源氏物語

後見がすべて

 ←二人の皇子  →紐解くの意味
   後見がすべて  源氏物語たより157 【訂正 再掲】

 光源氏は、桐壺帝の惜しみない寵愛を受けていた。三歳の袴着の式の時には
 『内蔵寮(くらつかさ)、納殿(をさめど)の物を尽くして』
帝は源氏のために盛大な式を挙げている。また十二歳の元服の時にも、内蔵寮・穀倉院の者どもに特別なおおせごとを出し
 『清らを尽くし』
た式を挙げている。それは東宮の式の時にも劣らないほどであったという。内蔵寮、納殿は、貴重な宝物や御物を管理し納めておく所であり、穀倉院は諸国からの穀物を納めておくところである。それらを「尽くした」というのだから、国家財産を傾けるほどに、盛大な式を源氏のために挙行したのだ。帝が、いかに源氏を寵愛していたかということの現れである。 

 源氏元服の時には、桐壷更衣が亡くなって既に十年近くもたっている。だから更衣の面影は、帝の記憶から薄れているはずである。つまり源氏が寵愛を得られたのは、彼自身の魅力に依るもので、たぐいまれな資質と努力がそうさせたということだ。彼の意見や論理は他を圧していて、「源氏の建言を帝が却下したことはない」と後にあるが、いかに彼の建言が適切、妥当なものであったかが分かる。
 このあたりは、かの菅原道真を偲ばせるものがある。道真もその能力をいかんなく発揮し、宇多天皇、醍醐天皇の絶大な信頼を受けて、「藤原氏にあらずんば・・」という時代にあって、右大臣まで務めることができたのである。 

 葵上の父・左大臣も、源氏の能力、魅力に惚れ込んでいた。葵上は、東宮(右大臣の孫で後の朱雀帝)から「女御に」と望まれていたのだが、左大臣はこれをけってしまい、源氏を婿にしたのである。これは異常なことである。娘を入内させ皇子を産めば、天皇の外戚になる可能性があるのだ。そうなれば絶大な権力を握ることができる。当時の上級貴族にとっては、娘が切り札であった。にもかかわらず、左大臣はそれをけったのである。いかに源氏の魅力に心酔していたかの証である。

 源氏の母方は、大納言という身分で、大納言であった祖父もなく、しかも母・更衣は若くして亡くなってしまったので、元々それほど頼みにできるものではなかった。いわば没落貴族で、彼には後見と言えるものはなかった。
 婿入り先は、確かに有力な後見になりうる左大臣であるが、所詮「婿」である。いつ関係が切れてしまうかもしれないはかないつながりである。このような状態で臣下に落とされた源氏が政界で生きぬいていくことなどできない。
 勢い彼の後見としては、帝の信頼と寵愛に頼るしかなかった。帝の庇護のもとに、初めて彼の実力が発揮できたのである。

 とにかく、平安時代には、「後見」こそ、社会を生きていく絶対条件だったのである。
 後見がなかったために人生のコースを変えざるを得なかった者や没落して行くしかなかった貴族は数知れない。
 たとえば藤原俊成などが、その一人である。彼は十歳にして父親を亡くしてしまい、政界での道が絶たれてしまった。彼は、政界で生きることを早くに諦め、歌の世界に入っていく。後見がないために人生を変えたのである。ただ、俊成が歌の世界に逃げたからこそ、日本人の心のふるさとともいえる和歌の世界は、深められ確かなものになって行ったのだ。またそのために彼の名が後世に残ったのだ。なにか皮肉な結果である。

 後見を失ったために没落していった顕著な例が、「藤原伊周(これちか 中宮定子の兄)」である。彼は、父である摂政関白・藤原道隆(道長の兄)の後見のもとで洋々たる将来を約束されていた。若くして権中納言になり、二十一歳で内大臣。将来は間違いのない関白太政大臣であった。
 枕草子には、摂政関白・道隆の全盛の様が描かれている。道隆が、清涼殿の黒戸から出て、大勢の女房や、百官の前を通って行く時のことである。息子・伊周(この時権大納言)が、父の沓を取って履かせた。そして道長の方につと寄った時のことである。
 『宮の大夫殿の(道長が)、清涼殿の前に立たせ給へれば、それはゐさせ給ふまじきなンめりと見る程に、(道隆が)少し歩み出でさせ給へば、ふとゐさせ給ひしこそ。』
 「ゐ」とは、「跪(ひざまず))く」ことである。清少納言は、道長の様子をじっと観察していたのだ。まさか道長が、道隆に「跪く」ことなどあるまいと思っていた。ところが、道隆が、つと道長の方に寄った時に、彼は、跪いたのである。「ゐさせ給ひにしこそ」の「こそ」は、清少納言が、道隆の権勢の偉大さにいかに感嘆したかを表わしたものである。

 ところが、この二年後に道隆は四十三歳の若さで突然亡くなってしまう。すると、虎視眈々と狙っていた伊周の叔父・道長に、あっという間にその座は襲われてしまう。
 伊周も定子も最大の後見を失ってしまったのだ。ここで伊周の人生も潰(つい)えてしまった。清少納言が仕える定子も逆境に置かれ、出家してしまう。この後は道長の一人天下になる。道長は摂政の座を早くに息子の頼通に譲ってしまう。それは道隆の轍を踏まないよう、息子の強い後見となって、その権威を盤石にしておこうとしたのだ。

 源氏も、父院が亡くなるや、後ろ盾を失ってしまった。桐壺帝の後は朱雀が帝に就いたが、それは右大臣の時代になったということである。源氏の身辺はすっかり変わってしまって、彼のところを訪れる者とて稀になってしまった。そして、父院崩御の二年半後、ついに彼は、自ら須磨へ身を引かざるを得なくなるのである。
 彼が、須磨から帰還でき、政界に返り咲けたのは、強運としか言いようがない。そして、内大臣となり、太政大臣になるのも、実際の歴史上にはなかったことである。
 菅原道真は配流先の太宰でなくなっているし、大宰の権帥に左遷された伊周は、その後召喚され、朝議に参加するようにはなったものの、かつての面影はまったくなくなっていた。そんな伊周の姿を清少納言はどういう思いで眺めていたのだろうか。
源氏のその後の栄光と権威は、強運と彼自身の実力に負うところ大だったのだが、それにしても、藤壺宮と源氏の不義の子・冷泉帝が、影ながらの強力な後見になっていたことも、皮肉な運命のいたずらである。
 冷泉帝は、源氏が自分の実際の親であることを知ったのである。


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 郷愁
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏
もくじ  3kaku_s_L.png 源氏物語
  • 【二人の皇子 】へ
  • 【紐解くの意味】へ
 

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【二人の皇子 】へ
  • 【紐解くの意味】へ