郷愁

スローフードそしてスローライフ

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   スロ-フ-ドそしてス-ロライフ


 最近相次いで、“スロ-フ-ド”“スロ-ライフ”という言葉を耳にし目にした。
 前者は、「コ-プかながわ」主催の、『みて食べて知ろうスロ-フ-ド』という催し物のチラシである。横浜の伊勢崎町で開催するというのだが、チラシには、その目的や意図が書かれてはいないので、スロ-フ-ドの意味が分からない。
 チラシの言葉を集めてみると、「地元のいいもの探し」、「日本の伝統食文化」「地場産野菜」「高座豚」「漬物」などとか書いてある。どうやら手作りの良さとか、地元の食材を大切にした料理、とかいうことと関係があるらしい。
 参加するチ-ムとして、「ふるさとのお雑煮拝見」「手前みそ探検チ-ム」「三浦大根の研究」とかあるから、やはり、スロ-フ-ドとは、身近なものを大切にしながら心を込めて作った独自な料理ということになりそうだ。
 早速、妻に聞いてみた。
 「なんじゃ、この“ス-ロフ-ド”っていうのは?」
 妻は、要領を得ないことを言っていたが、どうやら“ファ-ストフ-ド”の対極としての料理のことであるらしい。
 「ところで、その“ファ-ストフ-ド”っていうのは具体的になんなのさ?」
 「ハンバ-ク、フライドチキン、それから??」
 「ハンバ-クだって、人が手をかけて作るものじゃないの。」
 「だからさ、自分で作ったものでなくて、ス-パ-などでちょっと買ってきて、そのまま食べられたり、ちょっと温めれば食べられるようなものよ。」
 「すると、外食産業なんてのは、自分で作るわけでもなし、ちょっと注文して黙って座っていれば出てくるのだから、みなファ-ストフ-ドだ。」
 「それは違うでしょ!フランス料理なんかは、それはそれはシェフが腕によりをかけて作るんですもの。要するに、箸やフォ-クを使わないで食べるものよ。」
 「味噌汁なんてのは簡単だな。典型的なファ-ストフ-ドだ。」
 何か訳の分からない、コンニャク問答みたいなことになってしまった。

 結局、インタ-ネットで引いてみることにした。なんと、ホ-ムペ-ジのリストが2万件以上ある。すると、「スロ-フ-ド」なんて、世間ではみな知っていたのだ。私にだけはだれも教えてくれなかったものとみえる。
 それによると、「インスタントのもの、あまり手をかけないもの」などが、必ずしもファ-ストフ-ドではないようで、むしろ食の多様性や独自性の問題を言っているらしいことが分かった。 
 
 歴史的には、イタリアにマクドナルドの第一号店ができた時に、一人の男がハンバ-クのようなインスタントのものよりも、「スロ-フ-ドがいい」とかつぶやいて以来、この言葉が歩き出したものであるとあった。
 現代の食は、大量生産、大量販売によって味の画一化、同質化をきたしてしまった。食は、もっとバラエティ-に富んだものであるべきだという主張のようである。
 また、その土地土地の環境や特性に根ざした郷土料理、質の高い素材で作った料理、などが推奨される。
 それで、コ-プかながわ主催の催し物に、「ふるさとのお雑煮拝見」や「三浦大根の研究」などがあるのだな。
 我が家では、毎日手作りの料理である。ハンバ-クやフライドチキンやフライドポテトなどを買ってきて食べるということはほとんどしない。妻の愛情のこもった料理ばかりだ。したがって、味の画一化や同質化には関係ない。実に多彩で豊富だ。
 
 しかし、郷土のものとか質の高い素材とかになると若干問題がある。それほど、私が食にこだわらないから、どこのものでもいいと思っているのだ。アジはどこでとれたアジでもおいしい。「サバは“関サバ”でなければ」などとこだわったことはない。大根も“三浦大根”などほとんど買ったことがない。
 そもそも、関サバだって不思議ではないか。海は自由に泳ぎ回れるのだから、サバだってたまには瀬戸内海から出て、外海に行ってみようとするだろう。あるいは、関のサバは気位が高く、「おれは、関から絶対出ないぞ」などと言っているのだろうか。もしそうだとすれば、それだけで、関サバには食欲がわかなくなる。
 「瀬戸内海のタイは、激しい潮流にもまれているから、肉がしまっていておいしい」なんて、分かったような分からないようなことを言う人がいる。あまり肉がしまっていては固くておいしくないのではないか。私の知っているマラソンランナ-は、体脂肪が『9』だ。
 三浦大根だって、本当にそれほどうまいのかしら。私の兄が、片手間で作っている大根なども相当うまい。それに、大根なんてものは、昔から「大根役者」などといって、あまり芳しい意味では使われていない。だから、「どこにでもある、だれでもできるようなもの」ということでいいのだ。「ブランドものの大根」なんていうのは本来間違っている。そうだ「大根足」と言うのもある。
 しかし、それがゆえに私は好きなのだ。大根足の方が、やせすぎたス-マトな足よりもずっと安心だ。畑の大根と同じで、大地を踏みしめていていいものだ。
 
 ところで、“スロ-ライフ”という言葉を聞いたのは、日本放送の『中年探偵団』でである。その時は、スロ-フ-ドに対して当初持っていた認識と同じように考えていた。「こせこせ急かされ、せわしなく落ち着かない生活、競争を強いられ、やれ勝った負けたというようなあわただしい生活」……これを「ファ-ストライフ(こんな言葉があるかどうか)」と言うのであろうと思っていたのだ。
 ところが、この認識は一面では当たっているものの、的を射てはいないようだ。
 スロ-フ-ドの趣旨から類推すれば、画一化、同質化した生活からの脱皮ということを意味しているのかも知れない。自分なりの独自な生活パタ-ンを確立するということだ。
 人がしているからするのでもない、誰それが何々を持っているから自分も持つ、などというのでもない。他人や社会の流行に影響されて、自分を見失ってしまうような生活からの開放と言ってもよいだろう。
 同時にそれは、自分の周囲や郷土を大切にした生き方なども含んでいるはずだ。
 
 テレビが怒涛のように普及しだした時に、「一億総〇〇」といわれ、流行(はやり)言葉になったことがある。確かに、日本人の猿真似は激しい。
 かつて、職場の同僚が、
 「隣に住んでるAさんはよ、何だって、おれがテレビを買えば買う、自動車を買えば追いかけて買うんだよ。おれのところに負けちゃいけねえという競争意識かな。うっかり新しいものを買えやしねえよ。」
とこぼしていたことがあった。
 しかし、この日本人の美徳は今もまったく変わってはいない。いや、ますます激しくなっているといってもいい。
 たとえば、携帯電話などもそうだった。アッという間の普及したが、本当にそれほど必要なのだろうか、それほど緊急な用件があるのだろうか、常に人とむすび付いていないと耐えられないほど孤独なのだろうか。携帯電話を持っていない私のようなシ-ラカンスにはさっぱり理解できない。スマホもそうだ。
 人は、なぜ他人に影響されない自分なりの生活を送ることができないのだろうか。もっと自信と余裕を持って生きていいはずなのに。少なくとも、自分を見失ってしまうことのない「我」を持ちながら生きていきたいとは思う。



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