源氏物語

源氏物語たより123

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  それとなしに 権力闘争  源氏物語たより123

 源氏物語を読んでいると、つい光源氏の華やかな女性遍歴や千変万化の筋の面白さに興味・関心が注がれてしまうのだが、実は平安で華やかな物語にはそぐわない権力闘争が物語のあちらこちらに潜んでいるのである。


 『絵合』の巻などは、しゃれた巻名にもかかわらず、内実は光源氏と頭中将との醜い権力闘争が、その中心主題になっている。
 また、『花宴』の巻も、一見、朧月夜と光源氏の恋の物語のように感じられるのだが、光源氏の一番の政敵である弘徽殿女御の住まう殿舎に、光源氏が忍び込むという暴挙から、物語は進展していくのである。彼のその無謀な行為には、政敵である右大臣(弘徽殿女御の父)方に一泡吹かせてやろうという魂胆があったものとしか考えざるをえないのである。
 『紅葉賀』の巻も、同じことが言える。
 桐壺帝が、弘徽殿女御の子である東宮(後の朱雀帝)に譲位しようと決めた時に、まず心にかかったのは、寵妃・藤壺宮との間に生まれた子(後の冷泉帝 実は光源氏の子)の問題である。この子を東宮に立てたとしても、はたしてその安定を図ることができるだろうかという心配がある。なにしろこの子には、頼りとすべき後見人がいないのだ。身内はみな皇族関係ばかりである。政治的・財政的なバックアップの保証がない限り、東宮としての存立は難しい。
 そこで、桐壺帝が手を打ったのが、藤壺宮を后(中宮)にすることであった。
 『母宮(藤壺宮)をだに、動きなき様(しっかりした地位)にし置きたてまつりて、強り(東宮の力)に』

 しかし、ネックはやはり弘徽殿女御である。彼女は、女御として既に二十有余年である。それに、何より桐壺帝との間に第一皇子をもうけ、その子が東宮になっているのだ。その弘徽殿女御を差し置いて、藤壺宮を「后」に据えることなど絶対に不可能なことである。桐壷帝の思いを察した弘徽殿女御は、心中穏やかではない。これは当然のことである。
 世間の人々もこう言っている。
 『げに、東宮の御母(弘徽殿女御)にて、廿余年になり給へる女御を置きたてまつりては、ひき越したてまつり給ひがたきことなりかし』
 にもかかわらず、帝は、牽強付会(けんきょうふかい 自分に都合のいいように強引に理屈をこじつけること)の説を弄して、弘徽殿女御を説得してしまうのである。
 『東宮の御世いと近うなりぬれば、疑いなき御位なり。おもほしのどめよ』
 「「自分が東宮に譲位すれば、あなたは間違いなく皇太后なのだ、そうカリカリしないで、安心していなさい」というのだ。まるで子供だましである。もちろん皇太后の権力も大変なものではあるが、皇后から皇太后に上がるのが自然であり、はるかに権威も高まるというものである。
 それに、藤壺宮は、先帝の后腹の御子(皇后の子)であり、しかも帝の寵愛が厚い。身分的には大臣の娘である弘徽殿皇太后の及ぶところではない。自ずから権勢は藤壺宮皇后の方に靡いていくはずである。事実、臣下の者たちは、殊の外、藤壺宮皇后に靡いていったのである。やがて藤壺宮皇后の子が即位するようなことになれば、弘徽殿皇太后の権威は失墜すること歴然である。

 ところで、桐壺帝が、無理を押して藤壺宮を后にしたのは、藤壺宮やその子のことだけではないような気がする。右大臣方の力をそぐという狙いもあったのではなかろうか。
 とにかく弘徽殿女御との関係は思わしいものではなかったし、彼女の父・右大臣をも信頼していなかった気配がある。桐壺帝が寵愛する光源氏を左大臣の娘・葵上の婿にしてしまったこともその証拠である。葵上は、東宮(後の朱雀帝)から「入内を」と申しこまれていたのだ。
 桐壺院が、崩御された後、東宮(後の冷泉帝)を後見していた光源氏が、右大臣方の恨みを買って、須磨に退去せざるを得ないという藤壺宮皇后にとっては絶対のピンチが訪れる。それでも、彼女と東宮を支えたものは『皇后』という権威であったと言える。弘徽殿皇太后も、そう簡単には藤壺宮皇后に手出しできなかったのだ。その意味で、桐壺帝の「藤壺宮を后に」という思惑は当たったのだ。
 このように激しい権力闘争が『紅葉賀』の巻に、さりげなく描かれているのである。

 当時の歴史を振り返ってみよう。
 一条天皇の御世、二人の皇后(中宮)が並び立つという異例の事態が生じた。一人は、清少納言が仕えた皇后・定子であり、もう一人が、紫式部が仕えた中宮・彰子である。定子は藤原道隆の娘、彰子は藤原道長の娘である。道隆と道長は兄弟である。
 定子は、先に入内し中宮として一条天皇の絶対的寵遇を得ていたし、第一皇子ももうけていた。したがって、彼女の父・道隆の天下が続くものと考えられていたが、何と彼は摂関五年という短期間であっけなく亡くなってしまった。
 道隆亡きあとは、当然息子の伊周(これちか)が継ぐものと思われていた。ところが、一条天皇の母であり道隆・道長の妹である詮子(円融天皇の皇后)の一言で、政権は道長のものになってしまった。詮子は、伊周の人柄を嫌っていたようである。
 彼らにとって、娘が皇后になり皇太后になることは最大の関心事だったのである。皇后、皇太后になれば、絶大な権威をふるうことができるのだ。
 伊周失墜の顛末は、道長の策謀によるものと私は思っている。彼は花山院への不始末があったということで、大宰府に流されてしまい、あっという間に権威の座から滑り落ちてしまった。伊周を葬るという歴史のドラマを演出したのが、『皇太后(詮子)』という権威であった。
 紫式部は、このような争いを目の当たりに見ていたのだ。しかし、女である紫式部が、政治を語るわけにはいかないし、そのような場もない。
 そこで、物語の中に、男の力の世界をそれとなく持ちこんだのだ。それが、源氏物語を、竹取物語や宇津保物語などとは違った、骨太の物語にしているのである。
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