源氏物語

源氏物語たより235

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   人違いもものかは 『空蝉』を読む その4 源氏物語たより235

 小君の手引きで、光源氏は、空蝉の寝所に忍び込んだが、その気配をいち早く察した空蝉は、やおら起き出して生絹(すずし)の単衣(ひとえ)一枚だけを着て寝所からすべり出してしまう。
 それとも知らぬ源氏は、空蝉が一人寝ているのをしめしめと思って、女の傍に寄って上にかけてある衣を押しやった。すると
 『ありしけはいよりは、ものものしくおぼゆれど、(逃げてしまったとは)おもほしもよら』
なかった。「ありしけはい」とは、源氏が初めて空蝉のところに忍んで行った時のことを言っている。あの時の女は
 『いとささやか(小柄)にて臥し』
ていたのだが、この女はなにか大柄な感じがする。しかしまさか空蝉が逃げ出していたとは思いもしない。
 女は、源氏が上の衣をのけて体が触れるほどに近づいているというのに、気づかぬばかりか、みっともないほどの爆睡状態である。ここに至ってようやく「本意の人」でなく、人違いであることに気が付いた。
 普通の男だったら、この段階ですごすごと引き下がるはずである。ところが源氏は違う。このまますごすご帰ってしまったのでは、かえってこの女から
 「人違えをするようなアホな男」
と思われるかもしれないと考え直すのだから尋常な男ではない。それに
 『かのをかしかりつる火影ならば、いかがはせむ』 
と思って、この女をものにしてしまうのである。並みの男にはできない芸当である。「かのをかしかりつる火影」とは、空蝉と軒端荻が碁を打っている時に、源氏が垣間見た女の姿のことである。彼女は
 「胸もあらわにして碁に夢中になっていた。やや蓮っ葉な感じではあるが、肌の色はあくまでも白く、つぶつぶと太った大柄な女で、頭の形や額の辺りがあざやかで、口付きや目付きが愛嬌たっぷりである。全体的に華やかな、それでいて素直な感じ」
の女であった。あの時、源氏は、女を舐(な)めるように垣間見ていた。

 さて、やっと目覚めた女は、事の成り行きに驚きあきれたが、なすすべもない。源氏は、内心「この女はまだ男を知らないな」などと不逞なことを思ったりする。ここで、例の得意な嘘を言って女を丸め込む。
 「実は何度かここ(紀伊守邸)に方違えに来ているのは、あなたに会いたいがためなのだ」
と。そして、決定的な甘言(名言)を弄するのである。
 『人知りたることよりも、かやうなるは、あはれ添ふこととなん、昔人も言ひける』
 「恋というものはね、公然と人が見知っているような恋よりは、このようにこっそりと人知れずにする恋の方が、よほど「あはれ」も増すものだって、昔の人も言っているのだよ」

 この源氏の甘言には、二つの意味がある。
 一つは男を知らない女に恋のありようを懇々と教え導き、女を安心させること。
 そして、二つ目は、この恋が人に漏れないこと。
 もちろん源氏の目的はこの二つ目にある。うぶな女は源氏の名言に感動して、「恋というものはこっそりが最高」と会得して、決して人に漏らすようなことはないだろう、という計算である。源氏にとってはこれほど都合のいいことはない。まさに一石二鳥である。

 契りを交わしたというのに、結局、軒端荻は、源氏の心に止まるような女ではなかった。彼は、空蝉が脱ぎ滑らかしていった「薄衣」を手に取って部屋を出るのである。

 それにしてもこんなことは現実にはありえないことである。現代なら大変な犯罪である。住居不法侵入、婦女暴行、遺失物窃盗、虚言・・数知れずの罪状が付く。ところが、そこには何の嫌味も不潔感も悪徳の匂いもないのだから、不思議である。むしろ明るく、なにかくすりとしてしまうような可笑し味があるだけだ。
 それは、「そうなるべくしてそうなった」からではあるまいか。読者の勘の通りに物語が進行しているからである。
 というのは、あの空蝉と軒端荻が碁を打っている時の垣間見に種が仕込まれていたということである。源氏が、軒端荻を観察する視線はあまりに熱心であった。ヒロインであるはずの空蝉に注ぐ眼よりも、軒端荻に注いでいる視線の方がはるかに生々しく詳細であった。そしてあの時彼はこんなことを呟(つぶや)いていた。
 『(軒端荻も)さるかたにいとをかしき人ざまなり』
 今にして思えば、あれは熱心過ぎる垣間見であったし、あの呟きは、ちゃんとこの場面への伏線になっていたのだ。
 源氏物語に登場する女性は概してその姿がはっきりしない。藤壺宮にしても紫上にしても何か茫としていて、その輪郭が掴みきれない。それに比べてこの時の軒端荻の姿は実に鮮明であった。現実にもこんな女がいそうな気さえするほどだった。
 つまり、あの垣間見で、軒端荻をあれほど詳細に描写したのには、「ああ、やっぱりそういうことだったのか」とむしろ読者を納得させる仕掛けだったのだ。もしあの舐めるような垣間見が、それだけで終わってしまったとするならば、それは賤しい男の行為でしかなくなる。
 源氏物語ほど、伏線を用心深く、そして緊密に張り巡らし、それを効果的に生かしている物語は他に類がない。
 本来なら浅ましく許せない源氏の婦女暴行が、何の憤りを感じることなく、許してしまえるのは、物語を「そうなるのが当然」と思わせるように構成して行く紫式部のテクニックがあるからだ。


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