源氏物語

源氏物語たより261

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   芭蕉と源氏物語  源氏物語たより261

 『帚木』の巻の光源氏と空蝉の別れの場面に来ると、いつも
 「なぜここに芭蕉の言葉が?」
と不思議に思っていたのだが、今までさして問題にもしないで過ごしてきた。
 別れの場面とは、源氏が空蝉と強引に契ってしまった翌朝のこと、彼は、紀伊守の邸の庭の様を、勾欄から物思いに耽りながら眺めていた。その庭の様は、
 『月は有明にて、光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空の気色も、ただ見る人から艶にも凄くも見ゆるなりけり』
 この部分の一節が『奥の細道』にそのまま引用されているのである。
 『奥の細道』の冒頭「月日は百代の過客にして・・」のあと、芭蕉はいよいよ前途三千里の奥の細道に旅立っていく。その時の文章が
 『弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて、光をさまれるものから、不二の峯かすかに見えて、上野谷中の花の梢またいつかはと心ぼそし』
なのである。
 「月は有明にて、光をさまれるものから」が、源氏物語と寸分違わないのだ。特に「ものから」という表現が変わっているので、記憶に残りやすい。
 
 源氏物語と芭蕉ではおよそ世界が違うのではないか、と思っていた。源氏物語も芭蕉も同じ「あはれ」を追求した文学と言えるかもしれないが、それにしてもそれぞれの「あはれ」の内容は百八十度異なるのである。
 芭蕉は枯淡閑寂の世界を求め、源氏は華麗優雅の世界であはれを求めた。片やこの世の名誉物欲を捨て、妻や子供を顧みず、片や権勢名誉に固執し、常に女から離れることはなかった。
 この二つのどこに接点があるというのだろうか。

 ふと気が付いたのは、芭蕉は、北村季吟の俳諧の弟子であるということである。
 北村季吟は、源氏物語の研究家でもあり、不朽の名著『湖月抄』を表わしている。この湖月抄は現代の国文学者でも盛んに参考にする源氏物語研究には欠かせない文献である。季吟が、俳諧の指導に際し、弟子たちに源氏物語を講義したであろうことは容易に想像される。   
 芭蕉は伊賀上野の人で、藤堂家に仕えた。彼の主人が俳諧を季吟に学んでいた関係から、芭蕉もその弟子になる。季吟は伊賀上野にも行っているという。芭蕉は藤堂家を辞した後、京に出た。角川書店 日本古典鑑賞講座『芭蕉』には、
 「(季吟の)門に入って、俳諧はもとより古典や和歌を学び、また,伊藤坦庵について漢学を学んだことは、ほぼ信じたい気持ちが致します」
とある。この頃の彼の動静がはっきりしていないので「信じたい」といっているのだろう。京に出れば季吟との接触も多かっただろうから、源氏物語にも自ずから触れる機会も多くなったと考えても何の不思議もないわけである。
 
 芭蕉の俳文に『梅忘序』という短文がある。そこにこういう文章がある。
 『和歌は、西行、定家に風情あらたまり』
 和歌は、西行、定家によって大きく改まった、ということである。芭蕉が、和歌の功労者として定家を上げているのだが、その定家は源氏物語の校勘に尽くしている。芭蕉は定家を尊崇し、定家は源氏物語を偉大な文学としている。
 
 これら二つの事実から、芭蕉と源氏物語がつながっていることがはっきりした。

 それでは奥の細道には,この他にも源氏物語から引いた内容でもあるのだろうか、と思ってめくってみたところやはりあった。
 三千里の旅も終わりに近い「福井は三里ばかり」のところである。この地の等栽という知人を芭蕉が訪ねて行った時のことである。
 『市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔、糸瓜のはえかかかりて、鶏頭、帚木に戸ぼそ(戸口)を隠す』
 町中からひっそりとした所に入り込むと、粗末な小家に夕顔・糸瓜が生えかかっていたのだ。この場面は、源氏物語を一度でも読んだ人には、即座に
 「あ、夕顔の巻の最初のところだ!」
と気づくはずである。源氏が、夕顔に初めて出逢ったのが、五条わたりのむさ苦しい小家の立ち並ぶ通りであった。手狭でみすぼらしいとある家の塀に
 『いと青やかなるかづらの、心地よげにはひかかれるに、白き花』
が心地よさそうに開いていた。この花こそ「夕顔」の花であった。
 芭蕉が尋ね当てた家の門を叩くと、「わびしげなる女」が出てきた。女は,「等栽は外出している」と言う。女は等栽の妻であるようだ。芭蕉はふと
 『むかし物語にこそかかる風情は侍れ』
と感じるのである。「むかし物語」とはもう間違いはない、源氏物語のことである。源氏物語では、美しい女童が扇に夕顔の花を乗せて戸口から出てくる。ここは「わびしげなる女」であるが。
 
 今まで、奥の細道は何度も読んできているのに、源氏物語との関連で見たことはなかった。今回、すっかり忘れていた知人に出会った気がした。

 山本健吉の『芭蕉』(新潮社)を読んでいたら、何と源氏物語との関係が、何箇所も指摘されていた。そのうちの一つだけを上げておこう。
 『笈の小文』に次の句がある。芭蕉が、大和の初瀬観音に参籠した時のものだ。
 『春の夜や籠り人(こもりど)ゆかし堂の隅』
 長谷の御堂の隅の方に籠っている人が、何か心惹かれるという意味である。この籠り人は、男でも女でもいい、年老いていてもいいし若くてもいい、誰でもいいのだが、しかし「春の夜」という言葉で、自ずから限定されてくる。男ではだめなのである、年老いていてはまして駄目。初瀬観音との関係からすれば、やはり王朝の雅を背負った若く美しい女性でなければならない。芭蕉はひっそりとほのかに堂の隅にいる女にふと心惹かれたのだ。
 平安の高貴な女性たちは多く初瀬詣でをしている。道綱の母も清少納言も菅原孝標の娘も・・。山本健吉は
 「芭蕉がこの場合どのような古典の情景を想い描いたかは決定することはできない。恐らくそのいろいろの情景であろうが、その中でもっとも強く頭に浮かんできたのは、玉鬘の面影であっただろう」
と言っている。芭蕉は、堂の隅にいる女と源氏物語のヒロイン・玉鬘を重ねたと言う。
 こう指摘されると、私もそれ以外はないと思う。

 蕪村が王朝趣味の絵画的な句を多く作っていることはよく知られているところで、
 『大門の重き扉や春の暮れ』
 『ほととぎす平安城を筋違ひに』
などは、みな京を詠ったものだ。また
 『うすぎぬに君が朧や蛾媚の月』(「蛾媚」は細長く湾曲した眉)。
 『指貫を足でぬぐ夜や朧月』
などといういかにも王朝の雅を表わすような句も作っている。
 芭蕉が非常にストイックに生きたのに対して、蕪村は人間の欲というものを素直に肯定している。その面では源氏物語に近いものを持っていたわけであるが、それでは蕪村は、源氏物語から引用した句を作っているかといえば、それが全くないのである。恐らく蕪村は源氏物語を読んでいないのだろう。蕪村がもし読んでいたら、源氏物語に想を得た句がいかに多くできていたことか。

 そもそも芭蕉には女の影が見えない。「壽貞」という女性はいるが、これが杳として分からない人物なのである。奥の細道には「かさね」という少女と遊女が出て来るだけだ。後者の遊女は一振というところで一夜を明かした時のものである。この時
 『一家に遊女と寝たり萩と月』
という句を残している。しかしこれは芭蕉の虚構であろうという説が多い。恐らくそうだろう。芭蕉は、家族をも捨てて旅を通してわびの世界を求めているわけであるから、女や子供はどうでもいいわけである。
 それに対して、源氏は女を彷徨して、彼女たちや我が身の心の変化するさまを幾たびも経験し、それを通して「あはれ」を探っている。芭蕉は、旅を通して刻々と変化する「ものこと」の相を痛烈に体験している。それらを通して「あはれ」を求めているわけで、迫り方は全く正反対ではあるが、その究極では一致していると言っていいのかもしれない。


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