源氏物語

源氏物語たより203

 ←源氏物語たより202 →源氏物語たより204
   榊のはばかり  源氏物語たより203

 賀茂祭での車争いで、ひどい屈辱を味わわされた六条御息所が、さぞ鬱屈した気分でいることだろうと、光源氏は、慰めがてらに六条にある御息所の邸を尋ねる。すると彼女は、
 『榊のはばかり』
を理由にして源氏に会うことを拒んでしまった。実は「榊のはばかり」は口実で、この時は真実源氏に会いたくなかったのである。

 ところで、ここで使われている「榊のはばかり」とは一体何のことであろうか。、なにか奇妙な言葉で、これだけでは何を言っているのか皆目分からない。「はばかる」は「人目をはばかる」などと使われるように、「恐れ慎む」とか「気兼ねする」とかいう意味であろうが。
 清水好子(当時、関西大学教授)は、『国文学』(学燈社 昭和47年発行~これ相当古い論文であるが)のなかで、これは紫式部独特の造語であると言っている。これ以前の物語などには全く見られない言葉遣いで、源氏物語以降の物語でも、これに類した(模倣した)表現はないと言う。 
 彼女は、こういう紫式部の造語として、「榊のはばかり」以外に、
 「禊(みそぎ)河の荒かりし瀬」」「はかなかりし所の車争ひ」「よろづのあはれ」「野宮の御移ろひ」「簀子ばかりの許され」「月かげの御かたち」
などを上げている。
 これらの言葉は、あることを長々と陳述するのではなく、一つのまとまった語形に近づけて、いわば「体言化」を図ったものであると言う。でも、それは、ただ単にたくさんの意味を持った言葉を短い語形に詰め込んだものではなく、物語の主題や登場人物の人間像に深くかかわっている表現であるとしている。
 いささか難しい理論で、簡単には理解できないのだが、「榊のはばかり」の語を頼りにしてその意味を探ってみようと思う。
 「榊」は、神社などによく使われる樹木で、明治神宮などの鳥居などにも相当大きなものが結わえつけられているのを見ることができる。というよりも一般家庭でもよく神棚に飾る、例の常緑の樹木である。私の家でも、暮れになると神棚に「榊」を飾った。

 ところが、ある時、テレビで、紀伊山地の小さなお社の祭りの様子が放送されているのを見ていて、村民が「サカキ」だと言ってたくさんの枝葉を神前に供えていたのだが、その「サカキ」はどう見ても私が子供の頃から慣れ親しんできたあの「サカキ」ではない。葉も大ぶりでゆったりしているし、枝振りもなにか小奇麗に見える。
 「え、これがサカキ?」
 それ以降、サカキについてひどくこだわるようになった。
 近くの公園を散歩している時、ここでよくお会いする植物の専門家みたいな人に、サカキについて聞いてみた。すると
 「この公園にあるものはすべてヒサカキです。サカキはたった一本しかありません」
と誠に明快に言われる。そして、そのたった一本のサカキのところに案内してくれた。
 それを見て、今までの私の認識が全く誤りであることを知った。私が子供の頃からずっと「サカキ」だと思っていたものとはまるで違い、紀伊山地の小さなお社に飾っていたあのサカキそのものであった。
 葉がすらりとしていて、私がサカキと思い続けていたものよりも、二、三倍もの大きさである。葉の付き方もせせこましくなく余裕がある。それに葉にギザギザ(鋸歯)がないのでスマートである。枝や幹も滑らかで、思いなしか全体に気品が漂っている。なるほどこれだったら、神棚や神社に捧げるに相応しい風格がある。 
 専門家みたいな人がこう言った。
 「サカキは、関東には少ないんですよ。それで、神棚にはヒサカキを上げます。関西ではみなサカキです」
 そこで、『樹木図鑑 (日本文芸社)』を見てみたら、確かに彼女が言う通りであった。
 「(サカキは)、暖地の常緑樹林に生え、枝葉を玉串として神前に供えることから、神社によく植えられる」
 「(ヒサカキは)、常緑樹林内に生える。関東ではサカキの代わりに神事に使われる」
 関東で使っているものは「ヒサカキ」なのだった。ヒサカキとは「非榊」と書くのだろうから、「サカキにあらず」と言うところから名づけられたものかと思ったら、そうではなかった。『樹木図鑑』には、本物のサカキより小さいので「姫榊(ヒメサカキ)」と呼ばれ、これがなまって「ヒサカキ」となったのだとある。

 この木は、関東の山林には無数に自生している。それほど大きな木ではないのに、枝や葉が密生しているから、周囲を暗くしてしまう。そのためにせっかくの山林の風情が台無しになってしまうこともある。
 葉には鋸歯があり、枝にはびっしりと花を付け、この花が秋になると暗紫色の実となる。子供の頃、この実をよく「インク」の代わりにして遊んだものである。手が紫に染まった。
 この葉にはアマノジャクのような毛虫が付き、葉を食い荒らす。神棚に捧げようと好い枝を探すのだが、ほとんど毛虫に食い荒らされていて、完璧な枝を探すのは難しい。
 葉の具合にしても花の付き方にしても、どうもすべてが洗練されずごみごみしていて、品のない感じがする。関東ではどうしてこれを神棚に上げられるようになったのだろうか、不思議である。

 榊は「賢木」とも書く。「かしこい木」ということで、「畏れ多くもかしこくも」の「かしこい」木という意味であろう。「神の木」になるためには、やはり品があり賢くなければならない。
 そういう目で見ると、本当の榊は誠に高貴で爽やかである。ヒサカキの遠く及ぶところではない。榊は花瓶に挿しておくといつまでも緑を保っていて、一カ月たってもつやつやとしていて変化することがない。これでこそ神の木であり賢木なのだ。

 「榊」の説明が随分長くなってしまったが、御息所は「(この)榊のはばかり」を理由に源氏に会うことを拒んだ。
 なぜ彼女はこの榊を持ち出したのであろうか。その理由を探るためには、まず「斎宮」というものについて説明しなければならない。
 斎宮に卜定されると、まず宮中にある「初斎院」と言うところに入り、精進潔斎をする。初斎院に当てられた殿舎には、神聖を保つためにその四隅に榊が飾られ、標(しめ)が廻らされる。ここで潔斎した翌年、嵯峨野にある野宮に入って再び一年間精進潔斎をしなければならない。そしてさらにその翌年、つまり卜定されてから三年目に、桂川で禊を行い、ようやく伊勢に旅立つという段取りを取るのである。

 通常は斎宮に卜定されると、すぐに宮中の初斎院に入るのだが、何か都合があったのだろう、御息所の娘はまだ六条の邸に母親と一緒にいた。そのためにこの邸も榊を飾っていたのである。玉上琢弥著の『源氏物語評釈』(角川書店)には
 「榊に、木綿(ゆう 楮の皮をさらして白くし、主としてぬさとして、祭りの時に榊に付けるしでのこと)をつけ、御殿の四方及び内外の門にその榊を立てて、斎宮の居所を清浄にすることになっている」 
とある。とにかく斎宮がいるところには榊を立てなければならない、ということである。
 御息所はこの「榊」を口実にしたのである。つまり、榊を飾ってある場所は「神域」である、神域である以上はみだりに人が入ってはいけない、まして恋に戯れる男女が入るべき場所ではないのだ、ということである。御息所は、
 「我が邸は、斎宮が精進潔斎をしている神聖な場所でございます。そこにあなたがやって来られたのでは神聖を穢すことになりますので・・」
という口実で、会うのを慇懃(いんぎん)に拒んだのだ。でも真実は
 「源氏のつれなさには愛想が尽きる、しかも祭りの日には徹底的な屈辱を受けた、こんなにうちひしがれた状態でいる時に、源氏に会うことなどできようか」
ということであったのだが、それをあからさまに言うわけにはいかない。そのために「榊」を都合の良い口実にしたのだ。
 畏れ多くも賢い「榊」を出されたのでは、源氏は、神を憚り退散せざるを得ない。
 これは御息所の苦渋の意思表示であり、女の怨念にも似た心境の表われと言ってもいい行動なのである。

 このように、「榊のはばかり」は、単に多くの意味を短い言葉の中に詰め込んだだけではなかった。たった六文字の中に、清水好子の言うとおり、『葵』の巻の中心主題である女の複雑な思いが込められているとともに、六条御息所と言う女の生き様(人間像)にかかわっている言葉だったのである。
 このことが分かった以上、品性も劣り毛虫に食い荒らされるような「ヒサカキ」は、「神のはばかり」を演じるには少々力不足のようなので、やはり神棚には飾らない方がいいのかもしれない。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【源氏物語たより202】へ
  • 【源氏物語たより204】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【源氏物語たより202】へ
  • 【源氏物語たより204】へ