郷愁

綾瀬のヤマトタケル

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    綾瀬のヤマトタケル

 綾瀬市の西部、海老名市境に『五社神社』という神社がある。江戸の時代までは相当の社領を賜っていて格式も高ったという。
 この五社神社に、古代の英雄・ヤマトタケルが腰掛けたという
 『日本武尊腰掛岩』
なるものが鎮座している。私は、この岩を綾瀬市が誇るべき貴重な文化遺産であると思っているし、人にも話したりしている。
 しかし、誰もが
 「ハハハ…」
と笑うだけで信じてくれない。そして、
 「ヤマトタケルなんていうのは、オスサノオノミコトやオオクニヌシノミコトと同レベルの神話上、伝説上の人物だ」
くらいにしか思ってくれないのだ。なぜヤマトタケルの実在と腰掛け岩の歴史的事実を信じてくれないのだろう。そこで
 「とにかく腰掛け岩にはいつもしめ飾りが飾られているのだぞ」
と強調してみるのだが、それでも、にやっと笑うだけだ。そのしめ飾りだっていつも真新しいのに。
 慶安三年(1650年)の『五社神社縁起』には、次のようにヤマトタケルに関する由来が書かれている。
 『十二代景行天皇の皇子日本武尊の尊…山中に分け入り見たまえば…一個の大石あり、彼、奇瑞を感じ霊石をいただき…東征し国穏やかにして歓喜斜めならず、帰洛の時…如意(自分の思うようになって)満足の息を休め…』
 ここまでの書付けがあるにもかかわらず、笑ってすましてしまうとはなにごとであろうか。「それでは、みなさんは歴史上のことをどこまでなら信じられるというのか?あるいは何なら信じられるというのか?」と聞きかえしたくなってしまう。
 たとえば、『古事記』が編纂された時より120年も以前の推古天皇(592年即位)の実在についてはどうだろう。まさかこれを疑う人などいないはずだ。では、聖徳太子は?法隆寺は?これだって信じないなどと言う人は誰もあるまい。
 それでは、推古天皇を280年ほど遡(さかのぼ)った仁徳天皇(即位313年)はどうだろう。あるいは首をかしげる人が多くなるのかもしれない。ただ、この時代は、朝鮮半島で、百済が、新羅との戦い(399年)に際して、日本に援軍を要請したという厳然たる歴史的事実があるのだ。朝鮮半島にまで軍を派遣できるということは、大和には相当強大な国家ができていたとみるべきだ。仁徳天皇陵の壮大さはそういう強大な権力の下にできたものだ。つまり、仁徳天皇は実在の人物なのである。
 さらに、それから240年遡(さかのぼ)ってみよう。12代天皇の景行天皇(71年即位)である。ヤマトタケルの父親である。どうだろう、まだ信じ難い?
 稗田阿礼は何百年もの歴史を暗誦していたという。記憶力の抜群な人物は、当時は他にもきっといたはずだ。なにしろ文字のない時代で、口承中心だったのだから、数百年間くらいの歴史を覚える専門家はいくらでもいた。そういう専門家たちが次々に正確に語り伝えてきたと考えた方が自然だ。
 だから、仁徳天皇の時代の者が、240年以上前の景行天皇などの事績を記憶していたとしてもなんの不思議もない。
 しかも、景行天皇の時代は、中国の漢の時代に当たり、この時代に漢の光武帝が日本に送ったというかの有名な『漢委奴国王』の金印がある。だから、
 「今から2000年も前のことなど、みな伝説にすぎない」
と考えるのは早計である。
 ここまで、丁寧に説明してくれば、自ずから、ヤマトタケルは実在の人物だということがお分かりいただけたはずだ。
 歴史というものは突然できるものではない。ある日突然法隆寺が建っていたとか、ある日突然仁徳天皇陵ができていたとか、というものではない。それらはみな積み上げの上に、できるべき根拠の上にできてきたものである。
 私は、かつて垂仁天皇陵の堀端で、ビールを飲んだことがある。壮大な陵墓を目の前にして実に気宇壮大になったものだ。あんなにビールがうまかったことはかつてなかった。垂仁天皇は第11代天皇(BC29年即位)で、景行天皇の一代前の天皇にしか過ぎない。
 なに?
 「一代しか違わないのに、景行天皇と時代が離れ過ぎているではないか?」
とおっしゃる。
 そのことはたいした問題ではないのだ。なぜなら、当時の天皇はみな100歳以上の長命であったのだから。垂仁天皇は153歳、景行天皇は137歳だ。それをもって実在を疑うというのでは単細胞過ぎる。
 また、島根県の“出雲風土記の丘”で行われていた『出雲まほろば展』を見たことがあるが、そこに展示されていたおびただしいばかりの銅鐸(どうたく)や銅鉾(どうぼこ)には驚嘆させられた。特に荒神谷遺跡出土の銅剣にはど肝を抜かれた。出土した時のままの状況で再現されていて、なんと300本以上の銅剣が累々(るいるい)と折り重なるように展示されていた。これだけの財産を所持していた首長が出雲にも存在していたという証だ。まして、大和政権の権威はさらに大きかったはずだ。これはちょうど景行天皇の時代に当たる。
 実は、ヤマトタケルは、九州の熊襲(くまそ)征伐の帰り、出雲の首長・イズモタケルを征伐しているのだ。
 
さて、前置きがずいぶん長くなってしまった。綾瀬のヤマトタケルに戻ろう。
 五社神社の日本武尊腰掛け岩は、高さ30cm、横幅60cmほどの岩で、小学校や高校時代に見た時の岩の印象よりもずいぶん小さな感じがする。このことを妻に話したら
 「雨風で削られてしまったのじゃあないの」
とか
 「地面の中に半分埋まってしまったのじゃあないの」
とか、ずいぶん非科学的なことを言う。まだあれから50年ほどしかたっていないのに。岩が削られるはずもないし、腐葉土で埋まってしまうはずはないではないか。
 それにしても、この小さな岩にヤマトタケルが腰掛けたとは思えない。なぜなら、彼は、琴欧州のような偉丈夫であったからだ。『日本書紀』には、彼の人となりが
 『身体長く大にして、容姿端麗…猛きこと雷電のごとく…』(岩波書房 日本古典文学大系)
と紹介されている。
 また、『古事記』には、彼のすさまじいばかりの行動が描かれている。彼は、父・景行天皇の言い付けを「兄を殺せ」という指示だろうと早とちりして、兄・大碓命(おおうすのみこと)を殺してしまう。その場面がすさまじい。
 『あさけに(朝方)厠(かわや)に入りし時、待ち捕らえて、つかみひしぎ(つかみつぶして)、その枝(手足)を引き欠きて(ひきもいで)、こもに入れて投げ棄てつ。』(日本古典文学大系)
 この猛々しさが景行天皇に忌み嫌われ、結果的に九州や東(あずま)に"荒ぶる神征伐"という名目で追い出されてしまうのだ。
 これだけの偉丈夫が座る岩としては、小さすぎる。
 それに、岩の上部が、平らでなくややとがっているのはどういうことであろうか。
あれでは座ると坐骨神経痛になってしまう。
 彼は、横須賀の走水から船で房州方面に渡り、常陸(今の茨城県)あたりに跋扈(ばっこ)していた蝦夷(えぞ)を征伐し、帰路に着いた。その際どういうルートを取ったかは『古事記』には、その詳細は記されていないが、武蔵、相模を通り足柄に行ったと考えるのが自然である。その後、足柄から甲斐、信濃を抜け、尾張に至っている。
 つまり、彼は長途の旅をしていたわけで、骨を休めるには岩の上部は平らかでなければならなかったはずだ。先の五社神社縁起にも
 「息を休め」
とあった。
 でも、これは我が妻の非科学的想像ではないが、2000年の間に風化してとがってしまったものと考えればいいことにしておこう。
 彼は、五社神社で「息を休め」た後、足柄、甲斐、信濃とそれぞれの土地に跋扈する荒ぶる神々を“まつろわせ”(したがわせ)ながら大和へと凱旋していく。しかし、かの偉丈夫もさすがの激務に相当疲労していたとみえて、懐かしい大和に着く直前、伊吹の山に巣くう妖怪にやられてしまう。
 琴欧州がそんなに簡単に敗れるはずはないのである。ひょっとすると、彼は五社神社あたりでも疲労困憊していたのかもしれない。そして、とにかく座れるものなら何でも座ろうとして、上部のとがった岩に座ってしまったために、坐骨を痛めたのかもしれない。だとすれば、あの腰掛け岩は、ヤマトタケルの敗北への転機になった岩と言っていいわけだ。そういえばお隣の藤沢市にも「腰掛神社」と言う社がある。彼は相模に帰ってきた時には、フラフラしてどんな岩にも腰かけたのだろう。
 
綾瀬とヤマトタケルとの関係は、接点にもならない接点というかもしれないが、上記のように想像してきた時、古代の息吹が生なものとして感じとれて楽しい。
 とかく現代人は、「神話は神話」として片付けてしまう癖があるが、私は、神話にはそれなりの根拠があるのだといつも考えている。それに、その方が夢豊かでいいではないか。それが故郷を誇りに思うもとになるのだ。そして、ヤマトタケルが故郷大和をしのんで詠った絶唱歌のように
 『綾瀬は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 綾瀬し うるわし』
と詠う人が、綾瀬にも多くなるはずだからだ。



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