源氏物語

源氏物語たより228

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   桐壺院崩御と御遺言騒動 源氏物語たより228

 桐壷院は、神無月の頃、病が重くなられ、明日をも知れない状態になられた。朱雀帝が院のところに行幸されると、「あはれなる御遺言」を数多くお与えになられた。特に、春宮(後の冷泉帝)の後見をよくするよう
 『返す返す聞こえ給ふ』
のであった。
 さらに続いて源氏のことについても、こう御遺言なさる。
 『(光源氏のことを私の在世中と同じように)大小のことを隔てず、何事も御後見と思せ。(源氏は)齢のほどよりは、世をまつりごたむに、をさをさはばかりあるまじう(まったく心配ないだろうと)なむ見給ふる。かならず世の中保つべき相ある人なり。
 (だから、皇子にもしないで臣下に降ろしたのだ。公(帝)の後見をさせようと思っての配慮である)その心、違へさせ給ふな』
 朱雀帝は、院の御遺言をお聞きになって、
 『さらに違え聞こえさすまじきよし、返す返す聞こえさせ給ふ』
のであった。「決して御遺言に背かない旨を、何度も何度も繰り返してお誓い申した」ということである。

 一方、院は源氏に対しては、「公ごとをしっかりすること、春宮の後見をしっかりすること」を返す返す言い残されるのであった。
 それは自分亡き後の世の中が心配でならなかったからである。院の一番の心配事は、「春宮がまだ幼い(四歳)」ということである。春宮は、院が寵愛されている藤壺中宮との間の子で、格別の愛情がある。そのために無理をして皇太子に立てたのだ。
 また、源氏のことをも、朱雀帝にこれほど懇ろに頼んだのは、院がこよなく寵愛された桐壺更衣の子であるために大后(かつての弘徽殿女御)に睨まれているからである。
 朱雀帝は、もちろん大后の子であり、右大臣の孫である。自分(院)亡き後は、必ず右大臣のワンマン天下になるだろ。そうなれば、源氏は大后の迫害を受けるであろうことは目に見えている。そのために源氏がもし失脚するようなことになれば、春宮は、唯一の後ろ盾を失うことになり、「廃太子」という事態にもなりかねない。
 この二人の子に万一のことがあるようでは、死ぬに死にきれないのだ。
 院とすれば、朱雀帝に強い縛りとなる「御遺言」を残すことと、帝の情にすがるしか方法はなかったのである。「返す返す」という言葉が繰り返されているのは、院の心の底からの必死の叫びなのであることがよく出ている。

 紫式部は女であるから、政治に関することは、物語上ではあまり触れないようにしているが、
 『(政治的なことは)女のまねぶべき(語る)ことにしあらねば、この片端だに(語ってしまったのは)かたはらいたし(気が引けることだ)』
といっている。そのため、政治問題は物語にはあまり描かれていないが、状況から見て、桐壺院は、在位中は「親政(天皇中心の政治)」を、譲位後はいわゆる「院政」的な政治形態をとっていたのではなかろうか。というのは後にこう書かれているからである。
 『御位を去らせ給ふと言ふばかりにこそあれ、世の政事をしづめさせ給へることも、我が御世(天皇在位中)とおなじことにておはしまいつる』
 譲位の後も、在位中と同じように権威を奮っていたということである。そのために、源氏は、さしたる後見もいないのに、相当自由に振る舞うことができたのだし、若い源氏の提言が天皇から退けられたこともなかったのだ。
 また、桐壺院が、譲位するにあったって、藤壺中宮の幼い子を立太子させることができたのも、院の力が強かったからであろう。
 譲位後は、源氏はやや失意の状態にあったとはいえ、まだまだ強い権勢を保っていた。源氏や春宮が安泰でいられたのも、みな院が存命していられたからにほかならない。
 逆に言えば、右大臣の力がまだ弱かったということでもある。
 ところが、院がいなくなられれば、右大臣の天下がやってくる。そうなれば、大后が黙っていないことは火を見るより明らかなことだ。現に、
 『院のおはしましつる世こそ、はばかり(遠慮)給ひつれ、后の御心いちはやくて(性急で激しくて)、かたがた思しつめたることどもの報ひせんとおぼすべかめり』
とある。院が亡くなった今こそ、心に鬱積していた「かたがた(あれこれ)」の恨みを晴らそうというのだから、怖い。「かたがた」の中心になっているのは、当然源氏である。彼女の報復の照準はぴたりと定まった。

 ところが、皮肉なことに、彼女の照準を狂わせてしまったのは、息子(朱雀院)の気弱さである。帝はとにかく人が好い。
 『御心なよびたる(温厚な)方に過ぎて、強きところおはしまさぬなるべし』
なのである。親(院)の遺言を無視して、「まあ、いずれ院(親)も死んでいくのだ。適当にあしらっておけばいい」などと考えることのできる人物ではない。彼が
 『(御遺言を)さらに違え聞こえさせまじきよしを、返す返す聞こえさせ』
たのは、彼の本心からである。源氏や春宮を大事にしなければいけないという院の御遺言は、彼にとっては絶対の重みを持つ。
おそらく、源氏排斥のための、大后の企てや言動は、陰に陽にあったのだろうが、朱雀帝の気弱さがそれを抑えていたのかもしれない。

 ところで、宇多院(天皇)が、醍醐天皇に残した「御遺誡(ごゆいかい)」は歴史上有名である。「遺言」とは若干ニュアンスを異にするが「後の人に戒めの言葉を遺す」というものである。
 宇多天皇も「親政」をしいた天皇で、藤原氏とは無関係な菅原道真を右大臣にするなど、相当思い切ったことをしている。藤原氏の勢力がさほど強くなかったということであろう。
 醍醐天皇は、この御遺誡をいろいろの面で忠実に守ったようである。が、藤原氏の権勢が強くなってきたためであろうか、宇多天皇が重用していた道真を、大宰府に左遷せざるを得なくなった。道真を重用せよという御遺誡があったかどうかは分からないが、宇多院は、道真左遷の報に接した時に、相当驚きあわてふためいている。自分の寵臣であって道真を、醍醐天皇がかくも簡単に排斥してしまうとは思わなかったのだ。
 親の遺言を子供が守らなければならないことは、洋の古今、東西を通じて同じことであろうが、状況によってはなかなか遺言どおりにはいかないものだ。
 源氏が、実質的に須磨に左遷されるようになるのは、院崩御後、二年余りも後のことである。大后にすれば、遅きに失したであろう。源氏も、ついに道真と同じ運命をたどることになってしまった。(これは源氏物語が、道真の故事をなぞったとも考えられる)
 朱雀帝は、心ならずも源氏を結果的に圧迫したことになってしまった。御遺言を守ろうとする思いは強かったのだが。

 院の御遺言に対して、一番忠実ではなかったのが源氏かもしれない。藤壺中宮に相変わらず言い寄ってみたり、敵方である右大臣の娘・朧月夜と関係を持ってみたり、そんな奔放な生活を繰り返していたのだ。これでは「春宮」の後見などとてもおぼつかない。朱雀帝も、源氏のこの奔放な行動によって院の御遺言を破ることになってしまったのだ。
 それに比べて、藤壺中宮は、賢明であった。春宮を守るために尼になったのである。源氏との恋愛沙汰が表に出れば、春宮は当然「廃太子」ということになる。中宮の位を捨て、尼になるという犠牲を払って子供を救ったのだ。
 これは桐壺院の御遺言にはなかった筋書である。ことは院の思いもしなかった路線を突っ走ってしまった。


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