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郷愁

縄文VS弥生 ガチンコ対決!!

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    縄文VS弥生 ガチンコ対決!!


 上野の都立美術館で美術展を見た後、ふと国立科学博物館に寄ってみた。
 『縄文VS弥生 ガチンコ対決!!』
なる特別展が開催中であった。資料的にはあまり多くはない。国立科学博物館の特別展にしてはいま一つもの足りない気がしたが、それでも、各地で発掘された“人骨”の数の多さには驚かされた。よくもここまで集めてきたものだ。縄文・弥生のものだけでなく、江戸時代のものもある。
 女のものも老人のものも、子供のものもある。幼児の骨まである。
 やれ、虫歯がある頭骨だの、カリエスに冒された痕がある骨だの、あるいは栄養不十分な状態を現している骨だのと、まるで人骨を通しての人類学、民俗史だ。
 中でも注目したのが、人骨に残された傷痕(きずあと)である。「脛(すね)に傷持つ」と言われるが、脛どころではない。頭と言わず、顔面と言わず、腕にも肋骨にもあり、「傷、傷、傷、…」である。中には、頭部に真ん丸い穴のあいたものもある。恐らく槍で突かれたものだろうが、これでは即死したはずである。背後からやみ討ちにされたような傷痕もあるし、鋭い武器で顔面を突かれた傷痕もある。また、石で後頭部を殴られ頭蓋骨が陥没しているのさえある。
 吉野ヶ里遺跡では、首の骨を鋭く切断され、大腿部に鋭利な刃物の傷痕のある戦士の骨や、全身に十数本の石鏃(せきぞく)が打ち込まれている戦士の骨などが発掘されたという話を聞いたことがある。このような殺傷痕のある人骨は、北九州を中心として特に多くあるのだそうだが、この特別展に展示された殺傷痕のある人骨は、福岡、愛知、埼玉、千葉、福島、…と全国に及んでいる。 道具も多種多様だ。石斧(せきふ)や石鏃や石剣、銅鏃や銅剣、鉄の刀、あるいは矢尻、槍など。
 
 ある中学校歴史教科書に、次のような記述がある。
 「自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代には、日本人のおだやかな性格が育まれ・・」
 ところが、これらの人骨を見ていると、いかにこの記述が虚(むな)しく空々(そらぞら)しいものであるかがよく分かる。 人間とは、本来そんななま易しい生き物ではなかったのだ。彼らはとにもかくにも“闘争”に明け暮れていた。闘争は、彼らの趣味であり生き甲斐であったと言っていいほどだ。当然、相手の財産を略奪するとか、よりよい土地を奪い取るなどの目的があったのだろうが、私には、“闘争”そのものが、彼らの目的の一つでもあったような気がしてならない。何せ、人骨にこれだけいろいろの傷があるということは、彼らが、戦いに血沸き肉踊せていた証拠と考えざるを得ない。
 しかも、闘争は土地を選ばず行われていた。九州から東北まで、全国で繰り返されていたのだ。弥生時代の環濠集落の“環濠”は、それら戦いの象徴であり帰結である。
 
 ところが、一方、縄文・弥生の時代は、文化的にも極めて高いレベルにあったのだから、人間とは実に不可解な存在であると言わざるを得ない。闘争を繰り返していただけでは、極度なほどの装飾に富む縄文の土器や、優しく洗練された弥生の土器はできない。この点では、先の教科書の次の記述、
 「自然と調和して生活した約1万年間の縄文時代には…多様で柔軟な日本文化の基礎が作られた。」
は当たっている。
 人骨中心に見て回っていたが、ふと私の目に、なんの変哲もない縦15cmほどの小さな欠けた土器が入ってきた。
 何とその土器は、「神奈川県 早川天神森遺跡出土」のものであった。『早川天神森遺跡』とは、わが綾瀬市の遺跡で、先土器時代から縄文、弥生、中世にかけての遺跡である。この土器は5000年前の縄文中期のものである。
 今回の特別展には、全国から優れた縄文や弥生の文物が、東京のここ上野に集められたのであるが、その中にたった一点とはいえ、我が綾瀬市の文物が入っていようとは。何か誇らしいような、「おれは偉いのだぞ!」と周りの人に触れ回りたい衝動に駆られた。
 しかも、その土器の説明には
 『子どもの作った可能性のある小型土器』
とあるではないか。
 これは重要な意味を持つ。なぜなら、私の一つの歴史的認識を補強する根拠となるものだからだ。  実は、日ごろから縄文や弥生の遺物、特に土器などを見るたびに感じていたことは
 「これらは特定の人によって作られたものではないはずだ。ごく普通の庶民によって当たり前に作られたものだ」
という思いであった。天神森遺跡のあるあたりは、1メートル掘れば必ず土器が出てくると言われているほどの埋蔵文化財の宝庫だ。全国的にも同じような状況のところは多いはずである。全国には埋蔵文化財は限りなく埋蔵されていて、そのうち発掘されたものなどは星くずの一つに過ぎない。
 長い年月にわたっているとはいえ、これほどの数の土器が作られたということは、特定の職業人、つまりプロの陶芸家の手だけによったものとは、とうてい思えないのである。
 私は、土器は、ごく普通の、いわば“隣のおじさん”たちが、暇さえあれば作っていたものと思っている。そして、時に彼らの手から、新潟県長岡市から出土した火焔土器のような傑作ができる、あるいは、綾瀬市の神埼遺跡出土のような誠に優美な弥生土器ができる、のだ。
 この特別展の展示物は、私のこの考えをさらに一歩飛び越えてしまった。「子供が作った可能性のある」ものまであったわけだ。
 ただ、考えてみればこのことは当然のことだ。お父ちゃんが粘土を練って、一生懸命土器を作ろうとしている時には、子供というものは、必ずそのそばにいるものだ。そして、彼らは父ちゃんに言っていたはずである。
 「父ちゃん、僕も作る!」
 そして、土器が焼き上がると、お父ちゃんは子供に言っていたことだろう。
 「文(もん 仮称)ちゃん、お前の作った、これなかなかいいできだぞ。」
 そして、どこかで展覧会や品評会などが開かれていて、"親子で出品"などということもごく当たり前に行われていたかもしれない。
 
 この特別展の会場では、縄文土器作りの実演が行われていた。作っているのは、みな一介の主婦ばかりである。私は、「神埼遺跡の弥生土器をだれかに復元してもらおう」という夢をずっと持っていたものだから、作ってもらえるかどうか彼女たちに声をかけてみた。すると一人の主婦が答えた。
 「でも、私たちは縄文土器しかできませんから…」
 それでも、日ごろどこで焼いているのかだけは知りたいと思ったので、再び聞いてみた。千葉県の加曽利(房総半島のつけ根、千葉市の郊外にある。加曽利貝塚で有名であり、加曽利式土器でもとみに知られている。)だそうである。
 「消防署の許可を得て、野焼きしているんです。薪でです。」
 いずれ、加曽利には行ってみるつもりでいる。
 古代は、一方では戦いに明け暮れ、また一方では陶芸や木彫や獣骨の骨細工やの芸術品を親子競演で作っていたのだ。そして、これは時代を越えて続いてきた。
 野蛮と文明が綯(な)い交ぜになって、人間とは誠に不可解な存在である。



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