源氏物語

源氏物語たより213

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  手枕 ノクターン  源氏物語たより213

 光源氏が、葵上の四十九日の喪に、あれほど厳粛に、真摯に服していたのは、「冷たい男」としての印象を葵上に残したまま死なせてしまったことによる懺悔の思いからで、決して演技でも計算でもなく、衷心からのものであった、ということを前回(たより122)述べた。
 ただ、彼が左大臣の邸を去って、二条院に戻った時の行為に、また新たな疑問が出てきてしまうのである。というのは、久しぶりに会った紫上が女としてすっかり成長しているのを見て、初めて男、女の契りを結んでしまうのである。
 これではいくらなんでも「なぜ葵上が亡くなったばかりのこんな時に?」という疑惑は払拭することができない。正妻・葵上を亡くして、あれほど深く悔やんでいながら、また哀しみの涙も乾かぬうちに、どうして紫上と契らなければならないのか、ということである。それがあったのは、二条院に帰ったわずか二日後のことなのである。

 『時しもあれ』という言葉がある。「折もあろうに」という意味である。源氏は、紫上を、十歳の時に拉致同然に二条院に連れてきた。その後四年間、毎日同衾はしていたものの、性的な行為は一切持とうとしなかった。「女になる」のを慎重に待っていたのだ。それはそれとして立派なことである。今回初めて契って、それによって正式な結婚に至ったのである。
 しかし、なぜこの時期でなければならなかったのか。四年間待ったのであれば、後はいくらでも日は選べるはずである。この状態を「時しもあれ」ろいう。あと半年、いや三か月なぜ待てなかったのか。現代でも妻を亡くした男が、一年以内に再婚することは、はしたないことにするものだ。
 こんなことを考えていると、結局また、葵上の死に際してのあの悔恨の情や滂沱(ぼうだ)の涙は、演技や計算であったのではなかろうか、という疑問に逆戻りしてしまいそうである。作者に何か意図があるのかもしれないが、文章上からは読み取ることはできない。

 しかし、今回はこの問題を追及することが目的ではない。源氏と紫上の初めての契りに関することである。
 男と女が初めて床を共にすることを『新手枕(にいたまくら)』あるいは『新枕』という。「枕を交わす」と言う言葉が今でもあるが、初めて枕を交わすことが「新手枕」である。いずれもなかなかうまい表現である。「初めての同衾」とか「初めての情交」とかいう生々しい言葉よりもはるかに品のある言い方である。

 さて、源氏は、紫上を二条院に連れてきて以来、初めて性の契りを交わした。すると不思議や、あれほどの性のベテランが
 『かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに(ついちょっと)まいり給へるほどだに、しづ心なく、(紫上が)面影に恋しければ、「あやしの心や」と、我ながら思さる』
のである。そして、あちらこちらからの女性から,逢いたい旨の手紙などが来きても、今ではそれらが煩わしく、もの憂くて、外歩きもまったくしなくなってしまった。それもこれもみな
 『新手枕の心苦し』
さからである。ほかの女のところに通って行けば、一夜、二夜、紫上に会えなくなる、それがいとおしくてならないのである。
 実はこの場面そのものが、次の万葉集の歌からの引き歌なのである。本の歌は

 『若草の新手枕を巻きそめて 夜をや隔てん 憎くあらなくに』

 「若々しいあの子と初めて手枕を巻いてからというもの、一晩だって離れていられやしない。だって、あの子が可愛くていとおしくてしかたがないんだから」という意味である。
 確かに初めての性の営みというものは、男にとっては(女も?)、世界がひっくり返ったようなもので、それまでのプラトニックな交際の時とは全く違ってしまって、相手がいとしおくて可愛くてたまらなくなるものである。源氏のような男でさえそうなのだから「新手枕」には、不思議な魔力がひそんでいるのだ。

 万葉集には「手枕」の歌が多い。そのうちの二つだけ私の好きなものを上げておこう。
 『朝寝髪 我はけづらじ 愛(いつく)しみ君が手枕触れてしものを』
  (朝のこの髪を私は梳(くしけず)ることはしまい。なぜって、枕にしたあなたの手が触れた髪なのだもの)
 『足柄の崖(まま)の小菅の菅枕 何故(あぜ)か巻かさむ 児ろせ手枕』
  (足柄の崖に生えている菅で作った菅枕などを、あなたはどうしてしているのさ。私のこの手枕をすればいいでしょ  う に。さあ)
 一首目は、今朝の私の髪に夕べの彼の熱い感触が残っているという、非常に明るく素朴な、それでいて官能的な歌である。
 二首目は、あけすけで遠慮のない男と女のやり取りで、土俗的な、いかにも東歌らしい雰囲気の歌である。

 ところで、百人一首にも手枕の歌があり、これがまたふざけた歌なのである。
 『春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなくたたむ名こそ惜しけれ』
 「春の短い夜に、あなたと夢のようなはかない契りを交わしたとしても、そんなはかない契りのために、ようでもない浮名がたってしまったのでは、ほんとうにつまらないことですわ」という意味なのだが、この歌には次のような詞書きが付いている。
 「作者・周防内侍(すおうのないし)が、二条院で大勢の男女で話し込んでいるうちに、眠くなってしまったので
、『より臥して「枕もがな」と、しのびやかに言ふを』
耳敏く聞いていた大納言・忠家が、「これを枕に」と言って、自分の腕を御簾の下から差し入れた時に、内侍が詠んだ歌なのである。もちろん忠家は、周防内侍を憎からず思っていたのだろう。『評解 小倉百人一首』(京都書房)には
 「匂やかな春の夜の王朝のサロンの光景は幻想的で・・男女の機知の戯れを想わせて、妖艶な美を詠い上げている」
とある。御簾の下から腕をにゅっと突き出すのだから、王朝のサロンも随分くだけたもので、妖艶と言えば妖艶であるが・・。百人一首の歌会でそんなことを考えながら取っていたら、みな人に取られてしまう。

 枕」を辞書で引いてみると、これに関する言葉が溢れかえっていた。いかに枕が人と密着したものであるかが分かる。しかも、ある辞書に依れば
 「枕は魂の宿っているもの」
でもあるそうだ。たとえば、「枕詞」という語があるが、「歌を詠む時の典拠とすべきもの」ということで、「重要な」という意味である。枕は確かに重要なもの、特に夜は必需品である。私などは、枕なしでは魂が浮遊したようになったしまって夜を過ごすことができない。また、人によっては「マイ枕」があって、旅行に行くにも持参しないではいられないという。この枕は女と考えても面白い。枕がなくても平気で眠れるのは、「もの思わぬ」子供だけである。
 そういえば、子供の頃、母の「膝枕」で耳の垢を取ってもらったものだが、あの時の快さは天にも昇るようで、思わず眠ってしまった。やはり子供にとっても枕は大切なものなのかもしれない。
 四畳半で女の膝枕などという経験はないが、さぞ天国であろう。枕には確かに魂が宿っている。
 ところが、手枕は疲れてくるのが欠点だ。すぐ痺れてくる。江戸の都都逸か何かに
 「片方が主と添い寝の邪魔になる」
などというのがある。あれは慣れのために、手枕をするのも鬱陶しくなってきているのだ。慣れはせっかくの魂をもどこかに吹きやってしまうということだろう。馴れと相手次第で痺れの感覚も微妙に変化する。
 でも、いずれにしても手枕は理想でもあり憧れでもある。源氏のようなその道の百戦錬磨の男でも、紫上との新手枕ともなれば、全てに勝って彼女がいとおしくなるのだから。


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