郷愁

大和しうるわし

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  大和しうるわし


 『大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし』

 私の好きな歌の一つだ。大和の国をこれほど素朴にそして単純に歌った歌はないし、それでいて、これほど“大和”というところを歌いきっている歌もない。“故郷(ふるさと)讃歌”として秀逸である。
 そして、私が、いつもこの歌からイメージしていたのが、春日神社から新薬師寺に至る馬酔木の深い森であり、東大寺、興福寺等を抱くようにしているなだらかな若草山あたりである。 大和は確かに山の多いところだ。幾重にも重なるその山に囲まれ、麗しい印象をもつ地で、今でもまさに「大和しうるわし」の地である。

 ところで、今まで、この歌の作者がだれかについては、私にとってはさしたる問題ではなかった。作者に関係なく味わい深い歌だからだ。
 しかし、作者・倭建(やまとたける 日本武尊)の人となりや事蹟を知ることによって、この歌の味わいがより深くなり、ますます好きになってしまった。なぜなら、単なる“故郷讃歌”ではないということが分かったからである。この歌には、悲劇の英雄の切実な望郷の念が、悲痛な響きを伴って籠っているのである。
 倭建は、第十二代景行天皇の皇子で、その猛々しいまでの性格ゆえに父に疎(うと)まれる。確かに、彼はあまりにも粗暴であった。「兄・大碓命(おうすのみこと)を諌(いさ)めよ」という父の命を、「殺せ」ということだと早とちりしてしまって、
 『厠に入りし時、待ち捕らえ、つかみひしぎて(撲殺して)その枝(手足)を引きかきて(折るって)、薦(こも)に包みて投げ棄てつ』 (岩波書店日本古典文学大系)
と、残虐に殺してしまい、しかもそのことを平然として父・天皇に報告する。須佐之男命(すさのおのみこと)以上の狼藉者である。
 結局そういう猛々しさが、彼を大和から追放させる結果となってしまう。景行天皇は、彼に九州の熊襲(くまそ)退治を命じる。そして、その熊襲退治の方法たるや、またあまりにも残虐であった。
 また、九州からの帰り、今度は出雲に跋扈(ばっこ)する出雲建(いずもたける)を退治するのだが、この時も信じられない手段を弄する。相手の信頼を逆用し、奸計(かんけい)を用いて出雲健を惨殺してしまう。
 これではいくら天皇に服従しない暴虐な種族を退治したとはいえ、褒められた行為ではない。だから、大和に凱旋したとしても、諸手をあげて称賛する者などいるはずはないのだ。まして、天皇とすれば、自分の寝首さえかくかも知れないそんな息子をそばにおいておくわけにはいかない。戦々恐々とならざるを得ない。
 そこで、今度は、東(あずま)に跋扈する蝦夷を退治するよう命じ、再び彼を大和から追放してしまう。

 さすがの彼も、ことの本質が分かってきたのか、東国遠征に際しては、人が変ったかのように、伊勢大神宮の宮司になっていた叔母・倭媛(やまとひめ)を尋ねて、次のように嘆き訴えるのである。
 『天皇既に、吾に死ねとや思召す故か、何ぞ、西の方の悪らぶる人どもを討ち取りに遣わして、返(かえ)りまい上り来し間、幾時(いくばく)もあらねば、軍衆(いくさびと)をも賜わず(軍隊をつけてもくれず)、今更に東の方の十二道の悪ぶる人どもを平らげに遣わす…と患い泣きて罷(まか)る時に…。」
 今までの彼にはなかった姿である。あの猛々しさは影を潜め、一人の感傷的な青年に変身している。それでも、天皇の命である。東国遠征に行かざるを得ない。
 そして、蝦夷を平らげ、いよいよ大和へと凱旋してくる。その凱旋の途次、今度伊吹山に巣くう妖怪(神)を退治することとなるのだが、こともあろうに、あの天下無双の豪勇が、伊吹山の妖怪に負けてしまう。
 傷つき敗れて気息奄々(きそくえんえん)として、それでも大和に帰り着くべく、三重県鈴鹿までたどり着く。しかし、“三重”に曲がった体はいっかな動かない。「大和へ…大和へ…!」と気は焦るばかりだ。そして、ついにこの地で息絶えんとする。その時、彼の口からほとばしり出たのが、

 『大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠る 大和しうるわし』

である。鈴鹿の山を越えれば、4里で伊賀上野。そこから大和は、指呼の間だ。ここで息絶えるとは、いかに無念であったことだろう。
 「お父さん、私はこんなに頑張ったのだ!大和の国のために…」
その大和になぜに帰れないのだ、山隠れる大和にどうして足を踏み入れられないのだ、愛しい妻や可愛いい我が子に一目でも会いたいのだ、という悲痛な響きがこの歌にはこだましている。
 彼の魂が白鳥と化し、大和に向かって飛び立ったのも、心からうなずくことができる。
 『古事記』は荒唐無稽な筋が多い。「まさかそんなことが!」と思うことが多いなかで、この歌ほど、物語の展開と無理なく結びついているものはない。『古事記』中、白眉(はくび)の歌と言っていい。

 倭建に関して、もう一つ有名な歌がある。蝦夷退治の途次、神奈川県横須賀の走水(はしりみず)から房総へ船で渡航中、海が荒れ狂いさすがの建も危機に陥る。この時、彼の妻・弟橘媛(おとやちばなひめ)は、自らを犠牲にして海中に身を投げ、建の危機を救うのだが、その時の媛の歌、
 
 『さねさし 相模の小野に 燃える火の 火中に立ちて 問ひし君はも』

 (あなたは、あの燃え盛る火中(ほなか)にあっても、私の名を優しく呼んでくれ、かばってくれた、そういうあなたであった)という意味であろうか。相模の豪族の詐(いつわ)りにあって、野中で火攻めにあったのは有名な話しである。「その火中にあってさえ媛(私)の名を呼んでくれた」そういう建の優しさが、媛に犠牲の心を生ましめたのであろう。
 燃えたぎる一面の火のなかで、草薙剣(くさなぎのつるぎ)をもって草をなぎ払い、叔母・倭媛から、預かった火打ち石を取り出し、
 「向かい火をつけて焼き退けて…」
逆に相手を火中にしてしまう。これなどはまったくの荒唐無稽な内容であるが、それでも、我々は素直に受け入れることができる。それは、彼がかつての猛々しさから、弟橘媛の純なる犠牲の行為を生んだように、彼が、一人の優しく感傷的な青年に変身しているからであろう。そして、彼の苦衷や悲劇性を我々が十分に理解できているから、何とかして東征を成功させ、彼を大和へ帰してやりたいと思うのは、彼に感情移入しているからだ。そういう意味で、この歌も物語の展開と無理なく結びついている。

 さて、『大和は国の…』の歌のよさは、言葉の響きにもある気がする。
 “まほろば”“ただなづく”“山隠れる”など、今ではなくなってしまった言葉ばかりではあるが、それでいて何か我々の心をゆする。
 “まほろば”とは、「まほら」で、「真秀(まほ)」に、漠然と場所を表す「ら」のついた言葉で、「すぐれていいところ・国」という意味である(広辞苑)。私は、この言葉がひょいと口をついて出ることがある。「○○は国のまほろば…」
 “たたなづく”も、今ではよくはわからない言葉である。しかし、言葉の響きから、いかにも“山々が幾重にも重なりあった緑豊かな”、という印象は伝わってくる。
 私が、「大和」と言えば、すぐ若草山や春日大社の森などをイメージするのは、あの一帯の風景が、日本の原風景のような気がするからである。「大和」は「日本」である。日本はまさに「まほろば」なのである。
 “山隠れる”は、「ただなづく」と同じような情景である。大和は至るところ山にかこまれている。それも峨峨(がが)たる山ではない。500メートル前後の優しい山々だ。「隠れる」は“山に抱かれる”状態を表現したものであろう。それゆえ、“大和しうるわし”が、すとんと心に落ちてくるのだ。
 倭建の父・景行天皇は、137歳で没し、
 『御陵は山の辺の道の上にあり』
と『古事記』にある。『山の辺の道』は、日本で一番古いと言われる、いわゆる『古道』である。このあたりは、後ろになだらかな山を背負っていて、古道はその山裾に続く。山の辺の道は、「ただなづく青垣」であり、「山隠れる」状態にあるのだ。
 十代崇神天皇の御陵も、山の辺の道の端にあるし、あの伝説の古墳・『箸墓』も近い。『箸墓』は、卑弥呼の墓とも言われる。いわば、山の辺の道周辺は、大和人の生活の中心地であったのだ。
 さらに少し南に下った橿原神宮あたりには、香具山(152m)や耳成山(140m)や畝傍山(199m)が点在し、大和平野の外れに優しいアクセントをつけている。
 これらの風景を思い描く時、「大和は国のまほろば…」に何としても戻りたい倭建の必死の思い、悲痛な叫びが、いかに深く沈潜しているかが心から理解できるのである。まさに『大和絶唱』である。



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