源氏物語

二人の皇子 

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  二人の皇子 『桐壷』を読む その8 【訂正 再掲】

 帝の寵愛厚い桐壺更衣に
 『世になく清らなる玉のをのこ御子』
が生まれた。最高の賛辞で綴られるこの御子とは、もちろん後の光源氏のことである。
 「清ら」とは「高貴な、本質的な美しさ」のことで、生まれ持った資質が高貴でしかも優美でなければならない。したがって、「清ら」は、皇子などを形容する時に使われる言葉で、どんなに美形でも、平凡な身分の家に生まれたのでは「清ら」とは言わない。そういう場合には「清げ」と言う。

 「玉のをのこ」の「玉」も、また源氏が最高の美称をもって譬えられたものである。たとえば「玉垣」「玉鬘」「玉串」「玉椿」などの「玉」と同じように、美しいもの優れたものを形容する時に使う言葉である。したがって普通の家庭に生まれた子がどんなに可愛く美しくても、「玉のおのこ」などとは使わない方がいい。玉に失礼になるからである。

 これほど世にも珍しい皇子が生まれてしまったのでは大変である。帝には既に第一の皇子(後の朱雀帝)がいた。押しも押されもしない右大臣の娘・弘徽殿女御から生まれた皇子である。この皇子が、当然のことながら次期東宮である。しかし、こんなに「清らな、玉のような皇子」が生まれてしまったのでは、帝の心も揺れるというものである。まして第一皇子の母・弘徽殿女御の心中は穏やかでない。
 『「ようせずば坊にも」この御子のゐ給ふべきなめり』
と、勘ぐるのである。「ひょっとすると、帝はこの御子を東宮として立てるのではなかろうか」という心配であり、そう考えるのもごく当然の帰結である。

 この第一皇子(以下 朱雀帝)も、美しい皇子であったはずである。なぜなら、祖父は右大臣という高い身分であるし、その妻も当然美形でなければならないからだ。したがって、その娘(朱雀帝の母)の弘徽殿女御もまた美しい女性であるはずである。それに後に源氏が自らの運命を賭けるほどに熱を上げる「朧月夜」は、弘徽殿女御の妹であるからだ。そういう女性の姉が美しくないはずはない。
 しかし、この朱雀帝が、源氏にはすべての面でまるで勝負にならなかったのだから困ったものである。朱雀帝は
 『この(源氏の)御にほひには、ならび給ふべくもあらざり(けり)』
なのである。「にほひ」とは、「色、艶、香りなどが漂い出てくるような優れた美しさ」の状態を言う。特にこの面では朱雀帝は源氏に遠く及ばなかったのである。
 源氏を現代の男であえてたとえるならば「村上弘明」あたりであろうか。彼にはなんとなく「にほひ」が漂っている。「キムタク」なども確かに美形ではあるが、品のあるにほひには欠ける。

 さて、この御子(源氏)は、姿、容貌だけでなく、齢と共に全ての分野で稀なる能力を発揮するようになる。漢学はもとより諸芸にたぐいまれな才能を発揮するのだ。ずっと後年のことであるが、源氏の弟である蛍兵部卿宮が、当時を述懐して、
 「親王、内親王たちは、みな等しくさまざまな教育を、帝から受けさせられたのだが、源氏の君が、一番に諸能力を身に付けていかれた」
と語っている。朱雀帝も、源氏と一緒に帝の教育を受けていたはずである。物語には描かれてはいないが、やや凡庸な感じのする朱雀帝は、それらの教育を受けながら、いつも源氏に対して劣等感を抱き続けていたのではなかろうか。
 朱雀帝にとって、弟が優れ過ぎていたことは不運なことであった。

 後年、そんな優秀な弟を、心ならずも須磨に配流することになったのである。この時の朱雀帝の恐れや悔やみは、いかばかりのものであったろうか。能力ある者を不遇な境遇に陥れれば、その報いを受けなければならないのだ。過去にもその例は多い。たとえば、右大臣であった菅原道真が、太宰の権帥に左遷され、彼の怨霊が京を恐怖の底に陥れた歴史上の事実は、まさに源氏の時代の出来事であったのだ。

 朱雀帝は二十五才で天皇に即位したが、その在位中は安閑とした気持ちにもなれなかったのではなかろうか。源氏の位を剥奪し、結果的には須磨配流の状態に陥れたのだから。その報いがないはずはない。彼は目を患い心の安定を失った。そしてわずか二年半後に、母・弘徽殿女御の反対を押し切って源氏を京に召還する。それでも、源氏の影がまといついていたのだろう、わずか七年の在位で、その位を投げ出してしまう。

 考えて見れば、こんな思いをしながら帝位についていた天皇も、歴史上には随分多かったのではなかろうか。「源氏物語は歴史物語である」と言われるゆえんは、そんな歴史の事実を物語の中に生かしているところにある。
 当時の天皇には子供が非常に多かった。桓武天皇も嵯峨天皇も子供が星の数ほどいる。特に嵯峨天皇などは、五十人もの皇子女を生んでいる。そのうちの多くを源氏姓に下ろしているのだが、その中には優れた皇子もいたはずである。たとえば左大臣「源融」である。彼は、「自分には天皇の資格あり」と主張するほどの自信家であった。もちろん藤原氏によって彼の主張は一蹴されてしまうのだが。
 また、桐壺帝のモデルになっていると言われる醍醐天皇も子だくさんであった。そのうちの一人で、やはり源氏のモデルではないかと言われる「源高明」などは、相当優秀な人物であったのだろう。藤原氏中心の時代にあって、左大臣にもなって活躍しているのだ。彼の兄が、六十一代の天皇(朱雀帝)であるが、この天皇は幼いころから病弱であったという。源高明の方がはるかに能力的には上であったものと思われる。この源高明も、藤原氏の陰謀にあって、太宰の権帥に左遷されている。
 これらの歴史上の事実をそれとなく物語の中にちりばめているのが源氏物語である。

 なお、物語上の朱雀帝のことについては『源氏物語たより49 気弱な朱雀帝の逆襲』で、述べたところである。


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