源氏物語

源氏物語たより151

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   紫式部の博学   源氏物語たより151
 
 『源氏物語評釈』(角川書店)の作者・玉上琢彌の
 「紫式部は万葉集を見ていないだろう」
という言葉が心にかかっていて、源氏物語を読むたびにこの言葉が頭に浮かんできて、読む支障になっている。彼は、一度ならず二度三度とこの言葉を繰り返しているのだが、「そんなこたはあるまい」と私は思っている。


 彼は、その根拠については明確にしているわけではないが、これほど執拗に繰り返されると、紫式部の名誉にもかかわるような気がしてならない。
 それでは『評釈』の中から、その言葉を抜き出してみよう。
 「女は、万葉集にはうとく、源氏物語に引く歌で、万葉集の歌として意識して引いたと思われるものはない。原歌は万葉集であっても、実はみな『古今六帖』などに見える歌である」
 紫式部が、万葉集の歌を引いているのは、みな「古今六帖」などからだという。そしてその根拠としては、わずかに
 「女は万葉集にはうとい」
からだ、と言うのみである。こんなふうに紫式部を一般の女と十把ひとからげにしていいものだろうか。
 ところで、ここに上がっている「古今六帖」とは一体何だろうか。高校時代の古典にも出てこなかったし、これに関する出版物もほとんど見たこともない。だから一般にはまったく知られていない「まぼろし」の歌集といっていいだろう。国文学の研究者や国文学専攻の学生が、時に使うくらいのものなのではなかろうか。
 実は、この書籍、編者も成立年代も詳(つまび)らかにされていないのである。編者は紀貫之であるとか源順であるとか諸説があるが未だに分かってはいない。成立年代は、概ね『後撰集』が編まれた(950年代)後、『拾遺集』のできる前(1005年ころ)である。つまり、十世紀の後半(980年前後)と考えられ、源氏物語ができたのは
1008年だから、それより3,40年前のことである。したがって、紫式部の時代には、相当この歌集が流布していたであろうと考えられる。
 内容は、万葉集や古今集、後撰集、あるいは私歌集などから選んだ4500余首にも及ぶ膨大な歌集である。中でも、万葉集からは1200余首が採られているのが目を引く。それらが、「天象」「歳時」「自然」「鳥獣」「人事」「恋」「服飾」「祝賀」などの類別に編まれ、それがさらに細かく、
 『秋の月、有明、星、風、雪、山鳥、若菜、菊、紅葉、鮎、衣替え、誓い、人を待つ、来れども逢はず、恋ぞ積もりて,摺り衣』
など、なんと516項目にわたって並べられている。
 ある人は、平安時代以降の歌人や文人は、これをいわば「“虎の巻”にして歌や物語に使っていただろう」と言っている。確かにこれだけきちんと類別されていれば、当時の人にとっては、大変便利な参考文献になっていたであろうと考えられる。
 新古今時代になると「本歌取り」が盛んにおこなわれるようになっているし、また、歌の多くが「歌合せ」の席で作られていることからも、大いに参考にされたであろうことは想像に難くない。彼らは、歌会などで「御題」が出されると、トイレを装って建物の陰に隠れて、この「古今六帖」をペラペラやっていたのかも知れない。
 「うん、この歌の上の句と、こちらの歌の下の句をつなげると“御題”にぴったりの歌ができる」
こんな場面を想像していると可笑しくなる。
 さて、本題に戻ることにしよう。源氏物語と万葉集の関係である。
光源氏が、体調の優れない女三宮の部屋を訪れ、あれこれ物語をしていたが、夕方になったので、着物を着なおしながら、こう言って自分の部屋に戻ろうとする。
 『さらば、「道たどたどし」からぬほどに』
すると、女がこう応じる。
 『「月待ちて」ともいふなるものを』
 これは、万葉集から引いてきたもので、いわゆる「引き歌」である。本の歌は、
 『夕闇は道たどたどし 月待ちて帰れわが背子 その間にも見む』
である。「夕闇の道はどうもおぼつかないので、月の出を待ってからお帰り下さい。その間にもあなたの姿を見ておりますから」という意味で、優しく甘えた女の情の溢れた名歌である。例の良寛さんもこの歌を本歌にして、名歌(?)を作っている。
 源氏は、女のもとから、ただ黙って帰っていくのも芸がないので、「道たどたどし」と洒落たのである。それに対して、女も、この歌の三句目「月待ちて」を取って、男を引き留めたのだ。この女の常にはない甘えが、皮肉なことに彼女の命取りになってしまうのだ。と言うのは、女三宮の言葉に引かされて源氏は、この晩、女のところに泊まっていくことになったのである。その翌日のこと、柏木が女三宮に当てて出した懸想文が、源氏によって見つけ出されてしまうのである。万葉集を知っているからとて、引き留めなければよかったのに。
 それはとにかくとして、実はこの引用は「古今六帖」からのもので、万葉集の本の歌からのものではない。本歌は、
 『夕闇は道たづたづし 月待ちていませわが背子 その間にも見む』
である。「たどたどし」が、万葉集は「たづたづし」であり、「帰れ」が「いませ」である。いずれにしても意味はまったく同じで、万葉語を平安の言葉に変えただけのものである。したがって、この歌だけを見る限り、紫式部は、万葉集からではなく、「古今六帖」から採ってきたものと言わざるを得ない。
 ところが、『東屋』の巻で、薫が、浮舟の仮家を尋ねた時に、たまたま雨が降って来たので、なにげなく呟く言葉が問題になる。
 『佐野のわたりに家もあらなくに』
であるが、これは万葉集の
 『苦しくも降りくる雨か 三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに』
を引いたもので、これから宇治にまで浮舟を連れていくにはあいにくの雨であるということで、万葉集の歌を借りて呟いたのである。先の「夕闇は」ほどには意味はない。
 ところが、なんと、この歌は「古今六帖」には採られていないのだ。これに対して、玉上はこう言っている。
 「(この歌を)万葉集から直接引いたとは考えてはならない。この歌も万葉集ではなく、伝誦または屏風歌などから知られたものと考えられる。」
 なぜここまでこだわるのか、玉上の意図が知れない。
 「苦しくもこじつけしもの 玉上のいひつるわたり屏風もあらなくに」
である。
 確かに万葉集は万葉仮名で書かれているし、4516首という膨大な歌集である。読むには相当な労力がいる。しかし、読みなれればさしたることはない。私も二度ほどすべてを読んでいみたが、類歌も多いし凡歌も多い。それらを除けば参考になるような歌はさほど多くはない。それに、言葉の問題を別にすれば、内容的には古今集や新古今集に比べてはるかに単純で分かりやすい。
 私にしてかくの如しである。まして、博学であり聡明である紫式部にとっては、万葉集を読むことなど何の苦もなかったろうし何の痛痒も感じはしなかったろう。
 学識深い一条天皇(紫式部が仕える中宮・彰子の夫)は、源氏物語を読んで、彼女の才能に驚きこう言っている。
 『この人は、日本紀をこそ読み給ふべけれ。誠に才あるべし』(紫式部日記)
 「日本紀」とは、『日本書紀』だけを指しているものではない。『日本後紀』や『三代実録』などいわゆる六つの国史をも指しているのだ。「それらをみんな読んでいるのだろう、恐るべき才能である」というわけである。彼女は、六国史ばかりではない、異朝の史記や漢詩などにも誠に造詣が深い。玉上の言う「女は万葉集にうとく」というには全く当たらない人物である。彼は、紫式部が女ではないということを忘れているようだ。
 問題は、当時どの程度万葉集が流布していたかである。一般には知られていない書物だったとすれば、玉上のいうことも納得できるが、「古今六帖」には1200首も採られているのだから、それ以外の万葉の歌も相当に知られていたはずである。それに努力家の紫式部にとっては、万葉仮名など何の支障にもならなかったろう。
 それでは最後に、古今集の歌で、万葉集が本歌になっている歌を二つほど紹介しておこう。
 『いつとても恋しからずはあらねども 秋の夕べは怪しかりけり』    古今集 恋一
 『いつはしも恋ひぬ時とはあらねども 夕かたまけて恋はすべなし』   万葉集 巻二

 『夕されば衣手(ころもで)寒し みよしのの吉野の山にみ雪降るらし』 古今集 冬
 『夕されば衣手(ころもで)寒し 高松の山の木ごとに雪ぞ降りける』  万葉集 巻十
 このように、古今集には万葉集が盛んに使われている。古今集は、「古今六帖」が編集されるはるか前の歌集である。これをもってしても万葉集がいかに人々の間に親しまれていたかが分かるというものである。
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