源氏物語

源氏物語たより126

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  疑似自然と疑似恋愛 その2 源氏物語たより126

 『疑似自然と疑似恋愛』を書いた翌々日(11月15日)、散歩からの帰り、たまたまNHKラジオを聴いていたら、驚くべきことを聞いてしまった。視聴者からの投稿を男と女のアナウンサーが読み上げ、それにあれこれアナウンサーがコメントするといった番組である。
 

 その時の投稿内容は
 「最近、柿の実を猿の集団に食べられてしまって困っている」
というものであった。いろいろの話の後、男のアナウンサ-が、こんな質問をした。
 「この季節、モズが木のてっぺんでじっと下界を見つめているけれど、あの時モズは何を考えているのだと思いますか」
 すると女のアナウンサー、
 「柿の実を食べたいと思っているのではないでしょうか」
 それに対して男のアナウンサーがこう言った。
 「うん、猿がね、柿の実をみんな食べてしまうので、一つぐらいは残しておいてくれないかと思って見ているのですよ」
 初めは二人が冗談を言い合っているのかと思った。しかし、二人は本気で話している。「モズが柿の実をたべる?そんなばかな!!」
 モズは、雀を一回り大きくしたくらいの鳥であるが、あれでもれっきとした「猛禽類」なのである。その猛禽類が木の実を食べるはずはない。
 でも、二人のアナウンサーが、自信ありげに言っているので、なにやらこちらが自信をなくしてしまって、改めて事典を引いてみるはめになった。『読本・俳句歳時記』(産調出版)にこうあった。
 『秋になると、木のてっぺんなどで、キーキーと鋭い声で鳴いている姿を見かける。肉食で性質は荒く、鋭いくちばしで蛙や鼠などの小動物を捕獲する。鵙(モズ)は、獲物を木の枝などに刺しておく習性があり、これを「鵙の贄(はやにえ)という」』
 私は、子供の頃、モズには随分苦い思いをさせられている。メジロを飼っていたのだが、うっかり軒先にメジロの籠を吊るしておいたりすると、モズに血を抜かれてしまうのだ。メジロも、鳥籠の真ん中でじっとしていればいいのに、モズに睨まれて居すくんでしまうらしい。パニックになってしまって、籠の端に寄って行ってバタタバタしているうちにモズの生贄になってしまうのだ。
 モズはメジロを食うでもなく、ただ血を抜くだけなのだ。
 垣根の木の枝にバッタやトカゲが突き刺されて、干からびている姿などもよく見かけた。残酷なもので、間違いなくモズは「猛禽類」である。
 川端茅舎の俳句にこんな作品があった。
 『鵙猛り柿祭壇のごとくなり』
 柿の実が、祭壇のように柿の木に満艦飾になる時、モズは、猛り狂ったように「キー、キー」と秋天を切り裂いて鳴く。柿の実ののどかさとモズの猛りは両極端にある。モズは満艦飾の柿を狙って鳴いているわけではない。
 あの二人のアナウンサーは、実際にはモズを見ていない。テレビの映像か絵で見ただけなのであろう。小柄な鳥ながら鷲のように鋭く曲がった嘴、何物をも見逃さないといった油断のない目、空気を切り裂くような鳴き声・・を見、聞いたことのある人は、柿の実をのどかに食べるような鳥でないことはすぐに納得できるはずだ。つまり、アナウンサーの認識は、観念上のモズでしかないのである。

 平安人が、歌に詠い物語に現わした自然も、観念上のもので、まさに「疑似自然」である。
 古今集の『春上』から『冬』の巻までざっと見てみた。すると、植物の種類が極めて少ないことが分かった。ちなみに登場する植物を列挙してみよう。
 梅、桜、藤、山吹、撫子、蓮、卯花、花橘、萩、女郎花、薄、菊、藤衣、紅葉
 これくらいのものである。源氏物語に登場する植物も、これに薔薇(そうび)、竜胆,菖蒲、岩躑躅(いわつつじ)を加えたくらいで、大差はない。なんとも貧困な自然である。
 古今集の『春 上、下』の巻には、134首の歌があるが、何と82首が桜なのである。彼らにとって春と言えば「桜」なのだ。そして、夏といえば「ホトトギス」、秋は「紅葉」、冬は「雪」である。要は、自然は、彼らに「歌枕」として利用されているだけの、哀れなものなのである。
 彼らの詠っているのは、嘱目の景ではなく、観念上の自然であり、頭の中で作り上げた自然なのである。私が「疑似自然」というのはこのことである。

 百人一首の有名な歌、
 『名にし負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな  三条右大臣』
もそうだ。「逢って、さあ寝よう」という名を持っているのなら、逢坂山のさねかづらよ、誰にも知られることなく、その蔓を手繰ってお前のもとに行き、逢って共寝できるような方法はないものだろうか、という意味であるが、「さねかづら」という植物は、恋のダシに使われているにすぎない。さねかずら本人の意思はまったく無視されて、勝手に歌に詠み込まれてしまったのだ。あんなに美しいさねかずらなのに、哀れなものである。
 「さねかずら」は、「美男かずら」とも言われ、その実は、小さな実が群れ塊り、卵大になって、てかてか輝くように真っ赤に熟して、枝に垂れる。まことに奇妙な、そして見事な実である。
 この植物から油を取り、美男の整髪油にするところから「美男かずら」と名付けられたと言うが、私はその実の美しさから、美男を発想したものだと思っている。それほど美しいのだ。この実を実際に見た者は必ず、歌の一つでも詠んでみようか、という思いにかられるはずである。
 ところが、平安人は、植物を歌(恋)のダシに使うだけだった。彼らは植物に対して、どうしてあれほど無頓着だったのだろうか。さねかずらに限らず、特色のある植物は限りなくあるというのに。

 紫式部だって、植物に対しては実につれない。ナデシコなども登場するのだが、せっかく登場しても、植物として出てくるのではない。「撫でる子」つまり「かわいい子」の比喩として出てくるだけである。
 そもそも源氏物語は「紫の物語」だというのに、「ムラサキシキブ」という植物がまったく登場しないのだから、不思議なことだ。あの実も小粒ながら、枝に群れてびっしりと瑠璃色に輝いているさまはまことに美しい。紫式部が野山を歩いていて、もしこの実を見つけたら、我が名のゆかしさに、必ず例のあの皮肉っぽい表現で物語のどこかに登場させるはずである。
 イヌシデだって面白い。枝に「垂」(しで 神前に供する玉ぐし、しめ縄などに垂れ下げるもの)の形で、無数に垂れ下がって咲くさまは、物語のどこかに使われていい植物だ。また、初夏、白い花が木全体を覆うようにして咲くミズキなどは、山桜以上に美しいと思うことがある。

 だからと言って、古今集の歌や源氏物語が悪いというのではない。植物を借りて人の心理を見事に詠い上げたり、四季の移り変わりを適切に表現したりしていて、感動的である。現代の写生のみの歌の方がはるかに平板で、面白味がない。古今集をこっぴどく批判した子規の歌なども、およそ味がなく、「だから何なの?」と思う作品が多い。

 『玉鬘』の巻に、光源氏が世話をしている御婦人方に正月の衣装を贈る場面がある。それぞれの御婦人に相応しい衣装を選ぶのであるが、その衣裳の描写たるや,微に入り細を極めている。
 『紅梅のいといたう文(模様)浮きたるに、葡萄染(えびぞめ)の御小袿(うちぎ)、今様(現代風の色)のすぐれたる』
着物は紫上に差し上げるもの。そして、明石姫君に、明石上に、花散里に、玉鬘にと、贈るべき衣装の紹介がこと細かに延々と続いていく。そして、例の末摘花にさえ
 『柳(襲〔かさね〕の色目で、表は白、裏が青)の織物に、よしある唐草を乱れ織りたるも、いとなまめき(優艶)』
たる衣を贈るのである。
 紫式部は、これほど衣装には情熱を傾け、それを植物を持ってて紹介しているのだ。もう執念といってもいいほどである。植物好きの私とすれば、その執念のほんの一部を本物の植物に分けてくれたらと思う。そうすれば、紫式部の筆にかかって、それらの植物は見事な輝きをもって、花開いたことであろうし、源氏物語自身も、さらなる光を放ったかもしれない。

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