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源氏物語

源氏物語たより236

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   顔をもほの見せ給はず  源氏物語たより236

 惟光の奔走で、夕顔のところに通うようになった光源氏であるが、天皇の子であり近衛中将であるという身分の者が、「下の品」の女の家に通うなどは、
 『びんなく、軽々しきこと』
なので、完璧なほどに身を隠して通うことにした。童も絶対人に知られないような者を選び、徒歩で通ったのである。源氏の邸である二条院から夕顔の屋敷がある五条までは随分の距離(約二キロ)がある。もちろん御装束もやつした狩衣姿である。その上、
 『顔をもほの見せ給はず、夜深きほどに、人を(寝)しづめて出で入りし給へば』
という慎重さであった。

 ところで、この「顔をもほの見せ給はず(顔をちらともお見せにならない)」とは、一体どのようにするのであろうか。従来この解釈についは、国文学者たちを随分悩ませてきたようで、多くの学者や翻訳者たちは、
 「覆面をして」
と随分無理な解釈している。たとえば、岩波書店の日本古典文学大系(山岸徳平)や角川書房の源氏物語評釈(玉上琢弥)などは、いずれも「覆面」説である。また、小学館・日本の古典(秋山虔他)は「顔を隠して」として逃げている。どのように隠しているのかについては詳(つまび)らかにしていない。
 谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴なども「覆面」説を取っている。与謝野晶子は「変装し」としているが、どのような変装かは明確ではない。ただ、「変装し」という以上は、「覆面をして」と取った方がいいだろう。

 果たしてそうだろうか。
 女の家に行くのに「覆面」をして行くなど、そんな野暮な男がこの世にいるだろうか。仮面舞踏会に行くのでもあるまいし、また最近日本でも流行りのハロウィンでもないのだ。平安時代の雅楽に仮面を使用する舞があるが、通常では覆面をするなどはありえないことである。日本の昔の絵画を見ても仮面をした姿などついぞ見かけない。
 まして、光源氏は、美男も美男、交野少将(昔物語の主人公で、好色な美男子)や在原業平に比肩される美男の代表選手である。覆面をした源氏などおよそ想像できないし、絵にならない。「南瓜野郎」という言葉がある。「容貌の醜い男をののしって言う言葉」である。覆面の似合うのはそういう男だけである。

 そもそも、女の家に通うのに、覆面をしたのではかえって近所の人に怪しまれてしまうではないか。いくら「人が寝静まった」時に通っていたとはいえ、一度見つかれば、ことは大きくなる。しかも源氏は
 『いとしばしば(夕顔の家に)おはします』
のである。見つかる確率は高い。
 それに問題なのは、どこで覆面をするのかということである。まさか、二条から五条までずっと覆面をし続けてということはあるまい。もし覆面をつけるとすれば、夕顔の屋敷のごく近いところでなければならないし、また近すぎてもいけないのだ。女房たちが鵜の目鷹の目で男を見張っているのだから。
 また、女の家に付き、玄関を上がり、女の部屋に入るまで、ほの暗い廊下を行く時に覆面をしていたのでは、それを見た女房たちは卒倒してしまうことだろう。女も、
 『ものの変化めきて、うたて(気味悪く)思ひ嘆かるれど』
くらいに感じるだけで、男の人柄の良さに感じてそれ以上の恐怖感も抱いていないようだし、まして拒否したりはしていない。やはり覆面はありえない。

 私はもっと単純に
 「袖で顔を隠していた」
のだと考えている。平安時代の建物の照明は誠に暗い。そんな中で、終始袖で顔を隠していれば、夕顔が感じたように、十分「ものの変化めきて」見えるものだ。
 問題なのは、玄関から女の部屋に入るまで、ずっと袖で顔を隠していなければならないということであるが、ただ夕顔の屋敷は
 『見入れのほどなく、ものはかなき住まひ』
なのである。つまり、極めて狭い屋敷で、建物も広くはない。顔を袖で隠しているのもそれほど長い時間ではないし、玄関を入るとすぐ部屋に着いてしまう。部屋の中は、燈火がわずかにその周辺を照らしているだけで、もう袖で顔を隠す必要もないほど暗い。
 あとは二人の語らいがあるだけで、睦まじく語らう二人にとっては、顔など「ほの見えなくて」もいい。
 また、床に入れば入ったで、
 『人(源氏)の御けはひ、はた、手探りにもしるきわざなりければ』
手探りで、「素敵なお方」とわかるのだから、後は女は深い陶酔をむさぼるだけでいい。

 確かに「夕顔」の巻は、解釈上問題の多い巻で、学者を悩ませてきたのは分からないではない。特に玉上琢弥などは、「夕顔」の巻の「作者の不注意」や「説得不足」を手ひどく批判し、果ては
 「ありうべからざることを平気で語った昔物語に馴れて、反省が不十分なのである。この作者は後になるとこんな無理はしない」
とまで酷評している。
 しかし、私は、この巻にはそれほど無理な筋の展開はないと思うし、玉上のいうような「不注意」も「説得不足」も感じない。むしろ必然性の高い筋の運びになっているとさえ言える。それに何しろ内容が飛び切り面白い。
 要は、もっと単純に素直に物語を読み取るべきなのであって、それこそがこの巻を面白く読む秘訣なのではなかろうか。


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