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源氏物語

源氏物語たより237

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   平安時代の美女の条件~その容貌について~ 源氏物語たより237

 「末摘花」の巻末に、空蝉が、末摘花と比べられる箇所がある。一瞬「あれ?」と思ってしまう箇所である。「空蝉って、末摘花と比べられるほどに醜い女であったっけ?」という戸惑いである。確かに『空蝉』の巻で、軒端荻と碁を打っているところを光源氏に垣間見された場面で、彼女の容貌は芳しいものではなかった。
 『目すこし腫れたる心地して,鼻などもあざやかなるところなう・・にほはしきところも見えず。言ひたつれば悪きによれるかたち』
であった。鼻もすっきりとは通っていないし、つやつやした張りもない。一つ一つ数え上げればどちらかと言えば悪い部類に入る女だと、源氏の目には映ったのである。
 一方、空蝉の相手をして碁を打っている軒端荻は、愛嬌があり華やかな感じで、美人の部類に入るのだが、空蝉のおくゆかしい所作が、悪い部分を隠していて、全体的にはかえって軒端荻よりも優れている、とも見ているのである。
 しかも、源氏が最初に彼女に逢った時の印象は
 『らうたげで、をかし』
い女であったのだ。「可愛く美しい」と源氏は見たのである。もっともこの場合は、顔の印象ではなく、全体的なイメージかもしれないが、とにかく、空蝉は、末摘花に比べられるような醜女ではなかったはずである。そもそもそんな醜女に源氏ともあろう者が、立場や身分を忘れて執着するはずがないだ。

 源氏という男は、何事に対しても価値基準が高すぎる。特に彼は、日頃から最上級貴族の女性方に取り囲まれているのだから、女性に対する鑑識眼は高い。受領の妻程度の女が美しく見えるはずはないのだ。その点空蝉は随分損をしている。
 それにしても、『末摘花』の巻で、ここまで落とされてしまったのは、どうも納得がいかないことである。
 『かの空蝉の打ち解けたりし宵のそばめ(横顔)は、いと悪(わろ)かりし容貌(かたち)ざまなれど、もてなし(所作)に隠されて、口惜しくはあらざりき(悪いというほどではなかった)かし。(末摘花は空蝉に)劣るべき人なりやは』
 末摘花は宮様の娘である。生まれは空蝉などに劣るはずはない。にもかかわらずこれほど人間的に劣っているのは・・と彼は言いたいのである。もちろんこれは容貌についての比較ではない。末摘花の古体な様子や常識のなさなどに驚き呆れた後、ふと空蝉を想起したのだが、それは空蝉がいかにひどい容貌であったかということにもつながることである。

 空蝉は、末摘花に肩を並べるような醜い女だったのだろうか、それではもう一度末摘花の容貌をみてみよう。
 「鼻は、象のように長く、その先端が垂れていて紅花(べにばな 末摘花のこと)のように赤い。顔の輪郭はアントニオ猪木のように(おどろおどろしう)長い。顔の色は白を通り過ぎて、雪も恥ずかしくなるほどに真っ青である。額は、魚のナポレオンのようなおでこ」
で、どう見ても怪物なのである。

 ところで、源氏物語では「美女」の基準が曖昧で、明確に述べられることはない。理想の美女であるはずの藤壺宮にしても、源氏が愛してやまなかった紫上にしても、どんな目をしていたのか、どんな口付きをし、鼻はどんな形だったのだろうか、となると皆目掴めない。諸般の条件から「二人ともさぞかし美人なのだろう」と想像するしかないのだ。
 「美しい」や「可愛い」は、みな「をかし」や「ろうたし」で済ましてしまう。「どのように美しのか、どのように可愛いのか」が描かれることはない。
 その他は「おほどき(鷹揚 おうよう)」とか「やはらか(素直)」とか「なつかし(優しい)」とか「たおやか(しとやか)」などという言葉で、人物の全体像や性格を漠然と表わしているだけで、容貌にかかわる表現は極めて貧困である。
 源氏にしても、美男の典型であるにもかかわらず、その容貌となるととりとめがない。源氏物語の話をしている時に、
 「光源氏という男はね、現代の有名人で言えば誰それのような美男さ」
と言えれば、話しやすいのにと、いつも思う。ところが、彼の顔の輪郭も、鼻も口も額も顎も杳として分からない。

 そんな中で、比較的にその容貌が具体的に描かれているのは、軒端荻を含めた三人の女性である。この三人の容貌から、紫式部が「美女」と考えていのではなかろうかと思われる条件をまとめてみた。
 ァ 顔全体が長すぎないこと、顎が出ていないこと、(絵ではしもぶくれが美女のようである)
 ィ 額は広すぎないこと、おでこでないこと
 ゥ 鼻は高くないこと、しかし鼻筋は通っていなければならない。
 ェ 目は腫れぼったくないこと
 ォ 口には、華やかさと愛嬌があること
 ヵ 肌はつやつやとして白いこと、ただし白すぎてはいけない。
 このように列挙してみたが、どうもその像は鮮明にはならない。現代の美女と共通するのは「鼻筋が通っていること」と「肌がつやつやしていること」くらいである。

 それでは現代の美女の要素というとどんなものだろうか。
 ァ 顔の輪郭は細長、あるいは卵型。顎はどちらかといえば細い
 ィ 鼻は高く、筋がすっきり通っている。
 ゥ 目は生き生きと輝き、大きめで、黒々とした瞳をもっている。
 ェ まつ毛は上に向かってはねている。(これは付け睫毛かも)
 ォ 口はやや大きめで華やかな感じ。(これには異論があろうが)
 ヵ 肌はすべすべとして張りがあり、抜けるように白い。
 キ これらに加えて、顔全体のバランスがとれていなければなるまい。いくら目がキラキラ輝いていても、はるかに離れてい   たのでは相手をしていても落ち着かない。
 以上、吉永小百合をイメージしてまとめてみたのだが、十分条件だとは言えまい。ただ、美女の姿は相当鮮明に表れているとは言えるだろう。源氏物語は、このように登場人物の容貌を明らかに表すことはしないのである。

 後世の物語絵の作者たちは、源氏絵を描くに際して、その容貌が要領を得ないからだろう、みな「引目・鉤鼻」にしてしまって、誠に没個性的な人物たちである。
 例の国宝「隆能源氏」がその先駆となったのだが、残念ながら末摘花の姿を描いたものはない。『蓬生』の巻に、源氏が惟光に露を払わせながら末摘花の邸に入って行くところが描かれ、簀子に女の姿があるが、末摘花ではない。この女房、珍しく「引目・鉤鼻」ではなく、独特な醜い顔をしている。末摘花を象徴しているのかもしれない。
 空蝉は、碁を打っている姿が多くの絵に描かれているが、みな横向きで、その表情や顔の輪郭などは読み取れない。軒端荻は真正面から描かれているが、やはり「引目・鉤鼻」で特徴はない。どの顔をすげ替えても同じである。
 徳川美術館発行の『源氏物語絵巻』を読んでいたら、こう書かれていた。
 「「引目鉤鼻」にすると、きわめて穏やかで静かになり、源氏物語という優美を至上の美とする世界にあって、面貌に激しい喜怒哀楽を現わすこと、また慎みを欠いた感情を露骨に出すことは卑しむべきことであり、「醜」と観念されていたゆえと解される。・・「引目鉤鼻」によって表わされた人物の面貌が、最大多数の鑑賞者の意に適合した理由は、感情移入の余白部分が最大限に残されていた(ゆえと解される)」
 「なるほど」と思わないでもないが、素直には納得できない説である。源氏物語は必ずしも優美だけを追求したものではないからである。むしろ「醜」なる面を描くことも多いのだ。末摘花などはその典型である。

 いずれにしても、私は、「末摘花」に関する部分を読むたびに、どうしてこんな醜い女を登場させたのだろうか、また紫式部がこれほどまでに渾身の力を込めて書いたのだろうかと、疑問に思うし残念に思う。容貌のみならず、執拗なまでの末摘花いじめは、決して心地よいものではない。
 彼女のおかげで、空蝉まで、犠牲になってしまった。ごく普通の女であり貞女である空蝉が、突然醜女の仲間入りしてしまったのである。『末摘花』の巻の罪は大きいと言わなければならない。
 唯一の効といえば、末摘花のおかげで平安時代の美女の要素が、おぼろげではあるが浮かんできたことであろう。


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