源氏物語

源氏物語たより121

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  あまりに女々し 朱雀帝  源氏物語たより121

 天皇は、自らの意思で物事を決するなどということは、もともとできない存在であったのではなかろうか。桐壺帝のモデルといわれる醍醐天皇や平清盛にご登場の後白河天皇のように華々しく活躍される方は稀と言った方がいいだろう。
 それにしても源氏物語の朱雀帝(以下 帝)は、あまりに弱気で女々しく意志薄弱な帝であった。彼のおろおろ姿を見ていると、こちらまで気がおかしくなってしまう。


 帝は、桐壺帝から位を譲られる時に、次のように遺言される。
 「将来の政(まつりごと)の中心人物となるであろう光源氏(以下 源氏)を大事にせよ」
 しかし、現実には源氏の官位剥奪、須磨左遷(実際には源氏自らが須磨に退去したのであるが)という結果になってしまった。故桐壺院の遺言を破ったのだ。このことが彼を大いに苦しめることとなるのである。
 人並み外れた能力を持つ人物を不遇の境に陥(おとしい)れれば、その報いは凄まじい。菅原道真の例(醍醐天皇の御世、右大臣・菅原道真が、左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)によって太宰の権の帥に左遷され、道真は霊となって京に災いをもたらした)が新しい。 
 源氏の力も計り知れないものがある。すべての分野にわたって何人をも凌駕(りょうが)する能力を持っているのだ。超人的と言ってもいい。帝は、そういう源氏の姿を子供の頃から嫌というほど見せつけられてきた。その人物を心ならずも左遷したのである。思えば恐ろしいことである。
 もちろん源氏の官位を剥奪したり左遷したりしたのは、みな祖父・右大臣と母・弘徽殿女御(皇太后 以下大后)の策謀であって、帝自らの判断ではない。帝は、彼らの言いなりになっていただけである。それでも詔勅を出すのは天皇である。責任は免れない。そのために、位にあっても常に源氏の面影がちらついて離れず、まんじりともしない日々を送っていたはずである。

 源氏が須磨に退去して一年、天地が割れるほどの大暴風が須磨を襲った。この時、故院が源氏の夢に現われ、
 「なぜこんなところにいる。すぐにも別のところに移りなさい」
という諭(さとし)を垂れる。と同時に、帝のところにも現われた。
 『御かど(朱雀帝)の御夢に、院の御かど(故院)、御前の御階(みはし 階段)のもとに渡らせ給ひて、御気色いと悪うして、にらみ聞こえさせ給ふ』
 元々病弱の帝は、故院のこのひとにらみにあって、目を患ってしまった。たまたま祖父・右大臣(この時は太政大臣)が死去し、母・大后もそこはかとなく体調を崩していた。右大臣の死は年相応なのだが、帝にはそうは考えられない。みな故院の遺言を破った報いだと思い、
 『いと、おそろしう』
おののくのである。
 夢に現れた故院の「御気色いと悪い」御目と、目を見合ってしまったことで、帝は眼を病んだなどということは、ありえないことなのだが、帝が、故院の遺言を破り、源氏を不遇な状態に陥らせたままにしておくことが、常に呵責の念となり、彼の心身をむしばんでいったのだろう。そしてついに、
 『源氏の君、まことに犯しなきにて、かく沈むならば、必ずこの報いありなむ』
と思い、源氏の召還を考え始めるのである。
 しかし剛毅な大后は、「罪に落ちた者を、三年もしないで許すなどとんでもないこと、あなたの眼病も気のせい」と、相手にもしない。
 翌年、帝の眼病は更に悪化してしまった。大后も物の怪に取りつかれた。ここでようやく、気弱な帝にしては、信じられない決断を下す。
 『后の御諌めをもそむきて、許され給ふべき定め(評定)出で来ぬ』
 何ごとにも逆らうことなく従ってきた母・大后の諌言を無視して、源氏召喚の詔勅を出してしまったのである。朱雀帝とすればまさに一世一代の大決断である。
 この決断には、大后は慌て騒ぐのだが、後の祭りである。大后はこう言って悔やむ。
 『つひにこの人をえけたずなりぬること』
 「この人」とは源氏のこと。「えけたずなりぬる」とは、「圧し去ることができなかった」ということであるが、左遷の間に「源氏の命を奪えなかったこと」と取った方が、大后の人柄を表わしていて、より現実的である。
 あの気弱な帝が、二度にわたって剛毅な母・大后に背いたということになる。それだけの決断力があるのならば、なぜ今までもっと毅然と振る舞わなかったのか、と歯がゆい思いになる。

 源氏をもとの位に戻すや、
 『御心地涼しくなむおぼしける。悩ませ給ひし御目もさわやぎ給ひぬ』
 現金なことにすっかり気持ちも爽快になり、眼病まで治ってしまったのだ。
 しかし、彼の弱気は、その後もさわやぐことはなかった。源氏を御前に呼び寄せては、政のみならず、さまざま相談相手にするのである。源氏に対するせめてもの罪滅ぼしのつもりなのだろう。
 そればかりではない。三十二歳の若さで、位を冷泉(帝)に譲る決意までするのである。冷泉(帝)は、もとより源氏が力強く補佐してきた東宮(実は源氏の実子)である。これをもって、源氏に対する罪障もすっかりすみ、いよいよ彼の体調は回復するはずである。

 しかしそれでも、彼の女々しさは、相変わらずであった。位を下りるについて気がかりなのは、寵姫・朧月夜のことである。朧月夜は、帝の寵姫となっても、源氏との関係を続けていた。
 朧月夜は、女御・更衣ではない。尚侍(ないしのかみ)である。尚侍は宮中の女官のトップ、つまり長官で、一般職である。したがって、帝が譲位し院になったとしても、女御・更衣のように行動を共にする必要はない。身の自由が保障されるのだ。
 帝は、彼女の今後を考えるといたたまれない。そこで、こう言う。
 『昔より、人(源氏)には思ひおとし(私を軽蔑し)給へれど、(私)みづからの(あなたへの)心ざしのまたなきならひに、ただ御こと(あなた)のみあはれにおぼへける』
 「あなたは、源氏に比べて私をいつも軽蔑していられたが、私があなたを思う気持ちは並々のものではない。あなたの今後を思うとたまらない気持である」というのである。なんとも女々し言葉で、皮肉さえ交じっている。さらに
 「どうせ、お望みどおり源氏と結婚するようになるのだろうが、私のあなたを思う気持ちは、源氏に劣るものではないのに・・」
と言って、『うち泣き給ふ』のであるから、情けない。いい加減にしなさいと言いたいところだが、彼の愚痴は容易に止まらない。ついには究極の嫌味が出る。
 『などか、御子をだに、持給へるまじき。口惜しうもあるかな。契り深き人(源氏)のためには、今(すぐに子を)見出で給ひてむと思うも、口惜しや』
 ここのところは、林望氏の『源氏物語謹釈』(祥伝社)を借用しよう。
 「どうして、私の皇子だけでも、お産みにならなかったのか・・、ああ、それはほんとうに残念でならぬ。やがてあの前世からの契り深い人のためには、きっと子をお産みになるのだろう・・それを思うだけでも、私はくやしい。」
 三十二歳の男が、うち泣きながら二度にわたって「口惜し」「口惜し」と言うのだから、とても見られた姿ではない。

 これ以降は、源氏の天下になっていく。院となった朱雀院は、物語の上ではこれで役割を終わったことになるのだが、それでも時折物語に顔を出す。
 たとえばこんな場面出る。六条御息所の娘は、斎宮となって伊勢に下っていたが、御世代わりで京に戻ってきた。朱雀院はこの娘にご執心となり、院に侍ることを強く求めるのだが、源氏の横やりが入って、冷泉帝の后(秋好中宮)になってしまう。
 また、源氏の広壮な邸・六条院に、帝と共に行幸するという歴史上かってない催しが行われるのだ。院という自由な身になっても、臣下にしか過ぎない源氏の邸を訪れなければならないのである。なんという屈辱であることか。
 朱雀院が最後に登場するのが、『若菜』の巻である。最愛の娘・女三宮を、熟慮に熟慮の末、二十五歳も歳の差のある源氏に降嫁させる。しかし、これが大変な誤算で、女三宮の人生を狂わせてしまうことになる。これについては『源氏物語たより49』で述べたところである。
 このように朱雀院の人生は、裏目、裏目の人生である。

 平安時代の天皇は、藤原氏の勢いに押されて、自分の意志で動くことは困難であった。天皇の位も藤原氏の意のまま、いつ位を奪われてもおかしくない立場にあった。花山天皇などは、藤原氏に謀られて仏門に入らせられている。身の安全を図るためには、意志や感情をあらわにしないことである。
 朱雀帝(院)も、動くたびに源氏に左右され、負け犬の運命を背負っていかなければならなかった。あるいは、朱雀院と同じような状況で、「うち泣き」ながら帝の地位についていた天皇も多かったかもしれない。
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