源氏物語

源氏物語たより247

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   源氏物語は紫上への鎮魂歌  源氏物語たより247

 林望氏の講演を聞いた。これで三度目になる。いつもその話術の巧みさには感心させられる。今回は「源氏物語は紫上への鎮魂歌である」という内容で、非常に感銘深いものであった。北山での紫上垣間見、紫上との新枕、紫上の最期、紫上を亡くした光源氏の放心、などの場面を取り上げ、帰納的に主題に迫っていく論法は見事である。
 林氏の講演の主旨は概ね次の通りであった。

 紫上は、源氏が、真実、心から愛した女性である。愛されることは女にとっての最高の幸せである。しかし、その幸せは、彼女に安穏な生活を保証するものではなかった。常に源氏の色好みに悩まされ続けたからである。
 彼女の不幸は、源氏に拉致同様に二条院に引き取られ、正式な結婚も経ないまま源氏の妻になったことである。したがって正妻としての扱いは受けていない。純情な女の子が、源氏という男によって、隔離された環境の中で、男の思う通りの理想の女性に育てられ、なし崩しに妻になっていたという女性である。
 それに彼女には子供ができなかったことも不幸であった。
 ただ、その代わりに、明石君が生んだ姫君を自分の子として育てるという別の幸せは得ることができた。この姫君は、やがては中宮となり、紫上は中宮の母、いわば事実上の「国母」という最高の栄誉をかちえたのだから、これは幸せの極みと言っていいだろう。
 しかしながら、 源氏の色好みによって、常に悩まされ続けた女性であることに間違いはない。

 ただ、明石君との結婚などは、住吉明神の神のお告げによるものであって、源氏がいかんともしがたいことであり、彼自らの色恋沙汰ではない。この点で、紫上にとっては救いになっている。
 また、女三宮の降嫁も、朱雀院のたっての頼み(命令)であって、源氏が否める筋のものではなかった。これもやはり紫上にとっては救いである。
 玉鬘の登場によっても、紫上はさんざん悩まされるが、結果としては、玉鬘は鬚黒大将の妻になった。鬚黒大将は、その名の通り鬚もじゃで、色黒で、それにまことにダサい男ときている。およそ日本女性の好みに合うタイプではない。その妻になったことは紫上にとっては快哉事である。
 紫上は四十三歳で亡くなるのだが、これは当時としては「定命」である。この歳にしてなお彼女はあまりにも「なまめかしい」美しさを保っていた。『幻』の巻で、その美しくも気高い紫上を亡くした源氏が、癒しがたいショックで、一年間、茫然自失の状態で過ごす。愛する者を失って自失する源氏の姿は、紫上にとっては最高の救いではないか。やはり源氏が真実彼女を愛していた証なのだから。
 このように注意深く読んでいくと、紫上は必ず救われるように物語が構成されていることに気づく。源氏の色好みによって、苦しまされ悩まされては救われ、苦しまされ悩まされては救われる。その意味で、物語に登場するすべての女性よりも、紫上は一番救われた女性であり、源氏物語は紫上の「鎮魂歌」であると言える・・という内容であった。

 確かにお話の通りのところもあり、誠に面白く感銘深い講演であった。

 しかし、決定的なところで、大きな過ちがあるのではないかと思わざるを得ない。
 結論から言えば、紫上自身は何一つ救われてはいない、ということである。私はこれまで、何度も何度も「哀しい紫上」をテーマとして文章を書いてきている(『源氏物語たより』32,40,67,80,93,94,179,195など)。
 そして、この思いは、いくら「注意深く」読んでも変わることがない。源氏物語は、決して「紫上の鎮魂歌」などではない。何度も何度も辛く哀しい思いをさせられて、ついに救われることのなかったのだから。
  林氏が最後に触れていられた
 「源氏物語は、当時の女性たちの姿を映すもので、男の身勝手のままで、女は生きていていいのかという命題を突き付けている」
という話は、私もまさにその通りであると思う。このことにこそ、源氏物語の主題の一つがあるのではあるまいかと思っている。宇治十帖の浮舟の話も、男の身勝手によって翻弄される女の哀しさを象徴する物語である。
 紫式部は、平安時代という時代の孕んだ病巣を、紫上という女性を通して「これでもか」「これでもか」というほどに抉(えぐ)り出しているのだ。

 話をもとのもどそう。林氏は「源氏物語は紫上にとっての鎮魂歌」と言われるが、先に上げられたいずれの例も、紫上個人にとっては救いになっていないのである。救われるのは、「これではあまりにも紫上が可哀そうではないか」と物語を読んできた読者でしかないのである。「そうか神のお告げではいくら紫上が悩んでも仕方のないことだ」とか「院の命令では・・」と思って読者が自らを納得させる要因になるだけなのだ。
 鬚黒の場合は、「それみたことか!」と読者の喝さいを浴びたことであろう。「源氏は、親切めかして玉鬘の世話をしていながら、その実、自分の女にしたくてうずうずしていたのだから。彼女の髪をなでたり、抱きかかえたりしてさ・・見ていられなかったわよ。意外にも髭黒のところにいってしまったのは、因果よ、因果。お陰で玉鬘まで不幸になってしまったではないの(実は、鬚黒大将は、後に大臣となり、玉鬘は鬚黒との間に子供をいっぱい作って幸せになるのだが、結婚当初はめげきっていた)」
 しかし、これは紫上にとってはかかわりのないことで、慰めにもならないことである。
 また、女三宮が、たとえ院の御命令で降嫁したのだとしても、源氏の愛が、紫上よりも二十歳近くも若い女三宮に注がれてしまうことに変わりはないのである。六条院の女主として君臨していた紫上はその座から滑り下りなければならなくなった。自尊心を粉々に砕かれたのだ。その屈辱は、いかほどのものであったろうか。
 そして、彼女が何よりも救われなかったのは、あれほど必死に願った「出家」を、源氏は一顧だにせず全く許そうとしなかったことだ。

 再度言うが、源氏物語は、「紫上の鎮魂歌」などでは決してない。あえて言えば、『哀しい女の四重奏曲』である。

 唯一彼女が救われたのは、死を前にして、明石中宮が、終始紫上に付き添っていてくれたということである。この場面は名文であり、涙なくしては読めない箇所である。長いけれども引用しよう。
 『秋待ちつけて世の中すこし涼しくなりては、(紫上の)御心地もいささかさわやぐやうなれど、なほ(やはり)ともすればかごとがまし(秋の涼しさが逆に病の身にはさわるもとになる)。・・中宮は(内裏に)まいり給ひなむとするを、「今しばし(私 紫上を)ご覧ぜよ」とも、聞こえまほしう思せども、さかしきやう(さしでがましい)にもあり、(また)内裏の(早く戻れという)御使い暇なきにもわづらはしければ、さも聞こへ給はぬに・・宮(中宮が紫上のところに)わたり給ひける。・・(中宮が紫上を見ると)こよなう痩せ細り給へれど、かくてこそあてになまめかしきことの限りなさもまさりて、めでたかりけれ』
 そこに源氏も渡ってきて、「あなたは、中宮の前だととても心も晴れ晴れするようですね」と僻(ひが)みとも取れる言葉を漏らし、その後、紫上と歌を詠み交わす。
 そして,ついに紫上の最期が来た。
 『宮は、(紫上の)御手をとらへたてまつりて,泣く泣く見たてまつり給ふに、まことに消えゆく露の心地して、・・夜一夜さまざまのことをし尽くさせ給へど、かひなく、明けはつるほどに、消えはて給ひぬ。宮も、(内裏に)帰り給はで、かくて見たてまつり給へるをかぎりなく思す』
 明石中宮は、他人の子である。しかし紫上が心を込めて愛しみ育ててきた子である。その子に手を取られて消えていくことのできた紫上こそ、幸せな人といえるだろう。彼女は最後の最期に救われたのだ。
 この場面では源氏は背景の人になってしまっている。紫上にとって大きな存在になっているのは明石中宮である。三歳の時に紫上のところに引き取られてきて、慈愛の限りを尽くして育てた子に手を取られて死んでいくことのできた紫上ほど幸せな者があろうか。
 『御法』の巻で、明石中宮の子・匂宮が、紫上に向かって、こう言っているのがまことに印象的である。
 『まろは、内裏(うち)の上よりも、宮よりも、母をこそ、まさりて思ひ聞こゆれ』
 「内裏」とは今上のこと、「宮」とは中宮のこと、「母」とは紫上のことである。匂宮も二条院で紫上に育てられた。彼は、実の父よりも母よりも、「母 紫上」のことが一番好きで恋しくてたまらないと言っているのだ。この幼い匂宮の言葉に、紫上のたぐいまれな優しさや深い慈愛のほどがいかんなく表されている。そういう優しく慈愛に満ちた紫上に明石中宮は心を込めて育てられたのだ。二人の絆がどれほどのものであったかは言うまでもない。
 源氏物語には何度となく後撰集の次の歌が引かれている。
 『人の親の心は闇にあらねども 子を思う闇にまどひぬるかな』

 私は、いつも源氏物語は、「母と子の恩愛の壮大な物語」であると思っている。紫上と明石中宮はなさぬ仲ではあるが、それだからこそ二人の絆は一層強かったのだ。
 林氏が、なぜ明石中宮が紫上の「御手」をとらえたことに触れられなかったのか、不思議である。ここにこそ紫上の救いがあったというのに残念である。この場面は、源氏物語全編中の白眉であるとともに、最大の主題を擁している場面であると言えないだろうか。
 



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