源氏物語

源氏物語たより162

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  『帚木』の巻は面白くない 源氏物語たより162

 『帚木』の巻が、物語の第二番目に位置していることは、ある意味、源氏物語の不幸である。源氏物語はもともと難解である上に、『帚木』の巻は超難解であるからだ。ただ難解であるだけなら何とか手立てはある。いろいろな参考書などを調べながら何回も読んでいけば、次第におぼろげながらも内容が分かってくるのだから。


 ところが、この巻ばかりはいかに努力しても、内容をはっきりと掴むことができないのだ。それどころか読むほどに分からなさが増幅し、徒労感ばかりを覚え、そのうちに、「もう、適当にしておこう」とさじを投げてしまうというのが『帚木』の巻である。
 それに、なにより分かった部分をつなぎ合わせてみても、話の内容そのものが面白くないのだから、困ったものである。この巻について正直に「つまらない」とか「わからない」とか言っている人はあまりないようであるが、私は本心そう思う。私以外の人は、おそらく文章作法の権化である紫式部に遠慮しているか、自分の理解能力のなさを思い知らされることになると思っているかであろう。
 多くの読者が、『須磨』の巻あたりで読むのを止めてしまうというのは、源氏物語が超長編だからということではない。『帚木』の巻で、余計な精力を使い過ぎてしまうからだ。それが後々まで影響していき、「源氏物語は、なにか難解で疲れるし面白くない」という印象がずっと心の底によどんでいくのだ。そして『須磨』の辺りで力尽きてしまう。その意味で『帚木』の巻は罪作りである。その責任の大半は「左馬頭」の冗舌にある。
 源氏物語の面白さは、『若菜上、下』や『御法』や『浮舟』などの巻に、山の如く用意されているのに、須磨で止まってしまうというのは誠に不幸なことである。
 だから、源氏物語を読むにあたっては、『帚木』の巻を飛ばすことである。ここに余計な精力をつぎ込まないことである。
 これは訳書についても同じことが言える。いわゆる『雨夜の品定め』のうち、「左馬頭」のしゃべりの部分をいろいろの人の訳文を見てみたが、いずれの訳書も何を言っているのか意味が通じないのだ。与謝野源氏、谷崎源氏、瀬戸内源氏、さては文章のつなぎの極めて巧みな林望の訳書も、この部分は意味不明である。したがって、これらの訳書を読む時にも、『帚木』の巻は割愛した方がよい。「割愛」と言うより、豁然と切り捨てることだ。
 ついでに、『帚木』以外にも、難しい上にあまり面白くない巻があるので、ここに紹介しておこう。これらも割愛していい巻である。ただこれには若干個人差もあるだろう。
 『花散里』 『朝顔』 『胡蝶』 『蛍』

 さて、それでは『帚木』の巻の何がいけないのだろうか。
 第一番には、やはり左馬頭の話の冗長さにある。冗長でも面白ければ何の問題もないのだが、冗長な上に、結局何を言っているのか分からないのである。彼の論理を分からなくさせているのが、
 次々と論点を変えてしまうこと
 論理が飛んでしまうこと
 繰り返しが多いこと
 例示と本論のつながりが不明確なこと
 矛盾や不統一が多いこと
などである。とにかく彼の話は、「階級論」から始まって、「女性論」になり「夫婦論」になり「理想の妻女論」になり、「人物論」、「芸術論」、「人生論」、そしてついには「宗教論」にまで至るのだから、いかに冗長であるかが分かるというものである。
 ただ「皆目わからない」と言ってしまっては、左馬頭の名誉にかかわるから、私が、苦労して探り当てた彼の主旨(頭中将の論理も含む)は、おそらくこんなところではなかろうかと思うことを次に列挙しておく。

『女性論』
  これならと太鼓判を押せるような、難点のない女は少ないもの。
  草深い家に思わず可憐な女がいたりする。
  親や兄弟が醜くても、意外に心惹かれるような女がいる。
  箱入り娘は、親が熱心に教育するし、時間的にも諸芸を習う条件も整っている。それに何よりも、そういう家の育  ちの娘は、親が娘の欠点などを隠してしまうので実体が外に現われない。噂だけで男が動かされてしまうのであ   る。
  それに比べて、中流の娘は、個性がはっきり出るから善し悪しが分かりやすい。
  まるで才芸がない女というのもどんなものだろうか。そこそこ字がうまいとか、そこそこ歌が詠めるとかいうのが  いい。
  性格がひねくれているのは、もちろん願い下げである。
  とにかく家柄、容貌は問題ではない。
  男に気をもませるような色っぽい本性の女は敬遠したほうがいい。
  あどけなく、無邪気で、素直な女をいろいろ教育し、しつけていくというのがいい。
  少し頼りないぐらいがいい。
   (最後の三つは妻女論とも重なる)

『妻女論』
  妻としては、 ただ一筋、堅実で静かで、落ち着いた性格の女が良い。
  家の中を切り回せる女であること。
  必要なことを適切に処理できる女であること。
  これに、たしなみや気働きがあれば結構。
  ただし、実直一辺倒で、身だしなみに気を配らないような女ではだめ。化粧もせず家事にかまけていてはいけな   い。
  頼りないのはだめ。
  夫の仕事上の話などにも適当に相手になれる女であること。
  焼きもち焼きではないこと。
  夫の世話ができること。
  趣味(歌など)に身を入れ過ぎるようではいけない。

『夫婦論』
  とにかく、一緒になった縁というものを大事にして、めったなことでは別れないことである。そうすれば、夫の方  は「誠実な男である」という評価を受けるし、妻の方も、「捨てられないだけの良さを持っているのだろう」と、  よそから思われるはずだ。
  どんな危機があっても、それを乗り越える努力をすること。
  妻は嫉妬心を抑えることが大事。妻次第でことが収まるものだから。
  だからといって夫をあまり放任しすぎるのもよくない。
  表面的な情愛などは、夫婦をしていれば自然に湧いてくるものである。目先だけの思わせぶりの情愛などは頼りに  ならないものである。
  それにしても、理想的な夫婦となると、なかなかないものである。

『階級論』
  成り上がり者は、世間の思惑が違う。つまりいくら成り上がって立派な生活をしても、世間から高くは認められな  い。
  落ちぶれ者は、経済的に不如意で、世間を渡る手づるに欠ける。気位だけいくら高く保っても生活上厳しいので   は・・。
  受領階級、あるいは四位くらいで非参議あたりがいい。この階級だと、娘を輝くばかりに育てていたりするもので  ある。
  家柄が良くても、ろくな教育もしつけもしておかない家庭がある。

 これら左馬頭や頭中将の考えが、以降の物語の展開に影響を及ぼしていくことは確かである。たとえば、「中流階級に育った娘の良さ」という話に影響された光源氏が、中流階級の空蝉や夕顔(これは中流か下流かわからないが)と接触していくのもその表れである。
 しかし、だからといって、『帚木』で述べられた論理が理解できていなければ、以降の物語の理解に支障をきたすかといえば、そんなことはないのである。
 『帚木』の巻をつまらなくさせているもう一つの理由に、左馬頭、頭中将、藤式部丞による長々しい体験談がある。面白おかしい体験談を披歴している割には、実はいずれも現実味に欠け、面白くないのである。また、これらの体験談が本論とどう結びついているのかも不明確である。
 やはり『帚木』の巻は割愛することが、源氏物語と長く親しむコツになる。
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