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源氏物語

源氏物語たより170

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  再々源氏の覆面の真相 源氏物語たより170

 光源氏は、五条わたりで車を止めている時に、今まで見たこともない白い花があやしき家の塀に咲きかかっているのを見て、思わず
 『をちかた人にもの申す』
と花の名を問いかける古歌を口ずさんだ。すると、その家の女主は、扇の上に乗せた白い花を女童に持たせ、源氏の供人に差し出した。その扇には次の歌が書かれていた。
 『心あてにそれかとぞ見る 白露に光そへたる夕顔の花』
 この歌を巡って従来さまざま憶測がなされてきたが、多くは、この「夕顔の花」を「光源氏」と解釈している。女主は、花の名を問い掛けてきたのは「光源氏の君である」と、推量したというのだ。たとえば岩波の『日本古典文学大系』では
 「当て推量で、源氏の君かとどうも、私は見ます。白露が光沢を添えている夕顔の花の如き、夕方の顔の美しい方を」
と、している。日本語になっていない妙な文章であるが、いずれにしても「夕顔の花」を当て推量ではあるが「源氏の君」とお察ししました、という解釈である。
 このことに関して、私は「源氏物語たより1~4」で詳しく述べたところであるが、『夕顔』の巻を読んでみて、改めて従来の国文学者の解釈の甘さを思い知らされるのである。そもそも、時は暮れ方であるし、源氏は車の中にいる。それに、この屋の女主や女房たちは家の中にいるのだ。にもかかわらず、「車の中の貴公子は源氏の君である」などと分かるわけはないのである。
 この後も、この屋の女主は、花の名を問いかけてきた男が「源氏の君である」とは分かっていない証拠がいろいろ出てくるのだ。源氏が顔を隠して(覆面?)女に逢い続けたのもその一つだ。にもかかわらず、なぜ専門の学者たちはそれを問題にしないのか不思議でしかたない。が、今回はこれについては煩わしいので再掲は省くことにする。

 さて、女主が寄こした歌は、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の次の歌に依っていることは明らかである。
 『心あてに折らばや折らん 初霜の置きまどはする白菊の花』
 「もし手折るのなら、あて推量に折っても見ようか。初霜がいちめんに降りて、(霜なのか、白菊なのか)区別も分からなくしている白菊の花であるよ。『京都書房 新解 小倉百人一首』」

この歌は、百人一首で有名であるが、正岡子規が「悪歌の典型」と酷評した歌でもある。ここでしばらく源氏物語から離れて、子規の論とそれに対する批判の論を追ってみることにする。
 正岡子規は、『歌よみに与ふる書』の中で、古今集や新古今集の歌が、いかに下劣なものであるか徹底して批判したのだが、躬恒のこの歌がその標的の一つになった。

 「この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半句の値打も無之、駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり。初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣い無之候。趣向嘘なれば、趣も糸瓜も有之不申(これありもうさず)。けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて・・」

 このような論理に立ったうえで、万葉集や金塊集の価値を彼は謳歌した。それにしても、よくここまで糞味噌(子規の好きな言葉)に批判したものである。子規の品性が疑われる一文である。
 梅原猛は『美と宗教の発見(筑摩書房)』の中で、この子規の論を逆に徹底して批判した。梅原は躬恒の歌をこう評価する。
 「この歌には、菊の白さと霜の白さ、二つの白の対照、白一面の目の覚めるような艶麗な美しさがある。しかも、そのような美の世界を前にした作者の心の一瞬の驚きとたゆたいのようなものがある。悟性を交えることにより、美感は一層繊細になりはしないか」
 そして、
 「彼(子規)は、歌を感覚的意識とそれに伴う感情に限定した。そのような直接意識の段階を越えた広く深い美の意識にたいして、彼(子規)は全く盲目であった」
 要するに、人間は理性と感覚の間で揺れる存在で、子規はそのような人間の微妙な心の働きに対しては鈍い感覚、観念しか持っていなかったったということであろう。
 先に上げた『新解 小倉百人一首』でも、躬恒の歌をこう評価している。
 「初霜の白さは、晩秋の精の結晶のように新鮮で美しい。しかも主素材とする白菊は、それ以上に霜の白さを吸って息づくかのように繊細かれんであろう。造化の世界の作り出すこの美しさを、知・情・景の調和した表現にとらえて、気品高い一首としている」
 私も、この歌に限らず躬恒の歌はみな素晴らしい歌だと思っている。

 私たちは、正岡子規の、あまりにも大胆な古今集批判、新古今集批判によって、明治以来随分歌に対する感覚を鈍らせてきてしまった。梅原猛の反論で私は目が覚まされた思いをしたのだが、未だに「古今集は悪歌の巣窟。万葉集は秀歌の殿堂」と思っている人が多いのではなかろうか。
 このことは誠に大きな問題なので後にまとめて論じてみようと思っている。

 さて、源氏の歌に戻ろう。宿の女主は、最初は通りがかりの男が、何を指して『をちかた人にもの申す』と言っているのか、判断がつかなかった。しかし、すぐに
 「あ、ひょっとすると・・」
と思ったのだ。夕日を受けて、露がその白さを増している。その輝きは、夕顔の花に映え一層の光りを湛え,花の白さを浮き上がらせている。夕日と露と夕顔の花の白さが渾然として、あたかも躬恒の『心あてに』の歌のような状況を構築しているではないか。その美しさに道行く貴公子が気づいたのだ。あの方が『をちかた人にもの申す』と花の名を問うたのは、あの夕顔の花に違いない、と女主は悟った。そこで、
 『心あてにそれかとぞ見る 白露に光りそへたる夕顔の花』
と答えたのだ。
 女主にとっては、夕顔なんてごくありふれた花、見慣れた花である。今までそれほど注目するような花とも思っていなかったのに、あの貴公子は、大路の通りすがりに、目ざとくその美に気が付かれた。なんと素敵な「光を添えた人」ではないかと女は感動したのだ。

 後日、源氏は、女主の家に通うようになり、女の「あさましいほどやはらかで、おほどきたる」人柄に溺れていく。女主も、その男がどういう身分で何という人かもわからないが、でも、あのなんということもない夕顔の花に注目し、その価値を知らせてくれた方である、素晴らしい方に違いない、と、全幅の信頼を寄せ身を任せていったのだ。
 六条の廃院で彼女が急死する夕方、源氏は身分を明かした。しかし、彼女は
 『海士の子なれば』
と言って、決して素性を明かそうとはしなかった。それは、源氏との関係は、身分でもない、位でもない、何という名でもない、花を愛する人という一筋で繋がっていれば十分だったのだ。  

 やや飛躍した解釈であるかもしれないが、『夕顔』の巻の幻想の世界は、ものをはっきりさせない、いわば「心あて」の関係で成り立っているのだ、としみじみ思う。
 正岡子規はそのような人の心の「微妙さ」を理解しようとしなかった。目に見える確かなものを眼に見たとおりに写生する浅さに安住した。古今集や新古今集の優美、鮮麗な世界や、妖艶、幽玄な境とは無縁なところで、子規は走り回っていた。


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