郷愁

貨幣哀感

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  貨幣哀歓
                          ~ 日銀貨幣博物館にて ~

 皆さんは、日本銀行に行ったことがあるだろうか。もし行っていなければ、日本銀行の敷地内にある“貨幣博物館”には、ぜひ行くことをお勧めしたい。あまり知られていない所ではあるが、隠れた魅力的なスポットといえるからだ。
 この博物館の建物であるが、実に荘重なもので、入り口は分厚いどっしりとした扉で閉ざされていて、なんとなく入りにくい雰囲気さえある。それに、二階への階段も、歴史の重みを感じさせる。
 実は、本館の日本銀行の建物は、明治29年、明治政府が国の威信にかけて建てたもので、ネオバロック形式(新しいタイプの装飾的な)の建物である。現代の建物がみな画一的になってしまって、丸ノ内側も八重洲側もいわゆる単なるビルが林立しているに過ぎない中で、この建物ばかりは偉容を誇っている。テレビにもよく登場する。
 貨幣博物館もその時の建物であるかどうかは知らないが、日本を象徴する本店に引けをとらないもので、充実した貨幣の展示とともに一見に値する。
 貨幣博物館は、東京駅から十分ほどの一石橋を渡って、すぐ右側にある。

 いつか私が、博物館に入った時には、3、4グル-プの中学生が来ていた。しかし、彼らは入って来ては出ていくという具合で、15分と館内にいない。実にあわただしい。何か出ていくのが目的で入ってくるといった感じである。彼らの注目は、西太平洋ヤップ島で使われていた大きな石の貨幣くらいだ。その前に行くと、だれもが立ち止まり、
「へぇ!でけえ。」
という感嘆の声を上げ、一撫でして出ていく。この石の貨幣は、直径が1メ-トルはあるという大理石(?)でできていて、中学生でなくとも目を見張る代物である。
それにしても、もう少し丁寧に見ればいいのにと思う。この大きな石の貨幣だけでも、いろいろの感慨や課題が浮かんでくるはずであるが、みなメジロが餌をついばむようにせわしなく出ていってしまう。
たまに、しばらくおとなしくしているグル-プがあるかと思えば、コンピュ-タをいじっているだけで、パソコンを操作することが興味の対象のようである。
私にとっては、ここは興味・関心のるつぼである。何時間いてもあきない。江戸時代の貨幣が中心であるというところが、私にとってはたまらない。

まず、興味を引いたのが、道中での“ゴマのはい”対策である。実によく考え、工夫している。それだけゴマのはいが多かったということであろうが。
たとえば、刀の細工を見てみよう。脇差しかと思いきや、なんと刀の中には刃がなく、鞘(さや)が二つにぽっかりと割れ、その間に小判が2、3枚入るように細工されている。また、別の脇差しは、鍔(つば)の部分が二つに割れるようになっていて、八か所の窪みに二分金が1枚づつ、合計で8枚入るようになっている。それぞれが見事にきっちり収まるように細工されているので、刀を振っても、音もしない。それにしても、二本差をしているからには武士であるはず。武士が、竹光ならぬ空光とはどういうことであろうか。ゴマのはい以外は、それほどに世は平和だったということかもしれないが。
もう一つは、矢立の細工である。矢立の墨壷の中に、一分銀や二朱金が入るようになっている。これは庶民が持ち歩いたものであろうが、矢立を持って旅をする者とは、どういう人物であろうか。おそらく、文人、墨客、隠居、…など、いずれにしても金には困らない種族であろう。それでも、ここまで細工してゴマのはいに気を使っている。江戸の人々の生き様が見て取れて、思わず微笑ってしまう。

微笑っていられないのが、幕末の金貨の流出問題である。
嘉永六年(1853年)、ペリ-が浦賀に来航し、翌年、和親条約を結んだ。次は通商条約である。条約締結に当たってもっとも難航したのが、海外の金銀と日本の金銀のレ-トをどうするかという問題であった。結果的には日本にとって極めて不利な交換レ-トになってしまった。
それではどういう仕組みであったのかみてみよう。
仕組みを理解するためには、まず、一両が四分であるという基本は抑えておかなければならない。つまり、一分金(銀)4枚が一両ということである。
幕末に日本で使われていた外国の貨幣としては、基本的にはメキシコ銀貨であった。銀の含有量が概ね等しいということで、メキシコ銀貨の1枚が、日本の銀貨である一分銀3枚と交換された。つまり、メキシコ銀貨4枚が一分銀12枚に当たるから、メキシコ銀貨4枚で小判3枚(三両)と交換できるということである。
ところが、この日本の小判は、イギリス、アメリカなど海外では大変な高値で取り引きされ、1枚(一両)でメキシコ銀貨4枚になった。
ということは、3枚の小判を海外に持っていけば、12枚のメキシコ銀貨が手に入るということだ。そこで、再度、その銀貨を持って日本に来ると、九両の小判が手に入るという仕組みになる。まさに濡れ手でアワである。
安政年間に、50万両とも200万両とも言える小判が海外に流出してしまったという。(ずいぶん大ざっぱであるが、横浜だけで200万両流出したと説明にはあったが、学者によって流出額に大きな差がある。)
たとえば、100万両が流出したとして計算してみよう。一両をかりに10万円とすると、1、000億円になる。これは、加賀100万石(一石=一両として)の年間予算に匹敵する。このように、わずか数年のうちに日本の金は流れに流れ出てしまったのだ。
そこで、慌てた幕府は、小判の改鋳を手がける。それが万延小判(1860年)である。この小判が、“傑作”で、時の幕府の右往左往ぶりや困惑や苦衷(くちゅう)が滲(し)み出ていて、見ていて泣けてくる。金の含有量1、9g、重さはなんと、3、3gになってしまったのだ。小さいなどと言うもおこがましい、“かわいい”小判である。 天保小判が重さ11、3g、金の含有量6、4gであったのだから、その三分の一にしか過ぎない。江戸の小判の中でもっとも品質のよい慶長小判や享保小判などの金の含有量の、実に12%しかない。
しかし、とにもかくにも、小判の価値が三分の一に下がってしまったということで、金の流出は収まった。しかし、時すでに遅く、日本の金は底をついてしまい、『黄金のジャパング』が、『黄昏のジャパング』になってしまったのだ。
ところで、自慢ではないが、私は、この万延小判を一枚持っている。それを手に乗せて愛玩しつつ、幕府・勘定方の慌てふためきぶりと苦衷を実感している。

貨幣博物館の後半部分は、明治以降の貨幣や紙幣である。そこからは私も、あの中学生と同じように、そそくさと館外に出てしまう。なぜならそこにはドラマなないからだ。
一石橋のほとりに、江戸時代の『迷子のしるべ』の石碑がある。迷子の貼り紙をこの石碑に貼っておき、消息を知らせたり、知ったりするのだそうだが、小判一枚で我が子を捨てざるを得なかった家庭もあったかも知れない。
私が趣味として持っている万延小判を、そういう悲劇の家庭に、ねずみ小僧をしゃれてひょいと投げ込んであげれば、ここの石碑の張り紙が一枚減っていたことだろうに、などと想像させるのもこの博物館の楽しみである。



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