源氏物語

源氏物語たより134

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  われぼめする光源氏  源氏物語たとり134

 光源氏のことを嫌う人は多い。確かに彼は嫌われる要素を持っている。好色で嘘つきで理屈屋で・・と挙げればきりがない。それにあんな超人的な人間なんてそもそも存在するわけがないのだから、好き嫌いの問題ではない、と言う。


 父親の寵愛する義理の母(藤壺宮)と契ってしまったり、人妻(空蝉)を強姦まがいに犯してしまったり、他人の邸(弘徽殿)に無断で入り込んで知りもしない娘を犯してしまったり(朧月夜)・・と傍若無人である。
 また、彼の嘘のうまさはたぐいないものである。自由自在に嘘を使い分けて、「どこからとうで給へる(どこから取り出す)」ものやら、甘言を吐いて恥じることがないなのだ。孔子は「巧言令色すくなし仁」と言っているが、孔子の尺度で言えば、源氏は典型的な「少なし仁」である。これでは好かれるはずはない。
 それに、確かに彼はすべての分野で超人的でありすぎる。親友・頭中将などは、何でも必死になって源氏に挑戦するが、ことごとく源氏に負けてしまう。頭中将が源氏に勝てるのは、「蹴鞠」くらいのものである。ただ蹴鞠などは、勝っても負けてもどうということはない分野だ。
 それに、とにかく彼は理屈っぽい。源氏物語が難解である理由の一つに、源氏の論理の難しさがある。高度な論理をくだくだとひねくり回すのだからたまらない。彼の物語論、絵画論、音楽論、人物評価、人生観などは、難しくて付いていけない。そもそも彼の会話そのものが理解しにくい。

 しかし、じっくり読めば読むほど、彼には彼なりの良さがあり味もあるのだ。
 ところが、心理学者の河合隼雄は、『源氏物語と日本人』(講談社)の中で
 「物語を読みすすんでいくうちに、光源氏という人物が、一人の人間としての存在感を感じさせないのに気がついた。(私の)心の中で、生きた個人としてのイメージができあがってこない」
と言っている。河合隼雄は、その理由として、源氏物語は、光源氏の物語ではなく、作者・紫式部の物語であるからだとしている。つまり、光源氏の周りに現われてくる女性たちが、全て紫式部の分身であり、紫式部が自分の内界に住む実に多様で変化に富む女性の群像を見出し、それを物語にしたのだ、と言うのだ。光源氏は「狂言回し」に過ぎないとも言う。

 そうだろうか、むしろ逆ではなかろうか。読み進めれば読み進めるほど、源氏個人の変化に富んだ多様な人間性が、物語の中にさまざまな形を取って鮮やかに読み取れるのだが。源氏は、我々生身の人間が持っているさまざまな内面の姿を、物語を通して典型的に具現化してくれた人物と、私は思うのである。
 我々は、いつも一貫して変わらない人格を持っているわけではない。時により所によって、考え方が異なったり行動が変わったりする。また常に善人であり常に悪人であるわけではない。「え、あんなに真面目そうな人が?」と思う人が、とんだことをすることだってある。公共の模範であるべきアナウンサーでさえ羽目を外すことがあるのだ。それが人間であり、だからこそ人間は面白いのだ。

 特に心の中は、さまざまで複雑である。それぞれの人の心に巣食っている欲望や感情や意志は、収拾が付かないほどになっている。それはまさにとぐろを巻いているといってもいい。人は何を考えているのか分からない。ところが、それは外からは見えないし、残念ながら表面に現われ出てくることはない。酒で、時折本然の姿(本性)をさらけ出すことはあるが。
 通常それを表に出さないのは、みんな世間体や世の規範や自らの良心に憚っているからにすぎない。「チャンスさえあれば・・」と思っている人は多いはずである。

 源氏は、恥じることなく、思っていることを思いどおりに行動に現わした。うらやましい限りである。彼は立場上「人のうわさ(人聞き)」を気にすることはあるが、彼には世の規範や道徳という観念がないのではないかと思われることが多い。特に女性関係については天衣無縫である。源氏物語に『論語』が全く登場しないのも、あるいはそんなところに原因があるのかもしれない。でも、源氏を論語や道徳・規範で縛ってしまったのでは、物語は成立しないし面白くない。彼の奔放さがあるからこそ面白いのだ。
 源氏の時代は、一夫多妻制であり、しかも彼は最高貴族社会に属していた。そういう時代と彼の身分が、あの奔放を許す条件になっていたことは否定できないことなのだが、それにしても、源氏は、我々人間の内面の欲望や感情を実に自在に実現してくれたものである。源氏以外にはとてもできないことである。その面では、やはり彼はスーパーマンなのだ。
 河合隼雄は、源氏を「一貫した人格のない人物」としているが、そうではない。彼は、我々の複雑な内面を、時と所と状況に合わせて率直に表出してくれた多彩な能力の持ち主なのだ。そうとらえた方が物語を楽しく読めるのである。

 ここで、源氏の「われぼめ」について考えてみよう。
 彼はよく「われぼめ」をする。「われぼめ」とは、「自分で自分のことを褒めること。自画自賛」ということである。オリンピックの平泳ぎで金メダルと取った岩崎恭子が「自分を褒めて上げたい」と言っていたが、あれは実に可愛かった。通常「われぼめ」は恥ずかしい行為であるばかりでなく、聞いている者に何か素直でいられない感情を持たせるものであり、時には「よく言うよ!」と軽蔑の念さえ起こさせるものでもあるから、誰もそれを控えるのだが、彼女の場合は何の不遜さも感じさせなかった。
 ところが、源氏の場合は首をかしげることもある。彼はわれぼめを恥じないし控えもしない。時に聞いていられないこともある。
 『野分』の巻にこんな場面がある。
 野分の激しかった日、源氏の嫡男・夕霧が、源氏の邸を見舞う。息子の姿を見た源氏は,鏡を見ながらこっそり紫上にこう言う。
 『中将(夕霧)の朝げの姿は、きよげなりな』
 「きよげ」とは「すっきりと美しく好まし姿」という意味である。これは息子・夕霧の姿を見ての感慨だから問題はないのだが、可笑しいのは、その後、自分の顔を鏡で見ながら内心思うことだ。
 『わが御顔は「古りがたく、よし」と見給ふべかめり』
 (自分の顔も夕霧に劣らずいつまでも若々しく素晴らしいと思っているようだ)
 「ようだ」というのれは語り手の言葉で、「見給ふべかめる(「見ているようである」」というのだから、源氏自身がはっきりと「自分の顔は若々しい」と自慢しているわけではないのだが、それでも「御鏡など見給ひ」ながら息子の姿を褒めているのだから、自分の顔を褒めていることに変わりはない。
 ただ、源氏はいつも若々しくきよらであることは、万人の認めるところで、彼が少しぐらい顔の「われぼめ」をしたからといって、文句を言える筋ではないのだが。

 彼の四十の賀が行われた時の様子がこう表現されている。
 『いと若く清らにて、かく(四十の)御賀などいふことは、ひが数えにやとおぼゆる様のなまめかしく、人の親げなくおはする』
 「ひが数え」とは、間違って年を数えるということである。
 「四十歳?まさか。もっとずっと若いのでは?」
ということである。そして「とても子供などがいるとは思えないほどの若さだ」と言っているのである。まるで玉手箱を開ける前の浦島太郎のようなものである。先の河合隼雄などは「この世のレベルを超えている」と言うのだが、でも、こんな男が世の中にはいないわけではない。私の同級生に「永遠の若大将」と言われていた男がいた。

 とにかくこれほどの源氏だから「われぼめ」されても仕方がないのだが、彼は、顔のことを平気で褒めるばかりでなく、他のことでもさかんにわれぼめする。
 『梅枝』の巻で、春宮の元服に際して、源氏は娘・明石姫を入内させることにした。その記念に、書の達者たちにお願いしてさまざまな冊子を書かせることにした。弟の兵部卿宮や頭中将の息子・柏木などである。そしてこう言う。
 『「(私だって)え書き並べじものをや」とわれぼめし給ふ』
 「自分だって彼らに劣ることはあるまいと自慢する」のである。実は自分の方がはるかに上手であることを百も承知でいるのだ。兵部卿宮が、出来上がったものを持参すると、源氏も自分の作品を宮に見せる。その書があまりにも優れているので、宮は言う。
 『さらに残りどもに(他の作品に)目も見やられ給はず』
 源氏の書を見てしまったら、他の作品などはもう見られたものではないというのだ。源氏は、他の者に書を書かせ、その機会に自分の優れた能力を認識させようとしたのだ。いわば「われぼめ」を仕掛けたようなものだ。

 また、こんなこともあった。愛しくてたまらない玉鬘が、思いもしない男・鬚黒のものになったしまった時に、源氏は、玉鬘との関係がこれで潔白になったと、得意になって紫上に言う。
 『おぼし疑いたりしよ』
 「あなたも私を疑っていたでしょ」と言うのだ。それは疑うはずである。玉鬘が現れて以来の源氏の行動は尋常ではなく、玉鬘の部屋に入り浸ってはねちねちと言い寄って隙あらばと狙っていたのだから。にもかかわらず、彼は心の中で、こうつぶやく。
 『わが心ながら、うちつけにねぢけたることは好まずかしと、昔よりのこともおぼし出で』
 「自分の心のうちでも、その場かぎりのよこしまなことは自分の性分に合わなかったのだと、昔からのことを思い出して」という意味である。しかしこればかりは
 「嘘をおっしゃい!」
と言わざるを得ない。
 「あんた、どれほど女を泣かせてきたのさ!」
 「藤壺宮や空蝉は、よこしまなことではなったと言うの?」
 「朧月夜とは、場当たりだったのではないの?」

 通常ここまでわれぼめすると嫌味が付きまとうものなのだが、源氏にかかったら、かくもあろうかと、許してしまうのだから不思議である。それどころか、自分の思いを素直に表出するところがむしろ微笑ましく、人間らしさが出ていて愛すべきものがあるとさえ感じさせてしまうのだ。源氏は、自己の能力や才能を「われぼめ」することで、さらに新たに発掘し、あるいは再確認し伸ばして行こうとしていたのかもしれない。
 源氏以外にはとても真似のできない芸当かもしれない。それが物語に面白味を加えていて、我々の心を揺るがせるのだ。
 実は、我々には、誰にも内心では自分をほめたいと思う気持ちがあるものなのだ。ただ、気障(きざ)だと思われはしまいかと世間体を気にしてそれをひっこめてしまうだけだ。特に日本人はわれぼめすることが下手だし、それを嫌う傾向がある。日本人には自分をアピールするという習慣がないのだ。
 我々は、それをもっと素直に出した方がいいのではなかろうか、と思う。
 最近でこそ、「あなたの良さは?」「あなたが自慢できることは?」などと言って、それを入社や入学の合否の要素にするようになってきているようだが、まだまだだと思う。それぞれの人が持っている能力を「われぼめ」によって、発見したり伸ばしたりできるかもしれない。源氏はそうして自分の生き方を豊かにしてきたのだ。
 せっかく源氏が示してくれた「われぼめ」の良さを、時により場により、また自らの能力に応じて表出することは、これからの日本人にとって、もっともっと必要なことになるのではなかろうか。
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