郷愁

人の性は元善なり

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   人の性は元善なり

 サウジアラビアで2年間の生活を終え、帰国されたN氏から聞いた話である。外務省の領事が次のようにN氏に語ったそうである。
 「Nさん、今の日本の状態では、とても国際社会をわたっていけません。というのは、日本人は、「自分はだれかが守ってくれるはずだ」と信じてしまっているからです。自分を守ってくれるものとしては、国であったり、組織であったりするのですが、いずれにしても、何か事あれば、国やある組織が必ず守ってくれるものと単純に信じているのです。
 しかし、今、国際社会はそんな甘いものではありません。どこの国の人でも自分の身は自分で守るということが鉄則になっているのですよ」
 日本人は、危機意識に乏しく、危険に対してはまったくの無防備である、だから、一人で平気でどこにでものこのこ出かけるのだ、というような主旨であった。
 私は、この話を、世の中はなんと寂しく虚しい状況になってしまったものかと思いながら聞いていた。

 私は、どのような状況になっても、領事のようには考えたくない。むしろ、そのような世界情勢であればあるほど、日本人は、日本人としての昔ながらの伝統的な特性を持ち続ける必要がある、と思うのである。つまり、人の善意を無条件に信じる姿勢、そのために構えることなく無防備なままでも平気でいるということ、これこそが大切なことなのではないだろうか。
 人が信じられないから、自らの身はがっちりと守るという方向にいくのでは、とめどない“悪の連鎖”になってしまって、それではあまりにも寂しく味気なくやるせないではないか。

 もう、随分以前のことになってしまったが、アメリカに留学していた日本人の学生が、ハロウィンの日に仮装をして知人の家を尋ねたところ、家人に怪しまれて、ピストルで射殺されてしまったという事件があった。記憶している人が多いだろうが、私の記憶にも鮮烈に残っている。「アメリカ社会はここまで病んでしまったのか」という驚きとともに、信じることを止めてしまった人の性(さが)のやりきれなさを悲しく思ったものである。
 ハロウィンという楽しかるべき日に、また、親しい友を尋ねるという日に、理由はともあれ、射殺してしまう。そういうアメリカという国に対して、不可解な思いとともに、不気味さを抱かざるを得なかった。

 今、日本でも、確かに信じられないような事件が起こっている。“病む日本”になりつつあることも確かだ。
 例えば、小学校という聖域にまで不審者が進入したり、理由なく殺人を犯したりというような、過去に例のなかった事件が起こるようになっているからである。
 これらの事件の後、学校の安全がいろいろと問われて、口を開けば「危機管理!」「危機管理!」と騒ぐようになってしまった。学校でも防具を備えなければいけないということで、“刺股(さすまた)”などを配備する市が続出したことがあった。
 もちろん、学校という所は大切な子供の命をあずかっている場である。安全に対して十分意を用いなければならないのは当然のことである。何もしないでいいなどとは毛頭思っていない。
ただ、今、日本人は、あまりにも“心配症症候群”に陥り過ぎていまいかと思うのだ。何か起こるとすぐパニック状態になってしまう。
 私が一番心配するのは、心配症症候群のあまり、本来日本人が持っていた良き特性を次々に脱ぎ捨てていってしまわないか、ということである。
 私は、どういう社会になろうとも最後まで、“人の性は元善なり”の『性善説』を信じたい。少なくとも、日本人だけは、「人を見たら泥棒と思え」式にはなってほしくないのだ。
 昔は、よく駅のベンチに荷物を置いたまま、平気でトイレに行ったりしたものだ。空港でもそうだった。たまには心得違いをする人もいるであろうが、99、99%はいい人ばかりだ、まさか人のものをひょいと取っていくようなことはない、と、あのころみんな信じていた。どこかの国のように一瞬のスキもないような国ではなかったはずだ。
 文部科学省が、学校の安全を守るためにということで、校門の 『原則施錠』を打ち出したことがある。あの時、なんと短絡的な考えであろうかと信じられなかった。学校を地域から隔離しようとでもいうのだろうか。
 私は、以前ある中学校の校長をしていたことがある。この中学校には、なんと、こともあろうに、学校の敷地の中を公道が通っていたのだ。それもこっそりとあるのではなく、正門から裏門に抜けて、堂々と通る公道なのである。時折自動車やバイクまで通り抜けていた。
 「あまりにも不用心である」ということで、物議をかもしたことがある。でも、私は、それでいいではないかと思って、なんの手も打たなかった。なぜなら、この道は地域の人にとって誠に便利な道だからである。「三角形の二辺の和は他の一辺より大なり」の法則どおり、この道を通った方が近いし安全なのだ。
 地域の人が、重い荷物を下げて、のんびりとこの道を通り抜けていったり、時には、お年寄りが、築山のようになっているロータリーの石の上に腰をおろして一息いれていたりするのは、なんともいい風景であった。やはりこれは公道のままにしておくべきだと思った。

 もう一つの例がある。私の孫が、滋賀県八日市市の“聖園小学校”という学校に通っていた。この学校の中には公園がある。だから、いつも校門も裏門も開けっ放してある。いやそれどころか裏には門はない。日曜日も授業中もいつも「だれでもどうぞ。」という無防備な状態である。この学校は周囲に田園の広がる平穏な地域なのだ。

 人は、神経質になると、心配はとどまる所を知らなくなるもので、それが怖い。そのうち誰かがこう言い出しかねない。
 「刺股では不十分である、犯人をからめ取るための網を吐き出すようなバズーカ砲がいい、いや校長はいつもピストルを……」
 そして、ついにはアメリカのように銃社会になってしまわないか。

 こういう悪の連鎖を断ち切るのは、人であり人の心である。
 山本周五郎の作品に、『おたふく』という短編がある。自分のことを
「おたふくで、のろまで、気が回らなくて、知恵のない人間」
と信じて疑わない女主人公・おふじは、他人に対してはまったく違う目で見ているのだ。とにかく彼女の目には、「みんないい人」ばかりと映るのである。
 こんな“おふじ”みたいな人ばかりだったらどんなに世の中平和であろうか。 ただ、まだまだ日本人には、“おふじ”の目が見たような人は少なくないはずなのだ。
 私はどんな社会になっても「されど信じよう」の精神で行くつもりでいる。



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