源氏物語

源氏物語たより139

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  宇治への道  源氏物語たより139

 宇治は、山紫水明の地であるとともに歴史の地である。前者を宇治川が代表し、後者はもちろん平等院が代表する。風光と歴史を兼ねた地は人の心を惹きつけて止まない。安芸の宮島や長門の萩などはその条件を満たしているところである。私もその魅力に誘われて、何度訪れたことだろう。


 宇治は、平安人の心をも魅了してやまない地であった。ここには貴族たちの別荘が立ち並んでいたという。平等院も、元々源氏物語よりも百年以上昔の人・源融の別荘だったところである。後に藤原道長が譲り受け、さらに道長の息子・頼通が寺院にしたものである。平等院には七堂伽藍が立ち並び荘厳を極めていたと言う。しかし、いくたびもの戦乱ですべてが焼失し、鳳凰堂のみが奇跡的に残った。そして、千年の風雪に耐えてきたのだ。
 当時はまさに末法の世(1052年)に突入する時であった。時の権力者・頼通としても避けようのない時代が到来するのだ。いかにこの世を無事に生き、あの世に往生を遂げるか、彼もまた必死であったはずだ。極楽往生を果たすためには仏にすがるしかない。そのためには寺院を建立することだ。そして阿弥陀さまにおすがりする。こうして、あの丈六の阿弥陀仏ができた。阿弥陀さまの慈悲に溢れる尊顔を仰ぎ、頼通以外にも多くの人たちが救われてきたのだろう。
 阿弥陀さまの背後の雲中供養菩薩は、極楽世界が愉楽に満ちたところであることを表わしている。私は、特に「南40」の天女が好きだ。右手を遠慮がちに広げ、左手は左ひざと共にやや前に差し出している。肩から流れる天衣はその掌に優しく握られ、左にくねらせた体は柔和で、人をあの世に優しく誘っている。左足は、この世の人の救済のために、まさに今一歩の歩みを進めようとする姿だ。
 宇治は、風光明媚な幽邃な地であるとともに、人々に極楽の世界をも想像させたのかもしれない。

 源氏物語で宇治の地が登場するのは、光源氏が死して後、彼の息子や孫の代である。『橋姫』から最終章の『夢の浮橋』までを「宇治十帖」という。ここが、悲運の宮様・八の宮の三人の姫君たちと、光源氏の子である薫と孫の匂宮という二人の貴公子の恋が展開される舞台である。
 宇治は、当時の貴族たちが宇治川に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべて、管弦や酒宴に興じた慰安の地であるとともに、奈良の初瀬観音参詣の中宿りとする所であった。以前『更級日記』や『蜻蛉日記』の作者が、ここに立ち寄って初瀬の旅の中宿りにしたという話をしたことがある。

 それでは、当時の人は京からはどのようなコースをたどって宇治に至ったのだろうか。京から宇治へのコースはさまざまあるようだが、源氏物語で、薫や匂宮が通ったのは次のようなコースである。
 薫は、母親・女三宮の住む三条の邸で主に暮らしていたようなので、ここを起点にして宇治までたどってみよう。
 三条から、鴨川に架かる五条大橋を渡って、三十三間堂を右折。東福寺、伏見稲荷を左にして一路南下する。深草を過ぎて藤森というところを左折し、いよいよ山手に入る。ここが源氏物語にしばしば登場する木幡山(こはたやま 今の桃山)である。山中の八科峠を越え、六地蔵へ。そして山科川を渡り、木幡に至る。その後は、黄檗宗の万福寺(江戸時代の建立)や三室戸寺の西側を通って、宇治橋に到着。
 現在のJR奈良線に沿っていると考えていい。
 京からの里程は、約二里半(10キロ)。徒歩で二時間余り、馬で一時間というところである。国文学者の山岸徳平は、この行程を実に詳細に割り出していて参考になる。  
 彼は、御所から宇治までの徒歩での所要時間を「一時間四十分」としている。このことについて、同じ国文学者の玉上琢弥は「角川書店 源氏物語評釈」の中で、おかしなことを言っている。
 「旧陸軍の行軍速度は、四キロ(約一里)を五十分で歩き、十分小休止した。完全武装であるが、中学生では徒手でもこの速さを続けると、疲れる。山岸博士はマラソンの選手だから、(他の者には)真似ができないであろう。」
 なにか玉上氏には、山岸氏に含むところがあるのだろうか。些細なことで食いついている。でも、確かに十キロを一時間四十分というのは無理だ。あるいは、山岸氏には、宇治にいとしい人がいたのかもしれない。

 八の宮の山荘は、宇治川の京都よりにあった、つまり京から行くと舟も橋も使う必要はなかいところである。一方、夕霧(光源氏の子で、薫の兄)の別荘は、その対岸にあった。八の宮の山荘は、宇治神社あたりであろう。夕霧の別荘は、どう考えても道長の別荘(現在の平等院)がモデルになっていると考えられる。二つの邸は、宇治川を中に対峙して、船で棹一挿しの距離だとある。夕霧の別荘で吹く笛の音が、山荘で聞こえたというから、ほんの指呼の間なのである。
 薫や匂宮は、ここまで雪をおし、雨・露を押し、花の季節に、あるいは紅葉の季節にと何度も通った。薫は中納言という政界の中枢にいるし、匂宮は天皇の第三皇子である。ともに「ところせき(窮屈な)」身である。よくぞこんなに遠くまで通ったものである。恋には、忙しさも遠さもないようだ。

 このコースでの難路と言えば、やはり「木幡山」である。今の桃山御陵の近くの高台である。今考えれば山というほどではないのだろうが、今の感覚で考えてはならない。家はなし大変な悪路であり木々の生い茂る怖い山路である。
 ある時、匂宮が、姫君の元に遣わした使いは、姫の返事をもらて宮のもとに急いだ。
 『御使は、木幡の山のほども、雨もよに、いと恐ろしげなれど、さやうの物怖じすまじきをや選り出で給ひけん。むつかしげなる笹のくまを、駒ひきとどむるほどもなく、うち早めて、片時に(匂宮邸に)参り着きぬ』
のであったが、普通の者なら、気味悪い(恐ろしげな)山路で、しり込みするところだ。しかし、匂宮は、そんなところも平気で行き来できる猛者を選んだ。そればかりか、この使者は、宇治から二条の匂宮の邸までを「片時」で着いたという。片時とは「わずかの間」ということである。夜の使いではあり雨の中である。それでもあっという間に京に着いてしまった。
 それは匂宮が、姫君からの便りを待ちわびているからだ。雨だろうが夜だろうが怖い山路だろうが、ひるむことなくひたすら(駒ひきとどむるほどもなく)馬を飛ばさなければならない。一刻も早く主のところに女の手紙を届けることが、主の評価を受けることになるし、禄も多くなるというもの。それに何より出世にかかわる。山岸氏は馬で四十分から一時間かかるとしているが、恐らく、この使者は、二、三十分で飛ばしたのではなかろうか。

 薫たちの宇治通いは何度も描かれているが。最後に、薫と浮舟の「あけぼのの宇治の道行」を紹介しておこう。
 一時、浮舟は、匂宮のすみかである二条院に預けられていたが、好色な匂宮に嗅ぎつけられて、危うい目に合う。薫とすれば、匂宮の毒牙から浮舟を守るには、彼女をどこかに隠さなければならない。最近彼が建てた宇治のみ堂が安全であろう。まさか宮も、宇治に隠した浮舟を探し出すなどということはあるまい。
 そこで、二人の道行きは始まる。
 『河原(鴨川)過ぎ、法性寺(東福寺下)のわたり、おはしますに、夜は明け果てぬ。・・君(浮舟)ぞ、いとあさましきにものも思えで、打つ伏し臥したるを「石、高きわたりなれば、苦しきものを」とて、抱き給へり。・・山深く入るままにも、霧、立ちわたる心地し給ふ。うちながめて、寄り給へる、袖の重なりながら、長やかに出でたりけるが(宇治の)川霧に濡れて・・落としがけの(急なこう配を上った)高き所ところで見つけて(浮舟の袖を薫が)引き入れ給ふ』
 人に忍んで、京を朝も明けないうちに出発した。やがて法性寺の辺りで夜がすっかり明けた。「近いところに移る」と言うので安心していた浮舟は、何と宇治までの道行きだというので、あまりのあさましさにあきれて、うち臥すしかなかった。すると、薫は、「石がゴロゴロしていて大変だから」と女を抱きかかえる。木幡山にかかるころ、霧も深くなった感じである。牛車の揺れのためか、浮舟の衣の袖は、車の御簾の外にあらわに出てしまって、霧に濡れている。それを見つけた薫は、傾斜の激しい坂を上ったところで、女の袖を車の中に引き入れてやる。
 しかし、このような薫の苦心にも拘わらず、匂宮の嗅覚は鋭かった。難なく発見されてしまう。そして、ついに例の匂宮と浮舟との『雪の夜の宇治川 舟の道行き』を演出してしまうのである。宮の官能的なもてなしに崩れていく女。薫と匂宮という二人の貴公子の間で翻弄される浮舟は、宇治川の波の中へと投身せざるを得なくなる。
 あけぼのの宇治への道行きは、やがて憂き(うじ)川への道行きに代わってしまうのである。
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