源氏物語

源氏物語たより120

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  救いがたい夫婦仲 光源氏と葵上 源氏物語たより120

 光源氏と葵上の仲は救いがたい険悪なもので、絶望的といってもいいほどである。もとより二人の結婚は政略結婚で、ひとかけらの愛もないままに一緒になったので、「夫婦仲良く」を求めるのが酷な話なのではあるが。
 

 葵上は、左大臣が最も大事にして育てた娘である。それが、源氏の元服に際して「添臥し」になった。「添臥し」とは、元々は「寄り添って寝る」ことであるが、東宮や皇子などの元服の夜、その傍に添い寝した女性のことで、事実上の結婚である。
 この結婚によって、左大臣は、桐壺帝が寵愛する源氏を婿にすることができ、政敵である右大臣に対抗する有力な持ち駒を手に入れたのである。なにしろ右大臣の方は、娘である弘徽殿女御が第一皇子をもうけているから、次代の摂政として権力をほしいままにできる立場にあるのだ。左大臣としてはなんとか一矢を報いなければならない。事実この一件で
 『ついに世の中をしり給ふべき(この世を治めなさるはずの)右の大臣の御勢いは、ものにもあらず押され給へり』
という状況になったのである。まさに政略結婚そのものである。源氏物語というと、華やかな「おとこ女の愛の物語」というふうにとらえがちなのだが、実は激しい権力争いが横軸にあって、物語に厚みと深みを与えているのである。

 二人の関係がうまくいかない背景には、さらにもう一つの問題が絡んでいた。
源氏の心を占めていたのは、桐壺帝の寵妃・藤壺宮だったことである。幼くして母を亡くした源氏は、母に生き写しという藤壺宮に限りない思慕を抱き続けてきたが、やがてそれは、歳と共に抑えきれない恋慕の情に変わっいく。
 『ただ藤壺の御ありさまを「たぐいなし」と思いきこえて、「さやうならむ人をこそ見め(結婚したい)。似る人なくも、おはしけるかな。大殿の君(葵上)、いとをかしげに(立派で)、かしづかれたる(大事に育てられた)人とは見ゆれど」心にもつかず』
なのである。その後、藤壺宮以外にも、源氏の女性遍歴は尽きない。六条御息所、空蝉、夕顔・・こんな源氏に葵上の心が開かれるはずもない。

 まず、結婚六年目の『若紫』の巻で、二人の様子を垣間見してみよう。
 わらわ病が回復し、久しぶりに葵上のところに行くと、
 『女君(葵)、例のはひ隠れ、とみにも(すぐには)出で給はぬ』
のである。「例の」とあるところからすれば、源氏が行っても、いつもなかなか出てこないということである。たまりかねた左大臣が無理に出るように促し、かろうじて源氏の前に出てくるのだが、「絵に描いた姫君」のようにしているばかりで、身じろぎもしないという始末である。  
 『(葵上は)心も解けず、(源氏を)疎く恥ずかしきものに思して、歳の重なるに添へて、御心の隔てもまさるを、(源氏は)いと苦しく思わす(心外)』
 で、たまりかねてこう言い放つ。
 『時々は世の常なる御気色見ばや』
「世の常なる御気色」とは、「世間並みの夫婦仲」ということである。せっかく夫が通って行っても出てこようともしない、出てきたと思えば端然として身じろぎもしない。これでは確かに源氏の言うように「世の常」の夫婦ではない。
 しかし葵上にも言い分はある。「あまたの女とかかずらって私を粗略に扱っているではないか。あんたの方こそ何さ!(大臣の娘はこんな言葉つきはしないが)」ということである。
 源氏が夜の御座に入っても、
 『女君、ふとも入り給はず。・・(源氏は)うち嘆きて臥し給』
い、他のあまたの女のことや最近手に入れた紫上のことでも考えているしかないのである。こんなでは子供などできるはずはない。

 そして、新しい年になった。結婚七年目である。
 「今年こそは葵上も変わったところを見せてくれるだろう」
と期待して左大臣の邸に行くと、やはり相変わらずで
 『うるはしう、よそほしき御さま』
のままである。「うるはし」は、葵上の代名詞みたいなもので、「端麗」ということで、きりっとして一分の隙もないということで、キリンビールのようなものである。「よそほし」もまた「おごそかで麗しい」という意味だ。これではとりつく隙もない。そこで源氏は例の嫌味を炸裂させる。
 『今年よりだに、少し世づきて、あらため給ふ御心見えば、いかに嬉しからん』
 「せいぜい新しい年になったのだから、世間並みの妻の様子を見せてほしい」と男は思う。
 一方、女の方にも、ますます心を閉ざさざるを得ない情報が入っている。源氏が最近二条院に得体のしれない女を囲ったという情報である。まさかその女が十歳そこそこの幼女(紫上)とは知るよしもない。そこで、
 「どうせその女の方が、私よりも大事な者(正妻)と考えているのでしょうよ」
と返す。源氏をますます疎ましく思ってしまうのだ。
 二人の間に心をつなぐ要素はない。たまに源氏の冗談好きが役立つことがある。源氏のおふざけに対して、時に返事が返ってくることもあるのだが、たまさかに返ってくる言葉といえば、皮肉っぽいとげとげしいものである。
 源氏は、話好きである。他の女とは途切れることなく話し続ける。夜の明けるのを惜しんでまで話し続けるのに、葵上とは話の接ぎ穂もないのだ。
 とにかく源氏の話は、軽妙洒脱なのである。文学論あり絵画論あり音楽論あり女性論あり、またユーモアもあって誇張もあって皮肉もある。自由自在である。
 夕顔などとは話は途切れず、まるで『息長川』のようであった。「息長川」とは万葉集からの引用である。
 『鳰鳥の息長川は絶えぬとも 君に語らう言尽きめやも』
 「鳰鳥(にゅうどり)」とは、カイツブリのことである。カイツブリは、鴨科の中では最も小さい鳥であるが、潜水が実に巧みで、北島康介のようである。一度潜ると15秒も20秒も息長く潜っている。そしてとんでもないところにひょっこりと浮いて出る、その姿が実に愛らしい。
 そのカイツブリのように息長く流れ続けるという「息長川」の流れが、たとえ途絶えることがあったとしても、私があなたに語りかける言葉が尽きることなどあるでしょうか、という意味である。実に微笑ましくもあらまほしい「おとこ女の関係」を詠った歌で、私の好きな歌の一つである。男女の仲、夫婦の仲はこうありたいものである。
 源氏と葵の間には会話もなく、索漠たる乾燥があるだけである。

 が、考えてみれば、現実にはこんな夫婦はいくらでもありそうな気がする。いやもっと深刻なものも多いかもしれない。会話がないどころか、顔を合わせるのも生理的に嫌だという、そんな関係もあるかもしれない。そうなると離婚をもってしか解決の方法がない。
 源氏と葵上の冷たい関係は、十年続いた。それでも結婚十年目にして、男の子が生まれるのだが、それと引き換えるように彼女は命を終えた。二人の関係は、葵上の死をもってしか解決する方法はなかったのである。

 源氏の女性関係は、決して華やかなものでも楽しいものでもない。藤壺宮とは秘密を抱えた壮絶なものであったし、六条御息所とは生霊騒ぎになるほどのまがまがしいものであった。結局彼女は伊勢に去って行く。朧月夜とは、源氏の須磨蟄居を余儀なくさせるものに発展していってしまった。紫上とは、源氏の愛の独り舞台で、紫上自身は誠に哀れな一生であった。そうして、いずれの女性も出家していった。(紫上は死と交換するように出家)
 でも、これらの女性との関係は、源氏に生きる張りを与えくれた。悩みつつ苦しみつつその都度心の高揚があった。
 それに比べると、葵上との関係は、砂を噛むような味気ないものでしかなかった。しかし、源氏は男であるから、政治や管弦や行楽などさまざまな分野で心を紛らわすことができる。哀しいのは女である。耐えるだけである。
 死を前にして横たわる葵上の几帳台に、源氏が入って行くと
 『例は、いとわづらわしく、恥づかしげなる御まみ(目つき)を、いとたゆげに見上げて、(源氏を)うち(見)まもり聞え給ふに、涙のこぼるる』
姿があった。いつもは気づまりにも恥ずかしくも感じられる葵上の御目なのだが、この時は、だるそうに源氏をじっと見上げて涙をこぼしている。
 この目と涙は、一体何を意味しているのであろうか。いつものような、突き放したうるわしい目でないことは確かである。あるいは、最上級貴族に育った女性の宿命として感情をあらわにすることを抑えていたが、最期にあたっての源氏に対する遠慮がちの感謝と愛情の現れであろうか。もしそうだとすれば、こんなにうれしいことはないのであるが。
 ただ源氏は、息子の夕霧に対しても何かつれなかった。桐壺帝があれほど源氏を寵愛したのに、彼は夕霧に対してそうしなかった。ある大学教授は、
 「葵上のことが好きではなかったから、その子も・・」
と言っていたが、まさかそんなことはあるまい。肝心の妻と子供につれなかったというのは、源氏の最大の咎(とが)と言われても仕方あるまい。

 日蓮の『問答抄』にこんな言葉があるのだが、源氏が聞いたらどう思うだろうか。
 『父子の中にも親の親たる、子の子たるをさとらず、夫婦の会い遭えるも、会い遭えたることを知らず、迷えること羊目に等しく、暗きこと狼眼に同じ』
 親子も夫婦も、先の世からの深い因縁でつながっているのだ、その因縁を知るべしということであろう。

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