源氏物語

源氏物語たより7

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  千年の時を越えて 日本人の自然観 源氏物語とはず語り7

 〔1〕二つの出会い  


 人生の最終章において、二つのことに出会えたことは、私にとって誠に幸運なことであった。さぞかし味気ないものだろうと覚悟していた最終章に、この二つが潤いをもたらせてくれた。その一つは山里や公園を散策すること、もう一つは源氏物語との出会いである。

(2) 山里や公園の散策とその目的

 山里や公園散策の当初の目的は、健康保持であった。あまり歩くこともしない校長などという楽な仕事をしていたもので、足腰が弱くなり、退職間際には駅の階段を上るのもつらい状態であった。最後の数段は、息も上がってしまうし膝の筋肉がつんと張ってしまうほどだった。行きつけのクリニックに『健康長寿10カ条』という掲示があってその中に
『毎日歩こう30分 足腰鍛えて長寿への道』
という一条があったので、それではこれを実践してみようとして歩き始めた。4年間歩き回ったおかげで、足腰には随分自信が持てるようになってきたし、同時に血圧も下がった。このクリニックの掲示はなかなかしゃれたものもあり、『早寝早起きタバコは吸わず、酒も飲むならほどほどに』という条もあって、毎日“ほどほど”に飲んでいる私にとっては誠に有り難いことである。健康を取り戻した今では、その目的が別のものに変わってきている。今は
 『女房からできるだけ離れる』
ということである。もちろん女房の顔を見るのが嫌になったということではない。『亭主元気で留守がいい』という言葉がある。なかなかの名言である。退職した亭主に、日がな一日ごろごろと家にいられたのでは女房はたまったものではない。そこで少しでも家を離れてやることは亭主としての務めということになってくる。亭主が留守であることは、女房にどれほどの開放感を与えるか、また安息の時間になることか。
 似た言葉に『濡れ落ち葉』という言葉がある。いかにも男の黄昏期の悲哀を感じさせる日本的な表現で、これまた名言である。濡れてべったりと地に張り付いた落ち葉ほど扱いにくいものはない。いくら掃いても掃きとれない。しかしこの言葉が、退職後の男の状態を象徴したものかと思うと、なんとも情けなくなる。私は、退職後は決してそうはなるまいと決意していた。
 そうならないためには、たとえ1時間でもいいから家を離れることである。女房から離れることである。近くの公園に行くだけでも2、3時間は家を空けることができる。それだけでも濡れ落ち葉ならぬ“枯葉”くらいの存在にはなるだろう。少し遠出でもすれば5,6時間、女房と顔を合わせないですむ。こうなればもう立派な“竜田川の紅葉”くらいにはなるはずだ。まさに女房孝行そのものである。そして今、散策の目的は、さらに変わった。
 『自然を純粋に堪能する』
という方向である。日本の自然ほど美しいものはない。四季の移り変わりのなんと鮮やかで豊かなことか。これを満喫しない手はない。古代の英雄ヤマトタケルが、東征を終え、故郷大和へ凱旋する途次、伊吹山の妖怪に敗れてしまう。気息奄々、関の“のぼの”という所までたどり着き、故郷大和を目前にした絶唱歌
 『大和は国のまほろば ただなずく青垣 山隠れる 大和しうるわし』
の感慨は、野山を歩くたびに覚える感懐である。大和だけではない。日本の国はまだまだ「ただなずく青垣あり、山隠れる山河あり」なのである。これについては最後に詳しく述べることにしよう。

(3) 源氏物語との出会い

 源氏物語との出会いは、本当に偶然なものであった。
『上原まり 筑前琵琶で瀬戸内寂聴源氏を詠う』という演奏会があったので、出かけてみることにした。演目は源氏物語の『松風』と『初音』の帖である。どうせならこの二帖だけでも原文で読んでおこう、と思いたったのが、源氏物語を原文で読むきっかけである。
 ところが、演奏会に行ってみて演目を間違えているのに気が付いた。『松風』ではなく『行幸』(みゆき)の帖だったのだ。
 しかし、この間違いがとんだ幸せを私にもたらせた。というのは、『松風』の帖が大変面白く、それならこの帖に関連するその前の『須磨』『明石』の帖も読んでみようと思わせたのだ。この帖は、源氏が須磨・明石での流謫の身から許され、都に帰り、政界に返り咲いた時で、源氏にとっては最も波乱に満ちた疾風怒濤の時代である。また、明石で契った明石上との間に子供もでき、この母子を京に呼び戻すことが中心の詩情豊かな巻でもある。
 もし間違わずに『行幸』を読んでいたら、『須磨』『明石』を読むことはなかっただろうし、まして演奏会後、源氏が須磨に流謫の身になった原因を知ろうとして、最初の『桐壷』の帖から読み始める、などということはなかったはずである。瓢箪から駒とでもいうのだろうか、怪我の功名とでもいうのだろうか、私にとってははなはだ幸運な間違いであった。古語に“おれおれし”という言葉がある。「ぼんやりしている、間が抜けている」という意味である。日頃「おれおれし」い俺がこんなに役立つとは思いもしなかった。上原まりに感謝するとともに、自分のおれおれしさにも感謝しなければならない。
 なお、『行幸』の帖は、源氏の絶頂期にあたっていて、太政大臣になっている。

[4] 難しい源氏物語

 源氏物語はとにかく難解な文章である。瀬戸内寂聴は「フランス語より難しい」と言っている。私も最初はほとんど分からなかった。三回目くらいまでは何も分からず、ただひたすら読んでいるだけだった。特に第2帖『帚木』(雨夜の品定めの帖)は言語に絶する難しさである。ほとんどの人がこの帖で強烈なパンチを浴びるという。そして『須磨』あたりでへとへとになり、読むことを止めてしまうのだそうだ。しばらくしてからまた『桐壷』から読み始める、これを“須磨帰り”という。私の場合、それでも読み続けることができたのは、六条御息所の死霊の導きというしかない。

 なぜそんなに難しいのか
 まず、古語のほとんどは死語になっているということである。60〜70%が今では使われない言葉なのではなかろうか。しかも源氏物語は、言葉のデパートのようで、実にさまざまな語彙を駆使していて、物語を一層難しくしている。広辞苑には、源氏物語に使われている言葉が、多数用例として引かれていることからもこのことが確認できる。
 さらに古語は一つの言葉が実に多様な意味を持っていることも、読む上での大きな抵抗になる。
次に、有職故実になじみがないということがあげられる。建物構造、調度、官位、衣装、宗教などは現代のわれわれにはほとんどなじみがない。建物構造では、廂(ひさし)や簀子(すのこ)などがしばしば登場するが、今の廂や簀子とは違う。官位なども複雑だし、衣装に至っては未だに分からないことばかりである。それらに慣れるまでに時間がかかってしまう。しかも源氏物語には、これでもかというほどにさまざまな有職故実が登場する。
 登場人物が多いことも混乱に拍車をかける。また官位が上がると名前が変わってしまうのも困りものだ。源氏だけでもきりがないほど呼称がある。
 頻出する和歌も難しい。分からないから“和歌“と言うのではないかとさえ思ってしまう。和歌の難解さも源氏物語を難しくしている要因である。もっとも古今集や新古今集なども難しく、それゆえ『千早振る』や『崇徳院』などという落語ができたのだろう。
 さらに紫式部独特な冗長な語り口がある。中でも会話文は難しく、源氏の会話部分などは理屈っぽくくだくだしく、なかなか意味を捉えることができない。このようなことを考えると、「原文で読んでみよう」などという気は起こさないほうがいいということが分かる。どうしても原文でということなら、『若紫』『夕顔』『葵』『玉鬘』『真木柱』『野分』など、どちらかと言えばドラマ性の高い、比較的易しい帖を読んでみるのが賢明であろう。
今、名訳が出ているのでそれらを読む方が得策である。たとえば、林 望氏の『謹訳 源氏物語』(祥伝社)などである。林氏は実に語彙が豊富な人で、そのために物語の人物が躍動的に描かれる。情景も鮮やかである。それに流れがきわめてスムースで興味を持続させながら読むことができる。
 瀬戸内源氏もいいが、人物に林氏訳ほどの生気が感じられない。また原文に忠実ではあるが、難しさがそのまま残ってしまっていて、疑問符のつく部分が多い。与謝野源氏、谷崎源氏、円地源氏なども、林源氏には及ばない。

〔5〕源氏物語は凄い  読めば読むほど凄い
 
 私が、源氏物語は難しいと言いながらも7回も読んでしまったのは、やはり面白いからである。読めば読むほど面白いし、その凄さが分かってくるからである。
 『「日本の最高の文学は?」と問われれば、万人が「源氏物語!」と答える。ところが「では、二番目は?」と問われると、一様に首をかしげてしまう。つまり二番目との差が大きすぎるのである。「日本で一番の山は?」と問われれば、みな「富士山!」と答えるが、二番目の山の名前は出てこないのと同じである。江戸の文学では西鶴を除けばあとは文学はない』と林氏は言っていられる。それほどに突出した文学であり、世界一の文学なのである。ちなみに、日本で二番目に高い山は、南アルプスの北岳(3192メートル)である。
何が凄く、何が面白いのか
 まずはその響きのよさである。響きのよさは古典に共通するもので、『枕草子』の「春はあけぼの」にしても平家物語の「祇園精舎の」にしても方丈記の『行く川の』にしてもいずれも響きがいい。しかし、特に歌人・紫式部ならではの源氏物語の流麗な文章は、またとない響きで読む者の心をゆする。
 それではこの他のいくつかの源氏の面白さ、凄さをあげておこう。

 ➀ プロットの緻密さ
 源氏物語ほど筋立てが巧妙で用意周到なものはない。いろいろな事象が緊密につながっていく。あれほどの長編小説が何の矛盾もなく無理なく流れていくのだから驚異と言うしかない。ある人は「源氏物語は嫌らしいほど無駄がない」と言っている。すべての言葉や事象に深い意味が持たされているから、無駄というものがないというのである。確かにそのとおりで、伏線は完璧で、唐突ということがない。
 例の“雨夜の品定め”で語られた上流、中流、下流の女は、『空蝉』や『夕顔』にすぐ生かされていくし、最大のテーマである藤壺と源氏との不倫は、「いずれはその報いがくるのでは・・」という読者の予想に違わず、後半の“柏木”と源氏の妻・女三宮との不倫へとつながっていく。また、須磨・明石の流謫時代に、源氏がすさびに描いた絵は、『絵合』の帖で見事なまでの“勝ちぐさ”となって生かされる、という具合である。まさに無駄がなく隙がないのである。
 
 (6) 権力闘争

 源氏物語は、雅で華やかな貴族生活を舞台にしているが、実はその裏では激しく暗鬱な権力闘争が渦巻いている。源氏が須磨に流謫の身となったのもそのひとつである。図1の系図でみてみよう。源氏は桐壷帝と桐壷の更衣との子である。冒頭の「女御、更衣あまたさぶらひける中に」は、すでに権力闘争の始まりである。なぜなら、更衣は身分が低い。にもかかわらず桐壷帝はその更衣を深く愛してしまったのだ。そこに生まれた子供は、いやでも権力闘争のなかに抛り込まれる。しかもたぐいまれな光り輝くほどの皇子とあったのでは、春宮の親も安閑としてはいられない。    物語の前半は、右大臣側(春宮、弘徽殿女御側)と左大臣側(源氏側)との暗闘である。源氏は、右大臣側の策謀を察知して、自ら須磨に身を引くのだが、政界に復帰するや即座に権大納言の地位に上る。この事態を憂えた右大臣側の弘徽殿女御が吐いた言葉が恐ろしい。            
 『ついにこの人をえけたずなりぬること』
つまり須磨にいた時に源氏を抹殺できなかった(えけたず)ことを悔やみ呪うのである。
 後半は、源氏と彼のかつての親友・頭中将との暗闘が中心となる。『絵合』という帖がある。古今の絵を合わせてはその優劣を競うという優雅にして高尚な遊びである。しかし、実際にはそれぞれの娘をいかに中宮にするかという凄まじいほどの野望に起因する遊びなのである。源氏物語は、雅な文学、華やかな女性遍歴の物語と認識しがちであるが、実は冒頭から権力争いの嵐なのである。
 現実の歴史の世界でも同じようなことが繰り広げられていた。紫式部が仕えた中宮・彰子の父・藤原道長と道長の兄・道隆及び道隆の子・伊周との間に、食うか食われるかの戦いが展開されていたのだ。
 醜いことではあるが、このような争いが物語の底流にあるからこそ、物語はダイナミックで厚みのあるものになり、読む者をぐいぐい引き込むのである。

(7)③ 恋の種々相

 源氏物語には、さまざまな恋の姿がある。しかしいずれの恋も健康で明るく希望に満ちたものではない。源氏が契った女性は17人。未遂が3名(福島調べ)。それらのほとんどが、不倫、打算の恋、面目上の恋、強引な恋、興味本位の恋、行きずりの恋、老女の狂った恋・・などばかりで、純粋な恋、プラトニックな愛などというのはないに等しい。源氏を取り巻く女性たちは、心から源氏を愛していたのだろうか、また、源氏自身も本当に彼女たちを愛していたのだろうか、疑問になってしまう。
 たとえば紫上もそうだ。彼女を、何一つ欠点のない最高の女、理想の女と褒めちぎり、最愛の女と位置づけながら、別の女と契っては紫上の気持ちをふみにじる。明石上との間には子供まで作ってしまい、しかもこの子を紫上に世話をさせるのだ。二人の愛は、いつも源氏の一方的なもの、自己本位のものでしかない。そして、紫上が嫉妬するといって、皮肉を言い、叱る。
 『なずらひならぬほどを、おぼしくらぶるも、わるきわざなり。“我は我”と思ひなし給へ』
(明石上は、あなたとは比較にならないほど身分が低いのだから、思い比べるなどはよくないことです。“自分は自分”と思っていなさい)
 また、紫上の最大の願いであった出家などは、源氏はがんとして許そうとしない。瀕死の状況にある時でさえ許そうとしなかった。紫上のいない生活などは考えられないという源氏の身勝手からである。実のない言葉ばかりを繰り返す源氏に涙する紫上が哀れである。
 右大臣の娘・朧月夜との恋などは、まさに駆け引きの恋であり、政敵・右大臣の娘に言い寄るなどは身の破滅になりかねない。もう挑発的な恋というしかない。しかも、弘徽殿の殿舎や右大臣の屋敷で彼女に言い寄るのだから、問題が起きないはずはない。六条御息所とは、腐れ縁というムードが漂っている。源氏の正妻・葵上に生霊として取りつき、ついにはその命を奪ってしまった、そんな女との恋などは、そもそも成立しないのだ。それでも、うだうだと関係を続けていく。難しい恋となると意地でもこれを成就したくなるという源氏の“ご本性“というのだから、なにをかいわんやである。源氏の恋は、実に複雑であり、屈折していて、一筋縄ではいかないものばかりだ。  
 源氏を取り巻く女たちはみな出家していった。空蝉も六条御息所も朧月夜も藤壺も女三宮も・・。それは彼女たちと源氏との間に、真の愛が存在しなかった証拠である。
 しかし、恋というものは所詮そんなものなのかもしれない。いつも明るく幸せで、いつまでも愛し合い信頼し続けるなどという単純明快な恋などはありえない。むしろお疑い合い、恨み合い、傷つけ合う。苦労することが分かっていても、また柏木と女三宮との恋がそうであるように破滅するかもしれないことが分かっていても、恋をする。
 また、円満結婚に到達したとしても、その愛がいつまでも続くという保証はない。“結婚は恋愛の墓場”とはよく言ったものである。源氏の子・夕霧はまじめ一方の人柄で、頭中将(左大臣)の娘・雲井雁と純愛、熱愛の末に、無事結婚する。が、ある時突然狂ったように落葉君と恋に落ちてしまう。そしてあんなに愛し合っていたはずの雲井雁を鬼にしてしまう。国宝『源氏物語絵巻』に描かれたこの場面の雲井雁の形相は鬼である。「生涯、妻一人を!」などというのは幻想であり、まやかしである。
 このように恋ほどさまざまな様相を呈するものはない。恋には、移ろい易い人生が縮図となって表れる。藤原俊成の歌がある。
 『恋せずば人は心もなからまし もののあはれもこれにてぞ知る』
 人間はかくも矛盾に満ち、複雑で不可解で不条理な存在なのである。
 ところで、稀代の美男の貴公子・光源氏の女性遍歴を描いた物語であるから、その性の描写もさぞ華やかですさまじいものがあろうと期待すると、その期待は裏切られる。性(セックス)の赤裸々な描写は皆無である。せいぜい「抱く」か「髪をなでる」か「手を握る」か「添い寝する」かくらいで、おおむね後朝(きぬぎぬ)の描写である。たとえば、紫上との初夜は、
 『をとこ君はとく起き給ひて、女君は更に起き給はぬ朝あり』
である。「男君(源氏)は朝早く起き、女君(紫上)はなかなか起きなかった。」ということだから、性交渉があったのかどうかさっぱり分からない。源氏の恋は、性の快楽を求めることを目的にするような単純素朴なものではないからである。むしろ恋をすることで、懊悩したり彷徨したり呻吟したりして、人生のありようを求める求道者の行為のようなものなのである。

(8) ユーモアと辛辣
 源氏物語は、ユーモアの文学である。そして辛辣な皮肉の文学である。これがまた物語をダイナミックにしドラマチックにしている。まず、紫式部の辛辣な筆の犠牲になった二人の例を見てみよう。“末摘花”と“近江君“である。
 末摘花は、宮様の娘である。紫式部の筆にかかったのは、まずその鼻である。その鼻は『普賢菩薩の乗り物の鼻』なのである。つまり象の鼻のように異常に長いというのである。しかもそのてっぺんは真っ赤で、まさに末摘花(紅花)の如しである。そして、その痩せ痩せの体は、「肩のほどなど痛げなるまで衣の上まで見ゆ」である。それにしても一晩閨を共にした女がそれほどに痩せていたのが分からなかったのだろうか。また鼻だって触ったはずだ。当時の寝殿の夜は全くの闇だったとはいえ。
 紫式部にとっては、宮様もなにもない。いくら零落したとはいえテンの皮衣を平気で着るような無粋な女や、醜いもの、鄙なるものあるいは下衆なるものは、笑いの対象でしかないのだ。
 近江君は、頭中将の隠し子である。源氏への対抗心からわざわざ探し出してきた娘であるが、この娘が、頭中将自身が呆れてしまうほどの非常識で破天荒な娘である。彼女はよく賽を打つ。打つ時にいう言葉が
 『明石の尼君!明石の尼君!』
である。地方の一受領・明石入道の妻でしかなかった者が、娘が源氏の妻となり、孫が春宮の妃となり、ついにひ孫が春宮となった幸運にあやかって、明石の尼君のようなよい目が出ますようにと賽を打つのである。
 近江君への弘徽殿女御の返し歌が可笑しい。まったく意味をなしていない歌である。
 『常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ちおこせ筥崎の松』          
 それでも彼女なりに必死に生きようとしているのだが、必死であればあるほど、非常識であるがゆえに笑いの対象にされてしまう、という可哀そうな存在である。
その他、年老いた女房・“源内侍”の色好みも可笑しい。しかも源氏と源内侍との恋のやり取りが、内裏の“温明殿”などで堂々と行われるのだから皮肉である。温明殿は、紫宸殿の東にあって、三種の神器の一つ、神鏡(やたのかがみ)をおさめておくところで、賢所ともいわれる殿舎である。
 また、若く美しい“玉鬘”を娶った“鬚黒大将”と、彼の北の方とのやり取りなどは、悲しく笑える。雪の夕べ、愛人・玉鬘のもとにそそくさと通おうとする鬚黒大将に、北の方は火取りの灰を突然ぶちまける。相手は超エリート“近衛の大将”であり、後の“太政大臣”であり、しかも“鬚黒”だというのだから、その対比が滑稽だし皮肉だし哀れである。
 このようなユーモアと辛辣さは、物語のいたる所にちりばめられている。しかし、一方で紫式部のユーモアや皮肉には身につまされるものがあり、笑ってばかりではいられない。紫式部は、内省的で控えめな人物であったという。『紫式部日記』の中で清少納言を
 『清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真字書きちらし侍るほどもよく見ればまだいとたへぬことおほかり。かく人にことさらならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行く末うたてのみはべれば』 と激しく非難している。「したり顔」とは「高慢ちきな」ということ「さかしだち」とは「利口ぶる」ということである。彼女にとっては、高慢ちきや利口ぶることは、無粋や非常識とともに我慢ならないことだったのだ。
 紫式部日記には、左大臣・藤原道長が紫式部の部屋に入ってきて、隠しておいた源氏物語を盗み出す話や、内裏に賊が入り込んできて、女房二人が衣を取られて裸にされる話など、ユーモアや皮肉にこと欠かない。この日記には、彼女の厳しい批判精神や鋭い観察眼、あるいはユーモア精神がいかんなく発揮されていて、源氏物語の作者はやはり紫式部をおいてないな、とあらためて思わせる。

〔9〕 自然と人事の渾然たる統合   〜もののあわれ〜

 源氏物語は全編しっとりとした情緒を醸している。それは、自然と人事を渾沌のうちに融和し統合しているからである。それがもののあわれを生み出しているのだ。

 (10) 自然は人間の単なる対象物ではない

 平安人は、自然や天然現象を単なる無機質な人間の対象物としては考えてはいない。自然も天然現象も、人と同じく心を持った存在であった。
 人の心は、時により場所により状況によってさまざまに変わっていく。恋がそうであったように、人生そのものも移ろい易いものである。自然もまた移ろい易い。植物や鳥・虫、雨・風の気象現象、あるいは月や星の天体などに触発されて、人の心はさまざまな様相を帯びる。自然は人間の心を投影するのだ。人と自然は決して対峙するものではない。
源氏物語では、自然と人事の絶妙なコントラストが美しいハーモニーとなって奏でられる。それがもののあわれである。もののあわれとは、「“もの”すなわち対象客観と“あわれ”すなわち感情主観の一致するところに生ずる調和的情趣の世界、優美、繊細、沈静、観照の理念」(広辞苑)のことである。本居宣長は『玉の小櫛』の中で、源氏物語の情緒を次のように語っている。
 『この物語は・・世に経る人のたたずまひ、春夏秋冬折々の空の景色、木草のありさまなどまで、すべて書きざまめでたき中にも、男女、その人々のけはひ、心ばせを、おのおのことことに書きわけて・・』            人や自然の折々時々の様をめでたきまでに書きあらわし、人物一人一人の様を的確に捉え描き分けているからこそ、もののあわれが生まれるというのだ。
 次の一文は、源氏の子・夕霧が、思慕する落葉宮を小野の山荘に尋ね、思いのたけを訴えるが、落葉宮は一向に靡こうとしない、という場面である。             
 『日入り方になりゆくに、空の景色も、あはれに霧わたりて、山かげは小暗き心ちするに、ひぐらし鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うち靡ける色も、をかしう見ゆ。前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音、いと涼しげにて、山おろし心すごく、松のひびき、木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む時変わりて、鐘うち鳴らすに、立つ声も、居かわるも、一つにあひて、いと尊くきこゆ。ところがら、よろずのこと、心細う見なさるるも、あはれに、もの思い続けらる。いで給はん心地ちもなし。律師、加持する音して、陀羅尼、いとたふとく読むなり。』
 落葉宮に翻弄される夕霧の複雑な気持ちは、水の音を涼しく聞いたと思えば、山おろしを凄いと聞いたり、陀羅尼の声を尊く聞いたりと、自然とともに激しく揺れ動き彷徨するのである。

 (11) 粋を凝らした六条院の庭、前栽の花々の意味

 源氏が、六条の鴨川に近いところに建てた六条院は、二町四方という広大さ。昔の一町は120メートルだから、
240m×240m、つまり5,76ヘクタールで、中学校二校分に当たる。源氏のモデルではないかと言われる左大臣・源融は、源氏よりも100年ほど前の人であるが、彼の屋敷も六条の鴨川の河原にあったので“河原の左大臣”と呼ばれた。源氏の六条院と同じような広さであったという。
 驚くのは、邸内の庭である。龍頭鷁首の船を浮かべることのできるほどの池があり、そこには中島があり、釣殿がある。そして築山あり、遣水あり,前栽あり・・と想像を絶するものである。源氏は、ここに自然をそのままの姿で再現しようとし、自然以上の自然をここに再現した。  
 貴族の庭園は、もともと管弦の遊びや舞踏など、社交の場として存在したものであろうが、彼らは、庭園の花々を鑑賞し、月を愛で雪と遊び蛍を鑑賞し、それによって心を和ませ、体を癒しもしたのだ。そしてまた、眼前の自然の姿に自分の人生を投影し、喜び、悩み、嘆き、惑いした。前栽の花々や築山の木々や池に遊ぶ水鳥、あるいは遣水の音も、彼らの心そのものの反映であった。自然と人事が一体化する場であった。
 また、庭は、女房達への最大の贈り物ではなかったろうかとも思われる。十二単では行動がままならない女房たちは、気軽に邸の外に出ることはできない。日頃、彼女たちが、自然に触れることのできる唯一の場、それが庭園である。『葵』の帖で、賀茂祭を主人とともに見に行きたがる女房たちの姿がいじらしい。それは祭りを見に行く楽しみとともに、外部の自然に触れたいという切なる思いからであったはずだ。                      月も、彼らのもっとも愛でるものの一つであった。月は満ちては欠ける。人生を象徴するものであるからだ。百人一首にはなんと11首も月が読まれている。紫式部の歌も月である。
 『めぐりあいてみしやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな。』
 源氏物語の自然と人事の美しいハーモニーを『野分』の一節でみてみよう。  
 『中宮の御前に秋の花を植えさせ給へること、常の年よりも見どころ多く、色くさを尽くして、よしある黒木、赤木のませを結ひまぜつつ、同じき花の、枝ざし・すがた、朝夕、露の光も世の常ならず、玉かと輝きて、作り渡せる野辺の色を見るに、はた春の山も忘られて、すずしうおもしろく、心もあくがるるやうなり・・』
 このあと、夕霧は、野分のために荒らされ、屋内が透け透けになった廂の間に立つ信じられないほど美しい継母・紫上を垣間見、心をときめかせるのである。
 彼らは心から自然を愛した。夕顔や撫子や紅葉などの木・花は贈答の歌に添えられ、葵や桂は祭りの簪になった。また襲(かさね)の色目はみな植物の名で表現した。自然と人事は一体なのである。 

〔12〕 正岡子規の痛烈な古今集批判

 『貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』        
 これは正岡子規の『歌よみに与ふる書』の言葉である。なんという激しい言葉、なんという品のない野卑な表現であろうか。とても優雅を求める歌詠みの言葉とは思えない。しかし明治のナショナリズムは、彼をこのように激烈にした。月並みに陥っていた平安以来の和歌の改革は、野卑な表現を持ってしてもなしとげなければならない。生易しことでは間に合わない。彼は焦っていたのだ。
 彼は、“ますらおぶり”を尊重し、“たおやめぶり”を排斥した。そして、見たままの客観を詠めと主張し、万葉の明るく直く健康な歌に帰れと絶叫した。そのためには技巧や理屈は許さず、感情・主観は排さなければならなかった。それが明治ナショナリズムである。『柿食えば鐘がなるなり法隆寺』は、彼の代表的な句であるが、確かに客観そのままを詠った歌である。しかし「だからどうなの?」というそしりも免れない。そもそも柿でなくてもいいでしょう、桃だって栗だって梨だっていいわけだし、大法寺でも薬師寺でもいいはずだ。またしばしば物議を醸す『鶏頭の十四,五本はありぬべし』もそうだ。
 しかし、平安人の心は、子規ほど単純ではなかったし、平安ではなかった。そもそも人間はそれほど明るく直く健康なものであろうか。むしろ、恋で見てきたように、複雑で微妙で不可解で移ろい易い存在である。子規は源氏物語を読んではいないだろう。繊細にして微妙な平安人の心の分かる人ではなった。
 しかし、根岸にある子規庵を見ると、彼の主張とは異なる姿を垣間見ることになる。狭い庭に、あれもこれもの草木が、実に雑多に植えられているのだ。樹木は28種類、草花は16種類(福島調べ)もある。
 彼はカリエスを病んでいた。自由の利かなくなった体、いつとも知れない命『痰一斗糸瓜の水も間に合わず』の状況では、病床からガラスの窓を通して、庭の自然を見るしか方法がない。雨、風、雪を、頭を枕に深く埋めてじっと聞いているしか仕方がないのである。
 『いくたびも雪の深さを尋ねけり』
 『障子あけよ上野の雪を一目見ん』
 彼にとっては、窓からわずかに見える庭の自然は、源氏の六条院にも匹敵するものであった。あれほど厳しく主観・感情の入ることを戒め、客観を詠めと強調した彼の客観に、主観・感情の入るのはいかんともしがたかった。先の『鶏頭』の句も、ケイトウの真っ赤な花は、吐血の血の色だったかもしれないし、「ああ、今年もここまで生きてこられた!」という万感の思いであったかもしれない。十四、五本のケイトウは、彼の主観そのものであった。彼にとっても自然はまた単なる客観的な無機質な対象ではなかったし、彼もまた自然をこよなく愛する人であった。

〔13〕現代人と自然

 日本の自然ほど美しいものはない。特に鮮やかな四季の変化と雨の作用は、日本の自然に豊かな表情を与える。四月の緑と五月の緑と六月の緑は、全く違うのである。表情豊かな雨は日本独特のものである。雨に洗われた緑の葉はいっそう緑に輝くし、梢のしずくは幻のように揺れる。時雨、五月雨、驟雨、野分、そして露、霧、霞・・こんな微妙な変化を伴った自然がどこの国にあろうか。
 にもかかわらず、現代の日本人はその自然を忘れてしまった。自然に対して無関心、無感動である。梢のしずくも風のささやきも時雨も、意識から消えている。都会のコンクリートに慣れてしまった感覚は、自然の変化にも鈍感である。生活様式の変化が、日本のたぐいまれな自然の素晴らしさから人々を遠ざけてしまった。車を中心とした文明・科学優先社会の落とし穴である。車は便利である。車でぐるっと観光地を巡ると、自然を堪能したと錯覚する。しかし実際には自らの目では見ていない、自らの足では歩いていない。そして、車で移動するに便利なことばかりが大事なこととされ、自然のままであることをむしろ「汚い、気持ち悪い、不便だ」と言って嫌いさえする。
 せいぜい桜が咲いたからと言っては花見をし、アジサイが綺麗だからといっては寺巡りをし、彼岸花だ、ラベンダーだといっては里山を歩く、くらいが自然に触れる機会に過ぎない。しかし、それらはおおむね作られた自然であることに気づいていない。
 自然を遠ざけた日本人は、都会の風景にも無関心である。日本の都市のなんと乱雑でうす汚れていることか。新宿、池袋、新橋、渋谷・・いずれも人が住む街の体裁をなしていない。こればかりはヨーロッパの都市の、調和のとれた美しさには、はるかに及ばない。
 日本には、本物の自然が、素晴らしい自然が、我々のごく身近にまだまだ満ちているというのに、それに目を向けようとしない。わざわざ外国まで行くこともない、北海道にだって行くこともない。神奈川の公園評価表を見てもらうだけでもそのことは納得できるはずだ。神奈川県は、なんと豊かな自然に恵まれていることか。
 観音崎の海の青さ、灯台の白さ、浦賀水道を行き交う船、海や灯台を取り巻くタブやシロダモの深い緑。真鶴のスダジイやクスノキを透かして届く潮騒。弘法山、高麗山、衣張山の尾根伝いのイヌシデ,コナラ,ムクの林を吹き抜ける爽やかな風。
 また、それとない山里の風光のなんと輝かしいことか。枯れ枯れの林に真っ先に葉を展開するマユミの健気なさ、緑の増してきた林の遠近(おちこち)に咲く山桜の郷愁、はらはらと紅葉を散り急ぐ秋の山の哀愁、落ち葉の積もった山路をカサコソと歩く弧愁・・
 私は、日々これらの山里や公園を歩き回ることで、四季の恵みを受けている。
私は、今杖作りに精を出している。現在杖になった樹木の種類は46種類、その数120本。杖作りの翁のようなものである。杖を作ってみると、それぞれの木の性質が異なることが分かる。同じウツギでも実にさまざまな性質を持っている。軽いもの、硬いもの、木肌の品のよいもの、荒いもの・・ハコネウツギとタニウツギと、ウノハナとミツバウツギと、それぞれがみな違う。また、木肌を紙やすりで磨き、透明のラッカーをかけた時に表れるエゴノキのほれぼれしいほどの輝き。杖を作ることは、自然を知り自然に愛着を持つことに繋がっていく。

〔14〕提言

 自らの足で歩いて生命の循環を、自然の息吹を感得しようではないか。
 また、公地公民の意識を持とうではないか。自分の土地は自分のものであって、同時に地域のものなのである。自分の家の庭の木は、地域のための“借景”にもなっていることを忘れてはならない。余裕があったら一本の木を植えようではないか。それが自然を愛する一歩になるのだ。そして余裕があったら杖を作ってみようではないか。
 千年にわたってつながってきた日本人の自然に対する感性を、現代の我々の時代に途切らせていいはずはない。
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