源氏物語

源氏物語たより8

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  正岡子規の古今集批判と源氏物語 源氏物語とはず語り8

 『貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知

れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も、数年前までは古今集崇拝の一人にて候ひしかば、今日歌人が古今集を崇拝する気味合はよく存申候。崇拝してゐる間は誠に歌といふものは優美にて、古今集は殊にその粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをった事かと、くやしくも腹立たしくも相成候』

 この文章は、正岡子規の『歌よみに与ふる書』のうちの第二章『再び歌よみに与ふる書』の冒頭部分である。粗野で何とも品のない文章である。言葉を大切にする歌よみの文章とはとても思えない。『歌よみに与ふる書』では、十たびも古今集や新古今集に対してこのような激越な罵詈雑言を繰り返している。

 古来、古今集は歌よみのバイブルとしてもてはやされてきた。平安の女房達はこぞって古今集を暗記したものである。中には古今集の1.111首すべてをそらんじていた者もいたということが枕草子の中にも出くる。とにかく、新古今集の編者である藤原俊成が、
 『源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり』
と言っているほどなのだ。
 源氏物語には795首(正確には分からないが)の歌が詠まれているそうだ。それらの歌や地の文には、古歌が盛んに引用されていているが、その多くは古今集から取ったものである。
 とにかく、源氏物語は歌物語と言っていいほど、歌が重要な役割を果たしている。
 もし古今集がくだらぬ集であるとすれば、古今集から多くを引用している源氏物語も「くだらぬ物語に有之候」ということになってしまう。子規が源氏物語を読んでいたかどうかは分からないが、“たおやめぶり”の典型ともいえる源氏物語を、“ますらおぶり”を標榜する子規が読んだとは思えない。もっとも、「実はかく申す生も数年前までは古今集崇拝者の一人にて」とあるから、あるいは読んでいるかもしれない。

 彼は、まず古今集の最初の歌
 『年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年とはいわん今年とはいわん』
を次のように評している。
 「実に呆れ返った無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合いの子を日本人とぞ申さん外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候。」
 まさに子規がよく使う言葉“糞、味噌”の酷評である。彼は、歌に主観の入ることを嫌い、特に縁語や掛け言葉、あるいは歌枕などを使った技巧や、あるいは理屈や理知に走ることを強く戒めた。そして、素朴で明るく健全な『万葉集』を優れた歌集として賞揚するとともに、実朝の『金槐集』の、たとえば、
 『大海のいそもとどろによする波 われてくだけてさけて散るかも』
 『時によりすぐれば民の嘆きなり 八大竜王雨やめたまへ」
などを「勢い強き歌」として称賛し、
 「あの人(実朝)をして今十年も生かしておいたならどんなに名歌をたくさん残したかも知れ不申候」
とまで言っている。
 
 斉藤茂吉が、さらに万葉集を推奨したことから、
 「万葉集は優れた歌集、古今集や新古今集は技巧に走った力の弱い劣った歌集」
という認識がその後の日本人に定着してしまった。
 しかし、本当に古今集は、子規が言うほどに「くだらぬ集」なのだろうか。
 子規は、対象をあるがままに客観的に詠むことを提唱した。いわゆる“写生”である。彼にとって、歌は明るく直く健全でなければならなかった。その主張のもとに
 『柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺』
 『鶏頭の十四五本もありぬべし』
 『瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり』
など徹底した写実、客観の歌を作った。

 しかし、これらの歌を読んでも「だから何なの?」という感を免れることができない。特に「鶏頭の」の歌は、「鶏頭が十四五本あるからといって、それがなんだというのだ」と思うだけだ。この歌は、従来大変物議をかもしてきた歌で、高浜虚子さえ、当初は評価しなかったという。
 子規の「歌は、明るく直く健全でなければならない。勢いのある歌が優れた歌」という思想は「明治のナショナリズムに由来する」ととらえた人(梅原猛)もいる。『歌よみに与える書』の中に次の一文がある。
 『従来の和歌を持って日本文学の基礎とし城壁と成さんとするは、弓矢剣槍を以って戦わんとすると同じ事にて、明治時代に行われるべき事には無之候。今日軍艦を贖ひ、大砲を贖ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟日本国を固むるに外ならず』
 子規の時代は富国強兵の時代であった。この文章からも、子規の主張が、明るく健全で力強くあらねばならないという明治ナショナリズムの時代の趨勢から生まれていることに間違いはない。

 しかし、平安人の心は、そんなに単純なものではなかった。複雑で不可解で、矛盾に満ち、陰影の深いものであった。彼らの思想の根本にあるのは、すべてのものは移り変わるものということである。過去から現在へ、そして未来へと、刻々と変化してやまないのもの、それが人の世であった。恋や愛がそうであったように、すべての存在は推移していくものである。源氏物語に“月”があれほど多く登場するのも、月が満ちては欠ける存在だからである。枕草子に“雪”がしばしば描かれるのも、一夜にして世界が転変してしまう様が雪に見えるからである。生あるものは時とともに変化し、やがては死ななければならない。それは自然の摂理である。

 それではもう一度古今集の最初の歌を見てみよう。
 『年の内に春は来にけり ひととせを去年とはいわん今年とはいわん』
 十二月中に立春が来てしまった。
 「あれ、十二月の内に新年(立春)がやってきてしまったのでは、みんなで楽しく遊んだあの夏は、みんなで紅葉を愛でたあの秋は、あの一年を去年のこと言ったらいいのかしら?あるいは本当の正月が来るまでを今年と言ったらいいのかしら?」
という一瞬の戸惑いの情である。この歌は恐らく立春の宴の席で詠われたものであろう。宴席に集っていた多くの客は、「ああ、そういえばそうだな、今日のこの日は、去年なのか今年なのか・・なかなかしゃれた感懐だな。それにしても時の過ぎゆくことのなんと早いことよ。」とみんなで立春の日に、そんな感慨に浸りきったはずである。
 古今集の最初にこの歌が置かれたことには、そこに重大な意味が込められているからではないか。おそらくこれから展開していく春、夏、秋、冬の歌の競演、季節の移行に対する序曲なのであはるまいか。

 古今集の 第二番目の歌
 『袖ひじて結びし水の凍れるを春立つ今日の風や解くらん』
も、子規が、
 「これ理屈なり。立春の日になりしとてその日直ちに氷の解くるものに非ざるは誰も知りをるなり。それを知りながら、立春という語より割り出したる理屈を詠むは、貫之の人情を解せざる証として見るべし」
と酷評している。もちろん紀貫之の歌である。そうだろうか。
 去年の夏、手を結んで山川の水を袖を濡らしながら飲んだものだが、その水が冬の寒さで凍り付いていた。立春の今日のこの暖かい風がそれを解かしてくれるだろう、という意味で、第一番目の歌と同じ趣旨である。確かに子規が言うとおり科学的、常識的に考えればそんなことはありえないのだが、人々の意識は、夏から秋へ、そして冬から春へ、つまり過去から現在へ、さらに未来へとつながっていくのだ。京都の冬は殊に厳しいという。季節の移り変わりがこの歌には鮮明に歌いこまれているのだ。
 万葉集の志貴皇子の歌
 『石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも』
のような眼前の景を素直に明るく謳歌しているものとは違った、春の到来の喜びの一つの表現なのである。古今集が、この二首をまず最初に置いた意図は、この世のものは生々流転してやまない理を言わんがためである。以下古今集は、春、夏、秋、冬、賀、離別、羈旅、物名、恋、哀傷・・と続いていく。“移り変わる世の相”が古今集の中心思想になっているのだ。

 歌を詠むということは、刻々として変化してやまない心を詠むということである。源氏物語795首の歌はすべてそういう心を詠っているといっていい。自然の変化は彼らの心の変化を投影するものであった。彼らは、対象が自分の心なのか、自分の心が対象なのかという認識の中に生きている。自然と人為が渾然として融合し、そこに優美,幽玄の世界を見出し、もののあわれが生まれてきたのだ。古今集は、子規の言うように決してくだらぬ集ではない。まして源氏物語の歌においておやである。
 桐壷帝が熱烈に愛した桐壺更衣が、死を目前にして読んだ歌が哀しい。
 『かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり』
 (今は、それが定めとお別れしなければならない死出の道が悲しく思われますにつけて、私が行きたいのは生きる道の方でございます ~小学館 日本の古典~)
“いかまほし”の“いか”は「生きる」と「行く」をかけたいわゆる掛詞で、子規の嫌う技巧である。しかしその技巧の中に、
「あの道には行きたくないのです。何とか生きたいのです。生きてあなた様(帝)と子供(光源氏)ともっともっと過ごしたいのです。命が欲しいのです。でも生も死も定めでございますゆ・・。」
移ろいいかなければならない哀しさである。絶唱である。

 それでは、子規にはこういう日本の伝統が伝わっていないのだろうか。
 根岸の子規庵を見れば、その樹木の多さ、その草花の雑多さなどから、彼がいかに自然を愛していたか一目瞭然である。花が咲き、しぼみ、樹木が緑に輝き、やがてその葉が散っていく。彼は、それら変化する自然を自由に眺めることを渇望していたはずである。子規庵の廊下の窓は当時としては珍しいガラス戸である。それは、
 「庭の草花を、樹木を、その移り変わる様をこの目で見たい!」
という切なる思いからなのである。その点においては平安人となにも変わらない。
 しかし、脊椎カリエスに侵された彼の体は、身動きもままならない状態にあった。
 『病牀六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広すぎるのである。わずかに手を伸ばして畳に触れることはあるが、布団の外へまで足を延ばして体を寛ぐこともできない』
のでは、我が庭の自然さえ自由に見ることができない。
 『首上げて折々見るや庭の萩』
くらいで、終日床に臥っているしかないのだ。
 『瓶にさす藤の花ぶさみじかければ 畳の上にとどかざりけり』
 この歌は客観歌の典型のような歌である。しかし単なる客観の歌であろうか。藤の花ぶさは、部屋の空間に悠然としてあり、畳の上につきそうでつかない。それは彼の視線よりも若干高い位置にある。自分の頭は常に枕上にあって首を上げることもままならない。その花ぶさに手を伸ばして触ってみたい、しかしそれさえままならない自分の身である・・という彼の万感の思いが、この歌には込められているのではないだろうか。あまりにも静謐なこの歌の雰囲気にまどわされて、我々はつい彼の思いを見逃してしまう。
 『鶏頭の十四五本もありぬべし』
に含まれる思いも、嘱目の景というほどに単純なものではないはずだ。
 「鶏頭が14,5本咲いていたからといって、それがなんなの?」
と先ほど記したが、子規の思いの中には、何か深いものがあるはずだ。
 真っ赤な鶏頭の花は、旺盛な命のほとばしりである。十四五本の茎もまた強い命そのものである。「ぬべし」とあるのは、彼がその目で直接鶏頭を見ているわけではないということが分かる。かつて見た鶏頭がそうだったから、今年も十四五本もすくっと健よかに立っていることだろう、と床に臥せながら推し測っているのだ。鶏頭の強さ健康さは、明日をも知れない自分の命の対極にあるものだが、彼の命もまた鶏頭に劣らぬほどに、必死に燃えていた。
 子規庵の部屋に置かれた異様な机がそれを証明している。その机の中央は、30×40センチほどくりぬかれている。モルヒネを打たなければ激痛を耐えることができないほどのわが身を、そこにねじ込んで安定させ、俳諧のために、今後の日本の詩歌のために尽くそうとしたのだ。その必死の思いが、この机のくりぬきから伝わってくる。
 死の12時間前に詠ったという3首がある。その一つ
 『痰一斗糸瓜の水も間にあわず』
 糸瓜の水は、痰を止めるに効能があるという。しかし痰は、いくら糸瓜の水を飲んでも収まるどころではない。あとわずかで自分は死を迎える。未来はない。それでも彼の一瞬一瞬の生は、死の直前まで輝いていた。彼にとって今のこの一瞬は、永劫の時であり、彼にとっての過去であり現在であり未来であったのだ。

 主観を遠ざけたはずの子規ではあるが、実は意識の底に、誠に強烈な主観が漂っていて、それが静かに歌にほとばしり出ている、といえないだろうか。私の好きな歌がある。
 『くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る』
 嘱目の景にして嘱目の景にあらず、である。彼の燃え尽きようとする命が、自然を静観し、諦観の境地に至らしめた。 彼のほとばしる命と生きたいという執念は、自然に静かに帰着していった。そして、日本の歌壇に一大山脈を作り上げた。高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、そして長塚節、斉藤茂吉・・。
 日本の伝統の美意識は、子規の中にも脈々と流れていたのである。
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