郷愁

厚木の反乱

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    厚木の反乱

 昭和20年8月15日、日本はポッダム宣言を受諾し無条件降伏をした。
 ところが、ポッダム宣言受諾を潔(いさぎよ)しとせず、徹底抗戦すべく行動した軍人がいたなどということは、私のつゆ知らないことであった。まして、そんな事件が私の生まれ育った綾瀬で起こっていようとは夢にも思いもしなかった。
 この事件を知ったのはごく最近のことである。文化財保護審議会の席で、委員さんが、「厚木の反乱…」「厚木の反乱…」と話している。私にとっては初耳のことばかりで、なんのことやら分からずにただぽかんと聞いているしかなかった。
 「厚木の反乱?厚木の反乱とは、一体何のことなのだ。」
 どうやら、国の「無条件降伏」の決定に承服できず、あくまでもアメリカと戦おうとした軍人が、厚木基地に配属されていた者の中にいて、行動を起こしたという事件があったらしい。
 そんな大事件を、綾瀬に生まれ綾瀬に育った私がなぜ知らなかったのだろう。
 考えられる理由の一つは、終戦の年に、私はわずか5歳であったということである。ただ、いくら幼かったとはいえ、地元で起こっている『反乱』という大事件をまったく知らなかったとは、不思議なことである。それほどの大事件なら親や兄たちが、必ず話題にしていたはずだからである。でも、家族がそんな話をしていた記憶はないし、その後も、地域の人たちが“厚木の反乱”などという話をしているのを聞いた記憶もない。恐らく綾瀬のほとんどの人は、この事件については知らなかったのではないだろうか。

 平成17年、綾瀬市在住の有志の方が、終戦60年を記念して、『綾瀬と厚木基地の歴史記念展』を開催した。その『記念展』で、厚木の反乱が展示の一つになっていた。展示会場には、『昭和憲兵史』(大谷敬二郎著)という書籍が置かれていて、その書籍に“厚木の反乱”が詳しく記述されていた。ということは、これは間違いのない歴史上の事実だったのだ。
 この本や展示の写真などを参考にしながら、“厚木の反乱”なるものをまとめてみることにした。

 厚木航空隊302隊の司令・小園安名(おぞのやすな)大佐は、ポッダム宣言に従うことを潔しとせず、あくまでも戦争を継続すべきという考えを貫き、反抗の構えをとった。そして、8月16日、17日、全国に徹底抗戦の檄文(げきぶん)をまいた。「国民諸子に告ぐ」という見出しで次のような内容であった。

 『…外国の軍隊の神州に進駐し、ポッダム宣言を履行する時は、戦争を継続する
より何百何千倍の苦痛を受くること火をみるより明らかなり…』

 また、小園大佐は、全国の海軍所轄長に次のように打電をする。

 『…今後、余は戦争継続に反する如何なる上官の命令も拒否し、飽く迄戦争を継続する覚悟をもって、…全員本職に続け…』

 しかし、彼は8月21日マラリアを再発し、高熱を発して錯乱状態に陥り、横須賀の野比の海軍病院に強制入院させられてしまった。
 残った士官らは、同月22日、狭山飛行場などに飛行機で脱出し、徹底抗戦の構えを貫こうとした。ところが、国は、彼らの乗っていった飛行機のタイヤを破壊し、離陸不能の状態にしてしまう一方、参謀長に彼らの説得にあたらせた。そして、ついに、同月25日、彼らの身柄を拘束し東京に送還した。
 こうして、11日間にわたる反乱は終結した。

 この『記念展』の最中、極めて珍しいニュースが新聞に報道された。山梨県の民家から“厚木の反乱”に際しての血判状が見つかったというものである。それには兵士98名の血判が押されていた。それに『切り込み特攻隊請願書』と記されたものも同封されていた。血判状は、第一相模野海軍航空隊(厚木飛行場)の16~17歳の練習生たちを主とするもので、いずれも兵長であったという。
 この血判状と『切り込み特攻隊請願書』の発見は、綾瀬市の有志が企画した『記念展』を待っていたかのような、あまりにもタイミングのよい発見であった。『記念展』にこの新聞記事が展示されたことはいうまでもない。
 さて、この事件を振り返ってみると、いくつか不思議に思われる点や疑問に思われる点が浮かび上がる。
 その一つは、小園大佐のマラリア再発のことである。彼のマラリア発病は本当だったのだろうか。
 当時、絶対的存在であった天皇が、“玉音”をもって戦争の終結を発したわけだから、それに反して戦争を継続するというのは、もう国家に対する反逆であり逆賊になるのだ。また、国とすれば、そのような反乱はいかなる手段を弄(ろう)しても、未然に防がなければならいのは当然のことである。
 その結果、小園大佐は、国によって“錯乱状態”にさせられたのではないかと考えても何の不思議もないのだが。
 二つ目は、『血判状』に関することである。“相模野航空隊”とは厚木基地にあった航空隊のことであるが、血判の主たちがなぜ16、17歳の若者ばかりなのだったのかということである。新聞記事によれば、上官に無理に血判を押させられたものだとあった。
 上官が、こんな年端もいかない若者にまで、「全員本職に続け」とばかり血判を強要したのだとしたら、もうそれだけでこの反乱は成功する見込みはなかったし、まったく無謀な行動だったと考えざるを得ないのだ。
 しかしながら、『記念展』に展示されていた一枚の写真を見て、私のこの考えはひょっとすると間違っているのかも知れないとも思った。
 その一枚の写真とは、10数名の若者たちが、上半身裸で、日の丸の鉢巻きをきりりと締め、腕を組み足を踏ん張って、勇ましく構えたものである。
 『記念展』の企画者の話によれば、彼らは綾瀬市内に住む若者たちで、いずれも17、8歳だったという。この若者たちは、血判状までしたため、厚木飛行場に行きそれを提出しようとしたそうだ。つまり、彼らも“玉砕”を覚悟して集合写真を撮ったのだろう。彼らは決して強制されてそうしたのではなく、自ら判断し決断し行動したのだ。
 ということは、「徹底抗戦」を本気で考えていた者は、軍人のみならず一般の人の中にも少なからずいたということの証明である。
 三点目は、反乱兵が狭山基地に脱出した時の飛行機に関してのことである。
 『記念展』の展示の中に、当時の戦闘機である“雷電”“零戦”などがずらりと整列している写真があった。厚木飛行場の昭和20年1月1日の写真である。そして、
 「20年1月~2月は、雷電の活動機数はもっとも安定した時期だろう」
という説明書きがあり、主な機種と機数などがそこに表示されていた。

 雷電 26機 零戦 22機 月光 16機 彗星 8機 他

 さらに、その説明書きには、
 「戦闘機134機中、52機は整備または修理中」
ともあった。つまり40%近くはまともな飛行機ではなかったということである。 それにもかかわらず、“安定した時期”とは、いったいどうことであろうか。さらに終戦まで半年。終戦時には、整備不良の機数ははるかに増えていたはずだ。つまり、終戦時厚木飛行場に配備されていた飛行機は、みなおんぼろ飛行機ばかりで救いようのない状態であったことは確かだ。
 そして、そのことは5歳でしかなかった私が生証人なのである。というのは、私が5歳であったその一年間に、なんと4機もの飛行機が私の目の前で墜落していったのだ。もちろんみな厚木飛行場から飛び立ったものばかりだ。中にはパイロットがハンカチを振りながら墜落していったのもあった。それらの飛行機の墜落シーンは、5歳の私の目に焼きつけられ、今も鮮やかに記憶に残っている。当時は燃料(松脂を燃料にしていたということを聞いたことがある)もろくになかったのだし、まともな部品もなく、整備できるような状態ではなかったはずだ。
 そんな状況でとても狭山飛行場まで多くの飛行機が飛んでいけるはずはない。果たして何機が飛び立ち、何機が狭山飛行場までたどり着いたのだろう。ひょっとすると、大半の飛行機は途中で墜落してしまったのではないだろうか。中にはハンカチを振りながら落ちていったのもあったかもしれない。
  あとで調べたところ、この時飛び立ったのは三十三機だったという。

 四点目の疑問は、終戦時の日本人の本音のことである。
 「玉音放送」を聞いて、皇居前で号泣している人々の姿を何度も写真などで見たが、あの人たちは、いったいどういう気持ちで号泣していたのだろう。日本が負けたことに対する悔し泣きであったのだろうか、なぜ徹底抗戦をしないのかという抗議の号泣もあったのだろうか。あるいは、平和な時代がやってきたことへの嬉し泣きもあったかもしれない。
 実は、私も5歳の時に「玉音放送」を聞いていた。隣りの家に遊びに行っていた時のことだ。ラジオからはただ「ザ―ザ―」という雑音が聞こえるばかりであったし、その内容も「チンは…」などというわけの分からないものだったので理解できるはずはなかったのだが、少なくともあの時、ラジオを聞いていた大人たちの中で、皇居の前の人たちのように泣き崩れていた人はいなかった。近所のおじさん・おばさんたちは、案外平静だった気がする。そうかといって喜んでいる様子もなかった。 はたして、この時の大人たちの本音はどうだったのであろうか。 
  ただ、東京裁判で、東条英樹や広田弘毅などが死刑になった時に、父親がぽつりと言った言葉を覚えている。これが一般人の平均的感覚であったかもしれない。
 「かけがえのない優秀な人物を失ってしまって、日本にとっては大変な損失だ。勝者の勝手だなあ…。」

 そして、最期のもっとも大きな疑問が、日本の認識の甘さについてである。
 サイパンが玉砕し、沖縄が焦土と化しても、まだ
 「本土決戦!」「一億玉砕!」
などと叫んでいた、あのあまりにも甘い認識はどこからきたものであろうか。
 いつかNHKの『その時歴史が動いた』で、“戦艦大和”を取り上げていた。その番組によれば、“戦艦大和”は“不沈戦艦”とも言われていた。たとえば、“大和”が、左舷に魚雷を受けたとしても、右舷の船室に自動的に水が注入されるようになっているので、それによって船のバランスは常に保たれるから決して沈まないのだ、という。
 ところが、実際には左舷にばかり魚雷を受けた“大和”は、水を注水しすぎて、自ら浮力を失うという皮肉な結果を招いてしまった。
 広島県呉市で行われた全国都市教育長協議会の講演で、『戦艦大和』の話を聞いたことがある。その主旨は次のような内容であった。
 「…“戦艦大和”は、ピラミッド、万里の長城と並んで“世界の三大馬鹿”と言われることがある。が、実は“大和”は“機械のデパート”でもあったのだ。“大和”には、当時考えうる機械技術のすべてが搭載されていたのだ。
 戦後の日本が短期間のうちに世界にごしていけるほどの発展を成し遂げたのも、その技術力があったがためである…。」
 しかし、その技術力をもってしても、米国空軍の波状攻撃の前には、なすすべもなく、海の藻くずと消えていかざるをえなかった。
 日本の守り神であり最後の砦(とりで)であったはずの“大和”が無残な姿をさらしても、それでも、戦争を継続していったあの無謀は一体なんだったのだろうか。

 『歴史に“もし”はない』といわれるが、サイパンが玉砕した時(昭和19年7月)に、もし日本が降伏し戦争を終結していれば、東京大空襲はなかったのだ。なぜなら、サイパンがアメリカの支配下に入ったということは、東京が長距離爆撃機B29の爆撃の範囲に入ってしまったということを意味していたからだ。
 さらに一歩譲って、もし硫黄等が玉砕した時(同20年2月)に戦争を終結していれば、沖縄の悲劇もなかったし、もし“大和”の最期の時に…、もちろん長崎も広島も…。
 日本は、突如真珠湾を攻撃し、アメリカに“大勝利”したと勘違いしてしまった。 そもそもハワイは、アメリカの何千分の一かの領土でしかないということからなぜ目をつぶってしまったのだろう。その小さなハワイを一時的にたたいたというにすぎなかったのに。しかもアメリカ本土ははるかに遠い。先の読み、状況の読みは皆無であったと言わざるを得ない。
 NHKでも報道していたが、真珠湾での“大勝利”は、日本軍の飛行機によるものであった。日本の飛行機により大きな打撃を受けたアメリカは、この痛手を教訓とした。つまり、空軍強化に全力を注いでいったのだ。ところが、一方日本はその肝心なことに気付かなかった。日本はあいかわらず軍艦に固執し、“戦艦大和”にこだわりつづけた。そして、神風が吹くこともなくみじめな無条件降伏に至ってしまった。それでもまだ、
 「戦争を継続するより何百何千倍の苦痛を受けること、火を見るより明らか」
などという認識の日本兵などが少なからずいたし、それに追従する若者たちもいたのだ。ただそれは、日本兵や若者たちの責任では決してないのだが。

 その後“アメリカから受けた苦痛”は、“火を見るほど”ひどいものであったのだろうか。
 『綾瀬と厚木基地の歴史記念展』は、私にさまざまなことを想起させてくれる好企画の記念展であった。



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