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郷愁

四十七番目の宿場町・関

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  47番目の宿場、関宿


 念願の“関宿”に行った。“関宿”とは、東海道53次の47番目にあたる宿場のことである。“鈴鹿の関”があることから“関”の名がついたもので、古来歴史的にも有名な宿場である。
 私にとって、関宿に行くことがなぜ念願であったかと言えば、二つの理由がある。

 一つは、山形市で行われた全国都市教育長会議の際に、鈴鹿市の教育長と視察のバスの中で席が隣り合わせになったことによるものである。その時の鈴鹿市の教育長の話は、ややもすれば鈴鹿サーキットなど現代的な話題になりがちではあったが、それでも、関宿の復興の様子や“関の山”という言葉の語源などについても教えてくれた。それで、いつかは関宿を尋ねてみようと思っていたのだ。

 二つ目は、ヤマトタケルに由来する。ヤマトタケルに興味を持つようになり、彼に関する様々な本を読んだり、梅原毅のスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』を見たりしたことで、ヤマトタケルと鈴鹿や関との深い関係を知ったのだ。
 ヤマトタケルは、東北に跋扈(ばっこ)する蝦夷を征伐した後、大和へと凱旋してくる。その凱旋の途次、伊吹山に巣くう妖怪退治におもむくのだが、こともあろうに、剛勇の誉れ高いあのヤマトタケルが、この妖怪に敗れてしまう。傷つき痛んだ身を引きずりながら、
 「大和へ、大和へ」
と必死の思いで辿(たど)って行く。鈴鹿の山を越え、伊賀上野に至れば、もう故郷・大和は指呼(しこ)の間なのである。しかし、彼の体は“三重”に曲がって一歩も進まない。そして、ついにこの関に近い場所(鈴鹿郡野煩野~のぼの)で最期を迎える。
 『大和は国のまほろば たたなずく青垣 山隠る 大和しうるわし』
の歌は、ヤマトタケルが大和への望郷の思いを籠めて切々と歌った故郷賛歌であり、『古事記』中、白眉(はくび)の絶唱歌である。
 そういうヤマトタケル縁(ゆかり)の地にいずれは行ってみたいと思っていたのだ。
 ところで、東海道53次の53の宿場のうち、往時の姿を今に残している宿場町は皆無に等しい。わずかここ関宿だけが昔の姿をとどめていた。昭和59年、国の『重要伝統的建造物保存地区』に選ばれ、その後10年をかけて保存・修復に努め、すっかり往時の姿がよみがえったのである。

 私が尋ねたのは、三連休開けの平日だったせいもあるのか、観光客はまばらであった。中山道の馬籠宿や妻籠(つまご)宿などは、いつ行っても賑(にぎわ)っていたが、その面影はここにはなかった。それに、土産物屋や飲食店などもほとんどない。まだまだ観光で立脚するまでには至っていないような感じがした。
 関宿からの帰り、JR関駅の待合室に置かれていたパンフレット『街並みかわら版』をふと手にしてみた。そこには関宿の往時の賑いをしのんで、また今後の関の発展を願って、次のような文が載っていた。
 『宝永2年(1705年)のおかげまいりは、京阪から始まり、総数362万人、一日数万人の人々が関宿を通っていきました。…関宿も一日数万人の人々が往来する「おかげまいり」を再現してみてはどうでしょうか。』
 今の関にも、それなりに見るべきものはあるのだから、一日数万人は無理としても、やがては観光客で賑うこともあろう。
 さて、鈴鹿の関は「歴史的にも有名」と言った。鈴鹿の関は、古代から、不破の関(美濃)、愛発(あらち)の関(越前)と並んで、“三関”の一つに数えられていた。特に鈴鹿の関は、東国に下る旅人改めをする関所として重要な役割を果たしていた。
 したがって、関宿あるいは鈴鹿の関は、いつの時代も歴史の転換期に登場し、様々のドラマを生んできた。歴史小説の舞台にもしばしば登場する。
 まず、有名な事例としては、壬申の乱がある。
 吉野に隠棲(いんせい)していた大海人皇子は、天智天皇が崩御(ほうぎょ)するや、まず鈴鹿の関と不破の関を抑えた。そして、またたく間に東海・東山地方を傘下に収め、大友皇子の近江朝になす術も与えることなく大勝利を納め、飛鳥に凱旋した。やがて天武天皇として律令国家の確立に貢献したことは言うまでもない。
 また、徳川家康の“鈴鹿越え”も有名である。
 家康一生涯で最大の危機といわれるのが、鈴鹿越えである。わずかな家臣をともなって堺に遊んでいた家康は、本能寺の変の報に接するや、身の危険を察して、必死に三河へと脱出を図る。伊賀衆の助けを借りてようよう鈴鹿の山を越え、白子に至り、さらにそこからは船で岡崎に帰還することができた。この危難を乗り越えられたからこそ、彼は天下の覇者となることができたのである。
 このように、 いずれも鈴鹿は大きな歴史の転換の場となった。
 芭蕉が、9か月にわたる『野ざらし紀行』の旅をした時も、ここ鈴鹿峠を通っている。
 江戸から約二週間、東海道を上ってくると、亀山あたりで、鈴鹿山脈がぐっと間近に迫ってくる。これから峻険な鈴鹿峠を越えなければならない。山賊もしばしば出没するという。その峠を前にして、旅人は、いやでも関に草鞋を脱ぎ、ここに宿をとらなければならなかった。京へはあと二、三日、わずかの行程である。京入りの心支度も関宿でしたのであった。

 関宿は、東西1、800メートル。戸数630戸余、人口約2、000人、旅篭40軒余、茶屋50軒余。(天保年間)
 東海道の一般的な宿場が、街並みの距離2、000メートル、旅篭50軒、人口、4、000人程度であったというから、関宿はごく平均的な、あるいはそれ以下の宿場であった。が、ここは伊勢への分岐の宿(しゅく)でもあり、伊賀上野そして奈良への分岐の宿でもあった。それゆえ特に賑ったのである。
 今、残念ながら本陣や脇本陣はないが、旅籠は数軒、昔の佇(ただずま)いをそのまま残して、宿の中央部に位置している。
 「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」
と、歌にも歌われたという当時の大旅籠のうち、玉屋が歴史資料館になっている。旅行案内書には「日曜・祝祭日の翌日は休館」となっていたが、幸い開いていた。
 「あれ、今日は休みではなかったの?」
と、資料館の係の人に聞くと、
 「いえいえ、お客さんが大勢尋ねてくださるので、閉じてしまうわけにはいかないのですよ。」
 「??」
 また、当時、芸妓の置き屋だった建物が昔のまま二つ並んで残っている。
 その一つ、『開雲楼』は、弁柄塗りの鴨居や柱、二階の手すりや格子窓などに特徴がある。 そして、店の前には『ばったり』という縁台のような仕組みがしつらえられていて、“ばったり”と上げ下げができるようになっている。その『ばったり』に旅人などが腰掛けて休んだりしたものである。私には、関宿のうち、この建物がもっとも江戸を感じさせるものとして映った。
 さて、街道は何処までもどこまでも続いている。その狭い街道に沿ってぎっしりと往時の家がひしめいていて、その家並みの果てに鈴鹿山脈が望まれる。どれが鈴鹿峠なのであろう。峠を確かめたくて、街道をトコトコトコトコ何処までもどこまでも歩いていったら、とうとう西の追分にまでたどり着いてしまった。
 「ひだりハいかやまとみち(左は伊賀大和道)」
とある。芭蕉の故郷・伊賀上野への追分である。
 街道というものはいつも哀愁を感じさせるものだ。まして、追分には人の心をゆするなにものかがある。東海道を旅してきた者同士が、「袖すりあうも…」と一緒に連れ立ってきて、この追分で、京都へ、伊勢・大和へと分かれて行ったのだ。
 ただ、残念なことには、西の追分には立派な国道一号線が走っていて、ひっきりなしに自動車が行き交っている。追分近くには“道の駅”まである。これでは追分の哀愁もやや薄れるてしまう。
 もう一度、もと来た街道に戻った。“中町の町並み”(宿場の中央)より西側の“新所の町並み”は、関の人々のまったくの日常の場で、ここには土産物屋も飲食店もまったくない。だから、観光客相手で生活しているわけではない。ごく平凡な地元の人々の生活が垣間見られるだけだ。しかし、それゆえに、けばけばしさがなく、江戸の面影をよくとどめているといえる。
 幕末には参勤交代がなくなり、さらに明治になってからは関西本線が走るようになって、関宿はすっかり忘れられた町になっていた。

 歴史遺物の保存と観光化とはまことに矛盾に満ちたものである。歴史の流れに取り残されたがために、このような重要建造物が残った。その歴史資源を生かして生活の糧にしようとすれば、華々しさ、けばけばしさを避けることができない。一方、閑静で静謐(せいひつ)な歴史の佇いをそのまま求めようとすれば、生活は厳しい。
 中山道の妻籠宿を最初に訪れた時は、歴史的重要建造物だけが、ゴーストタウンのように建ち並んでいるだけで、人の姿も稀だった。建物の中に入るとうそ寒いほどの廃虚を感じた。それが、十数年後、ふたたび尋ねてみて、その変わりように驚嘆させられた。
 「これがかつての妻籠であろうか?」
 まったくの観光地として生まれ変わってしまっていたのだ。かつての歴史的重要建造物は、軒並み土産物屋になり飲食店になっていた。そして、観光客で街道も土産物屋もごったがえしていた。
 関の人々が、“おかげまいり”のような往時の賑いを願う気持ちはよく分かる。しかし、妻籠のような変貌を思い浮かべてしまうと、
 「ちょっと待って!」
と言いたくなってしまうのも人情というものであろう。少なくとも街道や追分に漂っている哀愁や郷愁は感じ取れなくなってしまうことは間違いのないことなのだから。
 妻は今も言う。
 「関でね、私、一番印象に残っているのは、お茶屋のおばあちゃんのこと。お店の中で座ぶとんにチョコンと座って、街道を通る私に向かって、往きも帰りもニコニコと会釈してくれたのよ。」
 今度、関に行くのはいつのことだろうか。


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