源氏物語

源氏物語たより133

 ←源氏物語たより132 →源氏物語たより134
  『袖振る』意図  源氏物語たより133

 源氏物語を読んでいて、何度読んでも理解できない箇所がある。そういう箇所は国文学者の解説書を読んでも納得できないもので、また学者によって、往々解釈が違っていたりするものである。


 その一つが、『紅葉賀』の巻の光源氏と藤壺宮(中宮)との歌のやり取りである。
 源氏は、朱雀院での紅葉の賀の折に「青海波」を舞った。その舞は想像を絶するほどの美しさで、見る者全員の感涙を誘った。中にはあまりの美しさに、
 「これでは神に召されてしまうだろう」
と不吉がる者がいたほどであった。神は、あまりにも美しいものを天に召すという考え方が当時あったのだ。現在でも「美人薄命」などというが,それと同じような主旨であろう。
 この舞を、源氏がこよなく思慕し続けている藤壺宮も見ていてくれた。『賀』の翌日、源氏は藤壺宮に消息を送った。その消息の歌は
 『もの思うに立ち舞ふべくもあらぬ身を 袖うち振りし心知りきや』
というものであった。
 「もの思いに乱れ、立ち舞うべくもなかった私が、袖を振りながら舞った心を、あなたは知って下さったでしょうか(谷崎源氏)」
という意味である。それに対して藤壺宮はこう返した。
 『唐人の袖振ることは遠けれど 立居につけてあはれとは見き』
 「青海波などという唐楽の故事は、はるかな国の音楽で詳しく知る由はありませんが、あの舞の手振りは立居に付けてもしみじみと拝見しました(同上)」
この手紙を受け取った源氏は、
 「宮は、音楽の面にも堪能で、しかも隣の国(唐)の朝廷のことまで御存じでいられる。さすがに豊かな知識をお持ちで、后として完璧な資質の持ち主でいられる」
と感心して、宮からの手紙を
 『持経のやうに、ひき広げて見居給へ』
るのであった。「持経」とは、自分にとって最も尊い物という意味である。それを「見居給へり」というのだから、いつまでもいつまでも目を離さずに見入っていた、ということである。それほど藤壺宮の人柄と知識・教養の深さに感動させられてしまったのだ。
 さてそれでは、何がそんなに彼を感動させたのだろうか。
 この箇所を、多くの解説書は
 「舞楽の故事の方面まで不案内でなく、他国の朝廷の古いことまで思いを馳せることの出来る藤壺宮 (岩波書店 日本古典文学大系など)」としている。それではその「故事」とは一体なんなのだろうか。しかし残念ながらどの解説書もこの点については曖昧である。
 また、多くの訳書が、藤壺宮が「青海波」を即座に「唐の舞だと理解したこと」としている(瀬戸内寂聴「舞楽の渡到の歴史」、田辺聖子「青海波の舞は唐から渡ってきたもの」、林望「青海波は唐人が伝えたものなど)が、そんなに単純なことであろうか。その程度の知識・教養で源氏があれほど感心するだろうか。
 舞には、「唐楽」と「高麗楽」があることは当時の誰もが知っていることである。「唐楽」とは、唐伝来の舞楽のことで、「左舞」と言う。また、「高麗楽」は、高麗の国から伝来したもので、これを「右舞」と言う。それぞれ楽団も違うし、楽器も異なる。また舞台に登場する位置も、左と右というふうに違う。したがって、楽団や楽器あるいは楽人が登場する場所を見ただけで、「唐楽」か「高麗楽」かはすぐ分かる。そんなことが分かったからといって、別段感動することではない。

 それではここで、源氏の歌にもう一度立ち戻ってみよう。
 『もの思ふに立ち舞うべくもあらぬ身の 袖うち振りし心知りきや』
 この歌の眼目は、
 『袖振る』
ということである。源氏は、愛する藤壺宮を前にして、心が乱れてしまってとても舞えるような状態ではありませんでしたが、と、まず謙遜した上で、
 「でも、私があなたに向かって袖を振った意図だけはお分かりいただけたでしょうか」
と問うているのである。
 その問いに対して、藤壺宮は、
 『唐人の袖振ることは遠けれど・・』
と応じたのだ。したがって、「袖振る」ことが、何らかの意味で「唐人」と関係していると思わなければならない。このことについては、いずれの解説書も明快な解答をしていない。二つの関係が分かっていないということである。

 先日、「万葉集」を読んでいて、はっと思ったことがある。
 『袖振る』
という言葉が、万葉集には意外に多く使われているのだが、ひょっとすると、このことと源氏物語の「袖振る」こととが関係してはいないだろうか。
 万葉集では、この言葉が、30首以上使われている。そしてその多くが旅に際して詠われているのだ。特に旅の途中の海か山で袖を振っている。
 たとえば、柿本人麻呂の次の歌をみてみよう。
 『石見のや高角山(たかつの山)の木の間より わが振る袖を妹見つらんか』
 これは、人麻呂が、石見の国から妻に別れてきた時の歌である。これと並んで有名な
 『小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども 我は妹思ふ別れ来ぬれば』
の歌がある。これも妻と別れてきた時のものである。袖を振ったのは、別れてきた妻に向かって親愛の情を表わすためにしたものであろうか。どうもそうは考えられない。妻恋しさだったら、わざわざ「高角山」の上で振る必要もないわけで、都に帰るまで、どこでもずっと袖を振っていればいいということになる。 
 やはり山の上で袖を振ることにこそ重大な意味があるのだ。

 実は、旅をする時には「道祖神」に幣(ぬさ)を手向けて、旅の無事・安全を祈る風習があったように、海や山を旅する時も危険が伴うことなので、袖を振って、旅の無事・安全を祈るという習わしがあったようなのである。つまり袖を振るという行為は、山や海の『霊』を呼ぶという行為なのだ。いわゆる『招魂』であり『鎮魂』の儀式なのである。他にも例がある。一つだけ上げていこう。
 『足柄の御坂に立(た)して袖振らば 家なる妹はさやに(はっきり)見もかも』
 「足柄峠」は、東国と西国とを境にするところである。こういう所は特に霊の強い、いわば霊のスッポトなのである。したがって袖を振って山の霊を招いて、旅の無事・安息を祈らなければならなかったのだ。このように人麻呂の歌や足柄の歌によって、袖振る行為は、間違いなく旅の安全を祈ったものだということが分かるのである。
 また、袖を振りながら、一方では遠く残してきた妻を偲んで
 「妹(妻)も、私が袖を振っているのを見ていることだろう。妹も私の無事を神に祈っていることだろう」
と詠っているのだ。あるいは、袖を振って神の霊を呼ぶとともに、妻の魂をも呼んでいるのかもしれない。

 さて、こう考えてきた時に、源氏の歌がスッと理解できてくる気がする。源氏は藤壺宮の魂に呼びかけていたのだ。
 「私は、あなたを思うあまり、まともに舞い立つ状態ではございませんでしたが、それでも舞いながらも必死になって袖を振っていたのは、あなたの心(魂)を自分のもとに招き寄せたかったからなのです。その私の心がお分かりになりましたでしょうか」
というのである。それに対して、藤壺宮は、まさか
 『はい、よく分かりました』
とは言えない。そこで、宮は、唐人のことに話をそらして、
 「唐人が袖を振る意味は、はるか昔のことで詳しくは分かりませんが、でも、全体としてはしみじみと心に沁みる舞でございました」
と、難なきように応えたのだ。
 ただ問題なのは、袖振ることと唐人との関係はなにかということが、これだけでは分からない。唐朝にも「袖振る」ことが「魂を招く」「魂を鎮める」ような意味があったのであれば簡単なことなのだが、その根拠も出典もない。もちろん今の私に何の根拠もあるわけではない。とにかく平安時代の一般の人でさえあまり知らない「故事」であるようなのだから。藤壺宮はそれを知っていたのだ。源氏と藤壷宮だけには共通の認識であったのだ。だから源氏は、宮に対して称賛を惜しまなかったのだ。
 
 そこで、私は、苦し紛れにこんなふうにも考えてみた。
 源氏物語には白楽天の『長恨歌』がしばしば引用されているので、それと関係があるのではなかろうか、と。長恨歌は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を描いた120句(行)にわたる七言の長詩である。その中に
 『霓裳羽衣(げいしょううい)の曲』
という言葉が出てくる。「霓裳」とは虹のように美しい衣のことである。また「羽衣」はもちろん天女の着る羽衣のことである。玄宗皇帝が、道士と一緒に仙界(月宮)に行った時に見た仙界の様子を曲にしたものが「霓裳羽衣の曲」だという。この曲は玄宗皇帝自身が作曲したものだと言い伝えられている。 
 その舞を玄宗皇帝は、楊貴妃をそばに侍らせて
 『尽日君王看れども足らず(一日中飽きず)』
に見ていたのである。玄宗皇帝は、舞人が袖や裳を翻して舞う姿に心をとろけさせていた。この場合、袖を振って舞っているのは楊貴妃ではないが、舞人に楊貴妃の姿を重ねて見ていたのだ。ひるがえる袖や裳が楊貴妃と渾然一体となって、玄宗皇帝の魂を奪っていたのである。
 と、こんな風に考えると、源氏と藤壺宮の歌が、見事に解けてくる気がする。源氏は、霓裳羽衣のように袖を振って、宮の魂を捉えようとし、二人の幸せと永遠を祈りながら舞っていたのだ。「その心が分かりましたか」ということである。

 ただ、この考え方の問題点は、「霓裳羽衣の曲」を玄宗皇帝と楊貴妃が見ている時に、突如反乱軍(安禄山の乱)の陣太鼓が響いてきてしまったことだ。そして、玄宗皇帝は都を追われ、ついには寵姫・楊貴妃を死に至らしめてしまったという歴史的事実があることである。そんな不幸な故事を源氏が引いてくるとも思えない。
 さて困ったことなのだが、幸いなことに、長恨歌は再び「霓裳羽衣の曲」を登場させているのである。
 玄宗皇帝は、亡くなった楊貴妃を忘れることができず、道士をしてあの世に楊貴妃を探し求めさせる。艱難辛苦の末に、道士は、ついに彼女が海上の仙山にいるという情報を得ることができた。そこに行った道士が門を叩いて取り次ぐと、奥から取り乱した姿の女が現れる。
 『風は仙袂(せんぺい)を吹いて 飄々として挙がり なお霓裳羽衣の舞に似たり』
 風が、女の袂をひらひらとひるがえしている様は、まるで霓裳羽衣の舞のようであった。間違いない、楊貴妃である。道士との別れに臨んで、彼女は次の言葉を伝える。
 『天に在っては願わくは比翼の鳥となり 地に在っては願わくは連理の枝と為らん』かつて玄宗皇帝が楊貴妃と誓った言葉である。
 「天上にあっては、翼のくっ付きあった鳥になろうね、地上にあっては幹は二本でも枝のくっ付いた木になろうね」
という意味で、永遠に別れることのないようにという誓いの言葉である。
 
 ところで、「袖を振る」には、相手に対する親愛の情を表わすという意味もある。日本人なら誰でも知っている万葉集の名歌
 『あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る』
の歌でも袖を振っている。今更解説の必要のない歌であるが、紫野に狩りに行った時に、額田王に向かって大海人皇子(後の天武天皇)が、袖を振った場面である。それに対して額田王は、
 「そんなに袖をお振りになっては、野守に見られてしまいますわ」
という歌をもって甘くやんわりとあしらったのである。この歌には、もちろん招魂や鎮魂の意味はない。愛する者が愛する人に情愛を込めて、純粋に袖を振っているだけである。
 相模の国の歌にもこんな歌がある。
 『恋しけは袖も振らなむを 武蔵野のうけらが花の色に出(づ)なゆめ』
 (私のことを恋しいって思うんだったらさ、私の方が袖を振って合図をするから・・。あんたは、私に恋しているなんて様子を決して顔色に出しちゃあだめだよ)
 何やら曰くのありそうな歌である。親にでも知られては困るのだろうか。あるいは不倫だろうか。「うけらが花」とは、菊科の植物で、夏に白い花を咲かせるという。おそらくとても目立つ花なのだろう。これも袖を振るのは単純な愛情表現である。
 考えてみれば、愛する人に袖を振るのも、相手の魂を揺すって、自分の方に招きよせようとする「招魂」の行為に外ならないのである。
 
 源氏にとっては、愛する藤壺宮は絶対の存在であり、「神」なのである。その魂を自分に招きよせて、いつも一緒にいられるようになれるならば、これほど喜ばしいことはない。
 『比翼の鳥 連理の枝』は、かつて源氏の父・桐壺帝が、寵姫・桐壷の更衣に誓った言葉でもある。源氏も、袖を振って藤壺宮の魂を招き、「比翼の鳥 連理の枝」になれればと思っていたことは確かである。
 「宮は、この長恨歌の内容を知っていられる,唐朝のことに詳しい」
と源氏が感銘し、宮の手紙を「持経」のように見入っていたと捉えるのは、飛躍がありすぎるだろうか。



もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより132】へ
  • 【源氏物語たより134】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより132】へ
  • 【源氏物語たより134】へ