源氏物語

源氏物語たより128

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  『有』という文字の意味 源氏物語たより128
 
 『古事記から万葉集まで』という公開講座があったので受講した。万葉集ならともかく、源氏物語一辺倒の私が、古事記の講義を受けるなど可笑しな話ではあるのだが、何か参考になることがあるかもしれなという軽い思いから受講した。


 実は、源氏物語には、『古事記』は全く引用されていないのだ。このことは、『論語』からの引用がほとんどないことと並んで、私の大きな謎である。わずかに『松風』と『玉鬘』の巻に、「蛭の子」の話が載っている。古事記には、
 『(イザナミが)生める子は、水蛭子。この子は、葦船に入れて流してき』
とある。この話は、イザナギとイザナミが天降って、最初に産んだ子供が「蛭の子」で、三年たっても足が立たなかったので、葦船に乗せて海に流した、という有名な話である。 
 源氏物語では、明石姫君が、「三年」たってもまだ片田舎の明石にいること、また、玉鬘が、「三歳」の時に筑紫に流れていったということがあるだけで、いずれも「三年」を借りただけのものである。ただ、古事記の文章には、「三年・・」の部分が抜けている。したがって、古事記引用したものではなく、日本書紀からであろう。おそらく当時、古事記は一般には流布していなかったのではなかろうか。

 一方、万葉集は、源氏物語にしばしば引用されている。しかし玉上琢弥によれば、「万葉集から直接引用したものではなく、いずれも『古今集』や『古今六帖』や『拾遺集』などに載っている万葉の歌を引用したものであろう、紫式部は、万葉集は読んでいないのではないか」と言っている。私はそうは思わない。探究心旺盛で博学な紫式部のことであるから、万葉集を見ていないはずはない。
 いずれにしても、このようなことに関するなんらかのヒントを、今回の講座で得られるかもしれないと思ったのである。
 それに、古事記の内容は、おとぎ話的には知っているのだが、原文では見たこともない。いわば古事記については全くの初心者である。一度くらいは原文を通して古事記を読んでみたいという興味はあった。

 ところが、一回目の講義でびっくりしてしまった。古事記の内容を講義するのではなく、その『序』に関する問題点についての講義であった。内容もろくに知らない初心者が、古事記の「序」の問題点を学ぶなど、無茶な話である。しかも
 「古事記の序は太安万侶が書いたといわれているが、偽書説がある」
というような、およそ初心者には縁の遠い内容も飛び出す。そこで改めて講座名を見て、二度びっくりした。
 『古事記成立1300年の真相から万葉集まで』
という題であった。「真相」を追求するというのでは、話が難しい内容になっても仕方がない。それにしては、みなさん、素直に聞いていた。初心者ではないのだろうか。

 講師は、得々としてこう言った。
 『今日は、古事記についての本居宣長以来の過ちを正したいと思っています。今日来ている人は幸せです。なにしろ宣長以来の新説を聞くことができるのですから。今日は午後から、古代文学学会に出て、そのことを話してくるつもりでいます』
 しかし、聞いているうちにその「新説」には、とても納得できなくなった。
 たとえば、稗田阿礼の紹介の部分の読み方についてである。古事記にこうある。
 『時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、拂耳勒心』
 一般にはこれを
 「時に舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年は是二十八。人となり聡明にして、目に渡(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」
と訳している。「目に・・勒(しる)しき」の意味は、
 「一見しただけで、すぐに声に出して節をつけて読むことができ、一度聞いただけで、心に刻み付けて忘れることがない」(岩波書店 日本古典文学大系)
という意味である。稗田阿礼がいかに暗記力に優れ、記憶力に優れているかを紹介したものである。

 講師は、この読み方が間違っていると言う。「時有舎人」の読みがいけないと言う。この「有」は、文章全体をまとめて、「有り」と読まなければならないというのである。つまり、
 「『姓は稗田…耳に拂るれば心に勒しきという稀な能力をもった舎人が有る』と読め」
と言うのだ。この「有」は、単なる「あり」「なし」の「有」ではなく、「めったにない」という意味であると言う。 そして、『説文』(中国最古の部種別字書)には、「有」とは、
 『不可有』
とあると言う。「不可有」とは「めったにない」ということであるそうだ。したがって、単に「時に舎人が有り(いる)」、と読むのではなく、「めったにない能力の持ち主の舎人が有る(いる)」と読めと言うことである。
 そして、その根拠として、『論語』の『学而』編の最初の文章
 『有朋自遠方来。不亦楽乎(友、遠方より来る有り。また楽しからずや)』
を上げ、こう言う。
 「この文章も、『友有り』と読んではいけません。『友、遠方より来る有り。また楽しからずや』と読まなければなりません。めったにない友が遠くからやって来たからこそ『楽しからずや』なのです。この『有』は、まさに「めったにない」と言う意味を表わしています」

 話を聞いているうちに、何かおかしいと思えてきてしまった。そもそも『有朋自遠方来』を「友、遠方より来る有り」という読み方は、とうの昔からなされていたのではないのか。大学の時もそう習ったはずだ。事新しい読みではないのに、今更何を言うのだろう。我が家に帰って二冊の『論語』を見てみたが、いずれも「友遠方より来る有り」となっていた。

 この講師の最大の誤りは、『論語 学而』編の冒頭の文章は、三つのフレーズで成り立っているにもかかわらず、バラバラに捉えてしまったことである。この『有朋』は、第二フレーズにあるが、「珍しい友達が遠くからやって来た。これほど楽しいことはない。さあ、一献傾けよう」などというレベルの低いものではない。何しろ論語の冒頭の文章なのだ。そんな低次元の内容を孔子ともあろう聖人が、論語の最初に持ってくるはずはないではないか。
 それでは改めて 全文を掲げてみよう。
 『子曰、学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知不慍。不亦君子乎』
 この文章は「君子」とはどういうものか、というスケールの大きな理想を提起したものである。三つのフレーズが強く結びついて初めて「君子」の像が浮かび上がってくる。
 「学徳のある人から礼や仁について学び、学んだことを常に復習・反芻すれば、自らも礼や仁の徳が身につくものである。こんな喜ばしいことがあろうか。
 そして、徳が身に付けば、それを慕って遠くからそれを求めて人が集まってくる。もちろん近くにいる志を同じくする人も。こんなに楽しいことはないではないか。
 しかし、自分に徳があることをたとえ人が知らないとしても、そのことを恨むことはしない。これこそ『君子』というに相応しい人物ではないか。」
という主旨である。

 試みに、『有』という文字の使われている文章を『論語』で探してみた。その結果、決して「めったにない」という意味では使われてはいないことが分かった。『学而』編の第二フレーズを受けた内容のものが『里人』編にある。
 『子曰、徳不孤、必有隣』
 ここの『有』も決して「めったにない」などの意味ではない。単に「有る」「ない」の「有」である。ちなみに山形有朋も有隣堂も「めったにない」の意味でつけたのではない。

 さて、古事記の稗田阿礼の人なりをもう一度見てみよう。
 まずは「聡明」であるということである。しかし聡明な人は他にもいる。驚くべきことは、一度目にしただけでその文章を口に唱えてしまうということだ、また一度聞いただけでそれを忘れることがないということだ。すごい能力の持ち主なのである。こんな人は「めったにいない」。
 私は、江戸三十六の年号や歴代天皇(ただし九十六代・後醍醐天皇まで)の名を必死に覚えようとして、すでに五、六年経つ。しかもまだ覚えきっていないのである。
 したがって、「有」をわざわざ「めったにない」などと読む必要なさらさらなく、稗田阿礼がもう恐ろしいほど稀な人物なのであると読めば、それで十分なのである。それは「有」には関係ないことである。
 それに、漢文というものは、あれほど遡って「・・有り」と読むことはない。あれほど長い部分を「返り点」で読むという例を知らない。あれでは、返り点の「一、二、三」も「上、中、下」も付けようがない。

 私のブログにコメントしてくれた方が、『唐代伝記と源氏物語』という講座を受け、こんな感じを持ったと言っていられる。
 「源氏の研究者も、人のやらないことを研究してこそポストが保障されるわけですから仕方ないのですが、ちょっと研究のための研究という感じがあります」
 源氏物語に関するいろいろの本を見ていても、宇治十帖は僧侶が書いたものであるとか、何々の巻は文体が違うから紫式部が書いたものではないとか、帚木の巻は後に差し込まれたものであるとか、およそ物語の世界とはかけ離れたことを問題にしていて、それが源氏物語を鑑賞するうえでどれほどの価値があるのだろうと疑問に思うことが多い。それらの意見はまさに研究のための研究であるか、その人個人の趣味の世界である。
 もっと素直に物語の世界を楽しむべきだ。平安時代の姫君たちもそうして源氏を楽しんでいたはずである。そのために、研究者は、さらに楽しく源氏物語を読む方法を研究してもらいたいものだと思う。
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