であれば、将来は大臣疑いなしであり、洋々たる人生が開かれているはずなのに、彼の心はいつも彷徨っていた。


 宇治に住む光源氏の弟・八の宮もまた人生に破れ、俗聖(ぞくひじり)の形で宇治に隠棲している。薫は宇治を訪ねては、仏の道を八の宮に問い、聞きしたりしていた。
 ところがそんな薫が、八の宮の娘・大君に会って、いたく心を奪われるようになってしまう。だが、この大君は早世してしまう。そこで彼の関心は、大君の形代(かたしろ 身代わり)として妹の中の君に向けられていく。中の君は既に匂宮の妻であるにもかかわらずである。
 中の君は、薫のねちねちした求愛を煩わしく思って、義理の妹である浮舟を紹介する。この浮舟がまた大君に似た美しい女性で、彼の心は一気に彼女に傾斜していった。

 この辺りから、「まめ人(まじめ人間)」の面影はすっかりなくなり、「出家遁世」という彼自身の年来の意向も、どこにいってしまったのか、大層な錯乱ぶりを呈していく。
 特に錯乱が頂点に達するのが、浮舟が、投身自殺してからの薫の行動である。
 浮舟は、薫と匂宮という当代を代表する二人の貴公子の愛の間(はざま)で煩悶し、耐え切れなくなってついに宇治川に投身自殺を図る。関係者は、消息不明のまま遺骸なき葬儀をこっそりすませる。薫も匂宮も、ろくに浮舟の行方を探すこともなく、浮舟の死をそのまま信じてしまう。 
 匂宮は、浮舟の死亡当初こそ、病の床に臥すほどに悲しむのだが、後は、さっぱりしたもので、またぞろ好色の振る舞いに走るのである。『蜻蛉』の巻にこうある。
 『(浮舟の死んだ悲嘆は)いといみじけれど、あだなる御心(好色な心)は、(悲嘆が)慰むやなど(と思って懸想を)心み給ふこともやうやうありけり』
 匂宮は、光源氏の血をもっとも色濃く受け継いだ孫であるからこれは理解できることで、色事(懸想)がなくなってしまっては、彼のパーソナリティーそのものが崩壊してしまうからだ。

 信じられないのは、薫である。匂宮の好色の毒牙から守ろうと、浮舟を宇治に隠したほど浮舟にご執心であったのだから、彼女への愛も中途半端なものではなかったはずである。だとすれば、彼女の喪に服する意味でも、しばらくは女性との関係は慎まなければならなかったはずなのに、匂宮以上のあさましい行動を取るのである。 
 その姿を『蜻蛉』の巻にみてみよう。 
 薫には、「小宰相」と言う『いとしのびて語らはせ給ふ』女房がいた。彼女は、女一宮付きの女房である。浮舟の四十九日が終わるか終らない時に、この小宰相と愛のやり取りを始めるのである。そして不遜にもこんなことをつぶやく。
 『見し人(浮舟)よりも、これ(小宰相)は、心にくき気、添ひてもあるかな。』
 浮舟よりも、小宰相の方が「心にくき気」があるというのだ。「心にくし」とは、「奥ゆかしい、上品である」ということである。召人(めしうど 秘密裡の愛人)風情の小宰相の方が、浮舟に勝るとつぶやかれたのでは、まだ成仏できずに中空を漂っているであろう浮舟はやりきれない。あの六条御息所のように、死霊となって現われ出ること必定である。

 そればかりではない。
 明石中宮が、光源氏や紫上のために法事を催した時のことである。法事が終わって、薫は、小宰相でもいるかなと、六条院の中をふらふら探し求めていた。すると、とある部屋の中が、あからさまに見えるではないか。そこで堂々垣間見を始めるのである。
 『障子(ふすまのこと)の細く開きたるより、やをら見給へば・・几帳どもの立て違へたるあわひより見通されて、あらはなり(部屋の中がはっきり見える)。
 氷を物の蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ大人三人ばかり、童とゐたり』
 夏の暑さのためであろう、襖は開け放し、几帳は勝手な位置に立てられているので、氷を割ったりして騒いでいる中の様子が丸見えである。その中に、
 『白き薄ものの御衣、着給へる人の、手に氷を持ちながら、・・少し笑み給へる御顔、いはん方なく美しげ』
なる人がいられた。
 『ここらよき人(たくさんの美しい人)を、見集むれど、似るべくもあらざりけりと思ゆ。御前なる人(女房)は、まことに土などの心地ぞする』
 今まで大勢の美しい人を見てきたが、それらの人とは比べようもないほどの美しさである。おそばにいる女房などは、まるで「土」のようなものだ、と言うのだからひどい。かの小宰相も、「土」のなかの一人である。ということは、浮舟などは、「塵」にもならない存在であるということである。あまりの美しさに驚愕して、彼の心は跳ね上がった。
 この人こそ、女一宮なのである。女一宮は、光源氏の子・明石中宮と今上天皇の子で、薫には、姪に当たる。彼の目は、女一宮の一挙手一投足に釘づけになる。そして
 『いかなる神・仏のかかる折見せ給へるならん』
と有頂天になる。
 さすがの薫も、そんなに錯乱した自分自身が恥ずかしくなったのか、こう述懐する。
 『やうやう聖になりし心を、一ふしの違へ(大君への思慕)そめて、さまざまなるもの思ふ人ともなるかな。そのかみ(その昔)、世を背きなましかば、今は深き山に住み果てて、かく心乱れましやは(心乱れることもなかったのに)』
 大君に逢わなかったら、今頃は世を背いて深い山で修業でもしていることだろうに、と言う。こうなったのも「みな大君のためだ」と責任転嫁をするのだからあさましい。

 でもここまでは許せる。信じられないのは次の行動である。
 六条院から、自分の邸に帰るなり、妻にこう言う。
 『いと暑しや。これより薄き御衣たてまつれ。女は、例ならぬ物(普段着ない物)着たるこそ、時々に付けてをかしけれ』
 女一宮が、薄ものの御衣を着ていたから、お前も薄ものの着物を着よというのである。
 彼は、早速薄ものの着物を仕立てさせ、妻に届ける。ところが、妻は、仕立て上がった衣を着ようとせず、几帳に引き掛けておいた。それを見た薫は、
 「どうしてこれを着ないのか」
と叱り、自ら着せてあげるのだ。しかし、女一宮に似るべくもなかった。 
 そこで、彼は次なる策を弄するのである。女一宮が、女房たちが割った氷のひとかけらを手に持っていた姿を思い、今度は妻に氷の一かけらを持たせるのである。そうして女一宮を恋い偲ぶというわけである。
 薫の妻は、今上天皇の娘・女二宮で、女一宮とは腹違いの妹である。しかも天皇自らが、是非薫にと下された内親王である。美しさにおいてそれほど差はないと思われるのだが、その人に薄ものの着物を着させ、氷を持たせようというのである。薫の行為は、妻を侮るばかりでなく、天皇をも侮る恐れ多いことなのである。

 玉上琢弥は『源氏物語評釈』(角川書店)の中で、このことを
 「これは現代の男性でも試みようとする話である」
と、肯定的に見ている。ひそかに愛する人の服装を自分の妻に着せようとするのは現代人にもあることだ、と言うのだが、そうだろうか。まして愛人が氷を手に持っていたからと言って、妻にも氷を持たせるなどということがあるだろうか。おそらく玉上琢弥以外にはいないはずだ。少なくとも私は、一度もそんなことを考えたことはない。
 これは完全なる性の倒錯である。妖しい映画のワンカットである。
 玉上琢弥は、しばしば紫式部の文章上の問題を「矛盾だ、無理だ、紫式部の記憶違いだ、伏線が粗いだ」と批判するのだが、この巻については、何も疑問をさしはさまない。

 私は、紫式部にかぎって、矛盾や無理や筋の粗さはないと信じ込んでいた。が、ここの場面だけは理解できないのだ。なぜあれほどのまめ人・薫が、かくも豹変してしまったのだろうか。やはり物語の構成上に無理、と言わざるを得ない。女一宮や小宰相を登場させた紫式部の意図はなんなのか、彼女たちは、大君や浮舟とは似ても似つかない別世界の人なのである。

 源氏物語は、因果応報の物語であるとか、あはれの物語であるとか、儒仏の教えの物語であるとか言われるのだが、私は『変化するもののあはれ』を描いたものであると思っている。自然と同じように人の心は常に変化してやまない。特に愛というものは終始変化するものである。その意味では、いかになるまめ人でも、愛の気持ちが変化していくのも、またその心をコントロールできないのも、仕方のないことである。
 ただ、『蜻蛉』の巻の薫の心の変化は、あまりにも唐突であり極端である。
 大君への純粋な愛の物語、その形代としての中の君や浮舟との爽やかな愛の物語と信じて読み進めてきたところ、突然倒錯まがいの愛が闖入してきてしまった。ふっと水を差されたような思いを、いかんともできないのである。

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