源氏物語

源氏物語たより233

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   光源氏は本当に空蝉と契ったのか 源氏物語たより233
 
 源氏物語は、性の場面をあからさまに描くことはしないということについては、今までも何度か述べてきている。
 特に、藤壺宮との最初の出会いなどは物語には全く描かれていない。ただ光源氏が「そのことが、あった、あった」と騒いでいるだけなのである。源氏は「宮の子供は、自分との間の子である」と繰り返し言っているし、宮自身も、そのことで罪の意識にさいなまれ続けているから、性関係があったと考えざるを得ないだけなのだ。
 また、二度目の逢瀬は、物語にはっきり描かれているものの、例によって性の場面は完全に省かれてしまっている。しかし、二人の詠み交わした歌で、そのことがあったことは確かである。しかも、あの愛の絶唱歌は、閨の中で二人で横たわって詠み交わしたものであることも明らかである。

 さて、源氏が空蝉と会った夜の場面でも、本当に性的な契りがあったのかどうか、読み解くのはまことにむずかしい。私には、何度読んでも性的契りがあったとは読み取れない。それでも、すべての解説書や訳書がそう言っているから、間違いないことなのだろう。

 源氏は、みなが寝静まったのを確かめてから、障子(襖のこと)を試みに引き開けてみると、何と掛け金がかかっていなかった。障子の向こうには几帳が立ててあって、部屋の中は調度のようなものが乱雑に置かれている。火がほの暗く灯されていて、その中を源氏が分け入って行くと、
 『ただ一人いとささやかにて(小柄な感じで)臥した』
る女にたどり着いた。今まで求めていたあの女である。源氏は甘言、虚言を弄して、女に口説きかかる。そして彼女を
 『かき抱きて』
自分の部屋に連れて行く。しかし、女はあまりにあさましいことと思い、死ぬばかりになって汗も流れ落ち、気持ちも悪くなってしまう。それでも、めげずに源氏は口説き続ける。
 しかし、あまりに頑な拒絶に、さすがに手折ることもできそうもない。
 と、ここまでは間違いなく二人の間には性的関係は持たれていない。

 その後、源氏は、女のあまりの頑なさを愚痴り、女も嘆きの言葉を漏らしているうちに、
 『鳥も鳴きぬ。人々も起き出でて』
きてしまう。これではとても関係があったとは読み取れない。

 そこで手がかりになるのは、源氏の思いと、女の嘆きの言葉だけである。源氏は
 『見ざらましかば、口惜しからまし』
と思うのだ。「見る」という言葉は、単にものを見ることではなく、「男が女と会う」ことであり「瀬的関係を結ぶ」ことである。したがって、源氏は空蝉とここで関係をつけておかなければ一生の悔いになると思い、何とか関係を持とうとしたということである。が、それはあくまで源氏の思いであって、強引に関係を結んだという証拠にはならない。
 果たして二人の間にそのことはあったのか、なかったのか。
 そこで、いろいろの訳書に当たってみることにした。特に「見ざらましかば口惜しからまし」の部分とその後の女の様子がどのように訳されているだろうか。

与謝野源氏「気の毒であるがこのままで別れたら後の後まで後悔が自分を苦しめるであろうと・・(空蝉は)もうどんなに勝       手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを」
谷崎源氏 「気の毒ではあるけれども、さりとてこれだけの人を知らなかったら、どんなに残念であろうかと・・いっかな機嫌      を直しそうもなくふさぎ込んでいるのを」
瀬戸内源氏「不憫ではあるけれど、もし思いを遂げずに終わっていたら、悔いを残しただろうと・・女が慰めようもないほど      いつまでもふさぎ込んで悲しがっておりますので」

とあり、いずれも二人の間に性関係があったことを既定のこととしている。
 特に橋本治などは「見ざらましかば」も何もない。非常に直接的に
 「後ろに回って女の体を抱きとめれば、観念した女の一途は、凝然たる白々しさを崩そうともしない。「・・あなたは何が起こるのかを承知の上で、そのように平然としていられる訳なのですね」と私の中では魔性がつぶやく。女の胸に手を差し入れれば、熱い胸乳に落ちた汗のしずくが」
と訳している。これではあまりにあからさまで源氏物語ではなくなっているので、論外であるが。

 「見ざらましかば・・」のあとは、二人の愚痴と嘆きが交差するばかりで、空蝉の嘆きは、
 「このように夫のある身でない時に
 『かかる御心ばへを見ましかば』
  (源氏様のこのようなお心を受けましたなら)」
とあるのが、それととれないこともない。また
 『よし今は「見き」となかけそ』
という言葉が、それを想像させるところである。「もう今更いいわ、ただ私と会ったことは決して言わないでくださいね」ということであるが、この「見き」を「男と女が関係を持つこと」の意味で取れば、もう間違いなく関係を持ったということになるのだが、「男が女に会う」という意味に取れば、単に源氏と会って一夜を過ごしたということになる。誠に難しいところである。

 ある人が、
 「高校時代に百人一首で一番好きだった歌が
 『あひみての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり』
だったけれども、“会う”が“男女が関係を持つこと”だと知って、嫌いになってしまいました」
と言っていたが、現代の我々が持っている認識と古語とのずれで、随分意味も変わってしまう。案外、平安時代の「見る、あるいは会う」という言葉は、男と女の生々しい直接的な感覚を表わしていたのかもしれない。
 だとすれば、私には、いくら読んでも源氏と空蝉との間に性的関係を読み取ることはできないのだが、古代人にとっては、
「そんなの当たり前でしょ。「見る」は性的関係を持つことよ。まして源氏様だもの、関係を持たずに別れるなんてことあるわけないでしょう」
という感覚だったのだろう。だとすれば、先に「論外」と言った橋本治流が一番源氏物語の本質をとらえた訳と言えるのかも知れない。



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