郷愁

鯨談義

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   鯨絵巻

 もう随分久しく食べていないが、子供のころは鯨のベーコンをよく食べたものだ。だから、鯨のベーコンと聞くと何か淡い郷愁のようなものを感じる。ややくせのある味で、決しておいしいというものではなかったはずだが、私にとっては、案外好きな食べ物の一つであった。肉類などほとんど食べたことのない子供のころは、鯨のベーコンは美味でさえあった。そういうわけで、鯨といえばベーコンであって、鯨の肉そのものを食べたという記憶はあまりない。
 子供のころの魚といえば、アジやサバやサンマなどであった。平塚の須賀というところから、自転車を引いて魚の行商がやってきて、我が家の前の道路でよく店開きしていた。その魚屋さんの魚の中にも、鯨はなかったような気がする。
 だから、後年食堂に入って魚の料理を食べようなどという時にも、いつも鯨は対象外であった。鯨の刺身や寿司などのお品書を見ることはあっても、まず注文しようとは思わなかった。
 ところが、十年ほど前のこと、渋谷のBunkamuraに行く坂の途中に、『元祖くじら屋』という店があったので、「“元祖くじら屋”とは珍しい」と思って入ってみた。そして、ちなみに刺身を注文してみた。まだ完全には解凍されていない刺身が出てきて、それが食べるに合わせてほどよく解けてくる。口の中に入れると、なんともはかなく、すっと溶けていくようなのど越しなのである。まことに美味であった。
 「鯨の肉ってこんなにうまかったのだ!」
 以来、料理屋に寄って、お品書に「鯨」があると、よく食べるようになった。
 
 ところで、鯨の専門店や鯨の料理を出す店をよく見掛けるのだが、捕獲が禁止されているはずなのに、どうしてこれほど鯨の専門店や料理屋があるのだろう。もちろん調査捕鯨で捕れたものだろうが、あちこちで専門店が出せるほど、調査捕鯨で捕れるものだろうか。何かまやかしがあるのかもしれない。でも、あれほどおいしのだから、まやかしでも何でもいい、と思って食べている。
 今までは、「鯨が絶滅の危機にある」とか「調査捕鯨以外は鯨の捕獲は禁止」とかいうようなニュースを聞いても、さしたる感慨はなかったが、鯨に執心するようになって以来、鯨のことが私にとって気がかりな問題の一つになっている。
 以前の私の心配ごとといえば、マグロが食べられなくなることであった。とにかくマグロが好きで、マグロが食えないなどという日が来るなら、生きているつもりはない、とまで思っていた。
 そのマグロも決して安泰ではない。だから、「オーストラリアで“マグロの養殖に成功”」とか、「日本で“マグロの稚魚のふ化に成功”」などというニュースを聞くと、手をたたいて喜んでしまう。
 いつか北海道のニシン御殿に行ったことがあるが、それはそれは豪壮なものであった。この御殿を成り立たせていたのが、二シンなのかと、感無量なものがあった。そのニシンが幻になったように、いずれマグロも幻の魚になり、「幻のマグロ博物館」などというのができるかも知れない。
 あの大衆魚のサバでさえ捕れなくなっているというし、かつては肥やしくらいでしかなかったイワシさえあまり捕れなくなってしまった。寿司屋などでも、イワシが随分値上がりしてしまって、けっこう高級魚の仲間入りしている。イワシが高値の座に堂々と鎮座していたりするのは、私にとっては大変困ることなのだ。というのは、私が寿司屋に入って、まず注文するのはイワシだったからだ。
 いずれにしても、魚はみんなピンチにあるようだ。
 渋谷で食べて以来、今はマグロのみならず、「鯨まで幻になったら…。」と心配になっている。
 
 それでは、一体今鯨はどういう状態になっているのだろうか。また、捕鯨はどういう状況になっているのだろうか、みていってみよう。
 最も大型のシロナガスクジラは、現在500~1、500頭しかいないという。大型の哺乳動物は、500頭を切ると種を保存していくことはできない。シロナガスクジラなどは、相変わらず絶滅の危機にあることに変わりはない。
 一方、マッコウクジラは200万頭、ミンククジラは100万頭もいるそうだ。保護のおかげで、鯨全体ではその数を増やしているが、鯨によって相当差があるようである。
 
 鯨や捕鯨に対する考え方・感じ方は、国によってさまざまである。アメリカやイギリスなどでは“鯨資源の保護”というよりも、もっぱら“動物愛護”の観点から騒いでいる。
 一方、日本では過去、鯨は日本人の生活そのものであった。したがって“愛護”などとあえと言う必要がないほど鯨と人間とは密着していたのだ。
 このことは、いろいろな書物や各地に残る風俗・習慣などによって察することができる。鯨に関する書物を読んだり各地の風俗・習慣を知ったりするにつけ、今まで、鯨とはあまり縁のなかった私であるが、鯨と日本、あるいは鯨と日本人の関係について、一度見直さなければならないな、という意識を持つようになった。
 日本では、鯨を捕獲すれば、鯨のすべてを利用し活用してきた。肉はもとより、骨も歯もヒゲも皮も、すべてが利用され、捨てるところとてなかった。鯨の骨やヒゲから見事な芸術品を生み出している。いつか上野の科学博物館で江戸のからくり人形を見たことがあるが、いわゆる“茶汲み人形”の動力になっているのが、鯨のひげであった。文楽の人形をスムーズに動かしているのも鯨のヒゲだという。
 江戸時代には、大きな鯨が上がると、一頭で「八郷を潤した」という。それほど鯨は価値の高いものだったのだ。
 鯨捕りで有名な和歌山県の太地(たいじ)町では、大きなセミクジラだと一頭300両もしたという。今の価値で言えば、3、000万円である。太地町では、最盛期には、クジラのために年間7、000~8、000両になったという。つまり、太地村に7~8億円の金が落ちたことになる。
 名奉行・大岡越前の『鯨裁き』は有名な話だ。
 大岡忠相が、江戸の町奉行になる以前は、山田奉行(伊勢神宮の警護や宇治山田の神領の民政、あるいは伊勢・志摩などの幕領支配や鳥羽港の船舶の検閲などをしていた。)をしていた。
 彼がその山田奉行だった時、片瀬村という村の浜に大鯨が来たことがあった。片瀬村の人々はさっそく鯨を追った。そして、一人の漁師がその鯨の尾の脇に一番銛を打ち込んだが、ついに逃げられてしまった。
 数日後、今度はその大鯨が、別の谷中村という村の浜に現れた。谷中村では総出でこの鯨を追い、ついにしとめた。が、調べてみると、尾の脇に片瀬村の漁師が打ち込んだ銛がささっていた。そのため鯨の収益の一割を片瀬村に送った。しかし、片瀬村ではこれを不服として、谷中村に押し掛け、「うちが一番銛を打ち込んだのだから、うちのものだ!」と谷中村の民家などを破壊した。この裁判に当たり、大岡忠相は見事な判決を下した。(「享保の二人」徳永真一郎 毎日新聞社より)
 この判決に感心した八代将軍・吉宗が、彼を町奉行に抜てきしたという話がある。
 このように、村と村の争いになるほど、鯨は人々の生活に大きな意味を持っていたのだ。
 また、日本各地にクジラの供養塔がある。山口県には、なんと鯨に戒名をつけ、その鯨たちの過去帳が、ある寺に保存されているという。日本人にとって、鯨は尊敬と感謝の対象であり、信仰の対象でもあったようだ。その意味で、鯨は日本の文化そのものであったのだ。
 金子みすずの詩に『鯨法会』という詩がある。

 鯨法会は春のくれ
 海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
 ゆれて水面をわたるとき、
 村の漁夫が羽織着て、
 浜のお寺にいそぐとき、
 沖で鯨の子がひとり、
 その鳴る鐘をききながら、
 死んだ父さま、母さまを、
 こひし、こひしと泣いてます。
 海のおもてを、鐘の音は、
 海のどこまで、ひびくやら。 (「金子みすず全集」~JULA出版局~)

 みすずの作品に、有名な『大漁』という詩がある。浜では人々がイワシの大漁を祝っている一方で、海の中では“イワシがとむらい”をしているという主旨の歌である。みすずの優しい感受性が生み出した歌だ。鯨に対してもみすずの感性は鋭く働く。
 このようなみすずの歌に、現代の我々が、心を揺さぶられ感動を覚えるということは、みすずのみならず、我々日本人の中に、生きとし生けるものへの深い慈しみの心というものが、ずっと流れ続けてきたからかだ。
 日本人にとっては、大きな鯨も小さなイワシも、我々人間を生かしてくれる存在だという感覚があるということだ。つまり、我々は、鯨やイワシに「生かされているのだ」ということである。
 この感覚は西洋人にはないものであろう。恐らく、彼らは、みすずの詩に対して、「論理性がない。」「荒唐無稽(こうとうむけい)だ。」と否定するばかりかも知れない。
 この日本人の繊細な感情は、生けるものだけでにとどまらない。我々が世話になっているすべてのものに至る。そうして、ついには生命(いのち)のないものにまで感情移入していく。このことは『針供養』や『傘供養』などを見ればわかることだ。
 正月にお飾りを台所に飾ったり、トイレに飾ったり、あるいは家畜小屋にまで飾ったりするが、それは、我々の心の中に、すべてのものに生かされているという感覚があるからだ。我が家では、今はこの風習をしなくなってしまったが、実家や弟の家では未だに続けている。この風習を、私はすばらしいことだと思っている。
 私の家では、毎年節分の日に豆を蒔いている。台所やトイレや階段に蒔いているが、お飾りと同じ意味で、日ごろ世話になっている諸々に感謝しているつもりである。この風習だけでも続けていこうと思っている。

 アメリカをみてみよう。アメリカの捕鯨史は、19世紀前半がそのピークであった。日本の幕末のころは、アメリカの300~500トン級の捕鯨船が、日本近海にまで百隻も二百隻も押し寄せてきた。このころのアメリカは、鯨によって支えられていたといっても過言ではないほど、鯨の“ゴールデンラッシュ”だったのだ。
 吉村昭の小説に『鯨の絵巻』(新潮社)という作品がある。先の太地町の鯨のことを扱ったものだ。太地町では、寛政の時代(18世紀末)に鯨の漁獲量が極端に減ってきた。それはアメリカの捕鯨船が日本近海に出没して、手当たり次第に捕りまくっていた結果だったのだが、その事実を太地の人々は知らなかった、という場面がある。
 アメリカはまさに世界の鯨を捕り尽くそうとしていたのだ。ちょうどアメリカ人がアメリカバイソンを捕り尽くそうとしたように。
 しかも、彼らの捕鯨は、“鯨油”を取ることだけが目的で、他はすべて捨ててしまっていた。その油が、アメリカやイギリスの街灯の明かりとなり、街を照らしていたのだ。その後石油が、明かりや動力の原料となるや、アメリカ・イギリスの捕鯨業は急激に衰退していった。彼らにとっては鯨は単なる“もの”であって、なんらの愛着も持っていなかったのである。
 そういう彼らにクジラを尊敬するなどという感情の起こるはずがない。
 今、アメリカでは「動物愛護」の観点から、「鯨を守れ!」「鯨を守れ!」のシュプレヒコールが喧(かまびす)しいのだが、彼らが、150年前のことを、いや、つい100年前のことを振り返ってみるならば、その声はずいぶん小さくなってしまうはずだ。
 国際捕鯨委員会(IWC)においては、かつては捕鯨絶対反対の国が大勢を占めていたそうだが、最近、反対と容認との国が拮抗(きっこう)してきているという。それは、鯨の保護が行き届いてきて、徐々に“安泰”の領域にまで達しつつあるからだ。
確かに、ミンククジラの100万頭やマッコウクジラの200万頭は多すぎる気がする。
 こうなると、今度は増えすぎを心配しなければならなくなる。あの大きな体で海の魚を食べ尽くしてしまったら、海の生態系が破壊されてしまう。「山猫とネズミ」の例ではないが、増え過ぎた固体は、滅びなければならないという、厳然たる真理があるということも認識しておかなければならない。「動物愛護」のシュプレヒコールばかりでは問題は解決しないのだ。
 だからといって、かつてのように何隻もの捕鯨船が、団をなして南氷洋まで出かけていって、取り放題に取っていいはずはない。資源の状態を確認しながら、慎重に、そして遠慮がちに"取らせてもらう"というのが筋である。
 
 最後に、日本人の心を元気づけてきた歌を紹介しよう。
 それは、時雨音羽作詞の『出船の港』である。中山晋平の作曲、藤原義江の歌で、大正、昭和の歌謡界を風靡(ふうび)した実に爽やかな歌である。藤原義江などという歌手は知ない人が多くなってしまっただろうが、あのテナー歌手が伸びやかな声で『出船の歌』を歌うと、それを聞くたびに身も心もスッキリさせられたものだ。当時の国民は、この歌を聞いてみな元気づけられてきたはずだ。
 時雨音羽が、この歌詩を書いた時の逸話を語っている。
 「日本国民を元気づける『全国民一家一冊を念願した新雑誌(を刊行するが)に、だれでも歌える歌を』という依頼を受け」て作った。」
 歌の中心が鯨の“潮”であることに感銘を覚える。大きく、力強く、そして、さっそうとして、鯨は大海を遊泳する。

 ドンとドンとドンと 波のり越えて
 一挺(ちよ)二挺三挺 八挺艪(ろ)で飛ばしゃ
 サッと あがった 鯨の潮の
 潮のむこうで
 朝日はおどる



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