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郷愁

船 万感

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   船 万感


 今までは船の大きさについてはあまり関心はなかったが、ペリーに興味を持つようになって以来、ペリーの黒船とは一体どれほどの大きさなのか気になりだした。
 とにかく黒船を見た庶民が、「山が動いた」と形容したというのだから、さぞかし大きかったのだろう。同時に、その他の様々な船についても、黒船に比べてどうなのかという視点でみるようになった。
 ペリーの率いる四隻の黒船のうち、旗艦を『サスケハナ』という。この船のトン数は2、450トン。ただ、2、450トンといっただけでは、感覚的につかみにくい。むしろ、その艇の長さでみていった方が分かりやすいかもしれない。 
  サケハナの長さは、全長76メートルである。学校の校舎などと比べてみると、さらに分かりやすい。たとえば、ある中学校の校舎の長さをみてみたら、85メートルであった。ということは、サスケハナは、中学校の校舎一つ分に近いというこ
とになる。相当の大きさであることがわかる。それが海に浮かんでいるのだから、江戸の人々が驚きあきれて、「山が動いた」と形容したのも無理はない。
 
 では、当時の人々が、日常目にしていた日本の船とはどの程度の規模であったのだろうか。“大船”の固有名詞ともなっている“千石船”をみてみよう。
 千石船とは、本来米が“千石積めるほどの大きな船”ということである。歴史の教科書にも出てくる“北前船”(北海道の物産などをを運んだ船)や“菱垣回船”(ひがきかいせん 船の側面に檜などを交差して菱形の垣を作ったためにこの名がある)や“樽回船”(たるかいせん 酒樽を主な積荷としたのでこの名がある)”などをさすのであるが、“弁才船”とも言われていた。
 “一石”の重さは約150kgなので、千石船はその千倍の荷物を積めるということだから、150kg×1000=150、000kg。つまり約150トンということになる。全長は、26~27メートル程度である。
 あらためてサスケハナと比べてみよう。トン数でいえばサスケハナの約16分の1。長さでは約3分の1。いかに黒船が大きく見えたかが分かるというものである。 

  ペリーのサスケハナにひかれて以来、私は何度も、横浜の開港資料館を尋ねている。というのは、そこにサスケハナ号などの精巧な模型が展示されているからである。模型ながらその規模が実感できるのだが、できればその隣に千石船の模型も配
しておけば、もっとよく黒船を実感できるはずなのにと思って見ている。
 実は、ペリーの来航よりも7年前にも、東インド艦隊司令官・ビットルが率いる黒船が、同じ浦賀に来ているのである。この時の船も、全長75メートルで、サスケハナと変わらないものであった。ただ、この時は、浦賀奉行の指示で、ビットルが素直に退去していったので、さして騒ぎにはならなかっただけである。 
 ちなみに、幕末に活躍したかの有名な『咸臨丸』はといえば、625トンで、サスケハナの4分の1にしかすぎない。この船で、勝海舟や福沢諭吉がアメリカに渡って行ったのである。

 咸臨丸には、通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)も乗っていた。土佐の漁師・万次郎は自分の乗っていた漁船が遭難してしまい、アメリカの船に助けられ、アメリカ本土に連れていかれた。この時代のアメリカは捕鯨の最盛期で、500トン級の捕鯨
船が、陸続として日本近海にまで遠征してきて操業していた。そういう船に万次郎は助けられたのである。
 そして、彼は10年後に日本に帰ってきた。一介の漁師にしかすぎなかった万次郎が、幕府によって士分にまで取り立てられたのは、黒船級の外国船がひっきりなしにやって来てそれに対応しなければいけないという時代の要請であった。 
 ついでながら、明治の顕官になった伊藤俊輔(博文)、井上聞太(馨)は、文久3年(1863)に、長州藩の肝いりでイギリスに密航している。伊藤俊輔はこの航海の時には、ものすごい下痢と船酔いのためにほとんど死んでいたという。
 伊藤たちが、イギリスに行っている間に、長州藩は未曾有の苦境に立たされていた。その一つが、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊による長州攻撃である。黒船級の艦船17隻が下関に集結し、砲288門をもって、下関砲台を攻撃し、たったの三日間で完膚なきまでにたたきつぶしてしまった。この事態の起こることを心配した伊藤と井上は、急きょ帰国することになったが、もちろん戦いには間に合わなかった。
 この戦いの後、四国艦隊との講和交渉の正使にたったのが、かの高杉晋作である。通訳として伊藤、井上が当たった。その高杉も上海に渡航した経験を持つ。
 今、船はまったく規模を変えてしまった。黒船に驚いた江戸の人々の想像を遥かに越えて、船舶はどんどん巨大化していった。特に戦争が、その流れを加速させた。
 戦艦“大和”をみよう。
 72、000トン。全長263メートル。まさに鉄の要塞である。
 ところが、“大和”はほとんど実戦で活躍することなく、アメリカ空軍の波状攻撃を受け、鹿児島、坊ノ岬沖の海の藻くずと消えてしまった。だから、“大和”は“無用の長物”ないしは“世界三大ばか”の一つと言われるのだ。ついでに世界三大ばかの他の二つは、“万里の長城”と“ピラミッド”である。この二つと並び称されるとは、“大和”も名誉なことだ。
 実は広島の呉市で、戦艦大和の話を聞いたことがあるのだ。上記のような知識はその時の受け売りである。呉で講演した講師が言っていた。
 「戦後、“大和”は、『第二次大戦の責任の主たる存在』として槍玉に上がり、“無用の長物”とか“世界三大ばか”とか言われてきた。しかし、“大和”は“機械のデパート”であった。つまり、艦には、当時考えうるすべての機械が備っていたのだ。第二次大戦で徹底的に叩きのめされた日本が、戦後驚異的な復興を成し遂げ得たのは、実は“大和”のこの機械、そしてその技術であった。」

 そういえば、戦後のニッポンを支えたのは、まさに「造船」であった。今でこそ日本の造船業は火が消えたようであるが、でも、その技術はいまだ健在なのだ。そして、その技術が、世界最大級の大型客船・サファイア・プリンセスを生んだ。
 11万6千トン。全長290メートル。
 トン数は、サスケハナの約50倍。長さは、例の中学校の校舎の約3、4倍。何という大きさであろう。こんなにでかい船が海に浮かぶとは。
 いつか、横浜に入港していたクイーン・エリザベスⅡを見たことがある。
 ある日、たまには港に出て海でも見ながら昼食を取ろうと、横浜の日本大通りから、大桟橋の方に曲がった。と、小さな建物の後ろに、見たこともない巨大なビルが建っていた。「あれ、こんな所にいつこんな大きなビルが建ったのかな」と思っ
てよく見てみたら、なんとそれがクイーン・エリザベスⅡであった。私は、この船が、横浜港に入港しているのを知らなかったのだ。
 70、327トン、全長294メートル。とにかくその大きさ、というよりもその高さにおどろいてしまった。まさ“山”であり、マンモスビルであった。
 しかし、これでも総トン数でいえば、サファイア・プリンセスにはるかに及ばない。あきれるほかない。こうみてくれば、日本の造船業はまだまだすごいのである。
 
 とにかく、私は、最近は船を見るたびに、つい「あの船は何トンだろう?」などと思ってしまう。そして、いつも基準にしているのが黒船である。沖を行く漁船も港に係留されている商船も、あるいは小さなボートでさえも。
 
 ところで、このような文章を書いていると、いかにも私は、船については見るのも乗るのも好きなような印象を与えるかもしれないが、船は乗るものではない。
 伊藤俊輔ではないが、私も、船には何度か煮え湯を飲まされている。沖を行く船を港でゆっくりと眺めていれば、情緒纏綿(てんめん)であるが、いったん乗ろうものなら、そんな情緒はすべて吹き飛んでしまう。「退職金をはたいて、豪華客船で世界
一周の旅をしたい」などという人がいるが、私は、まっぴらご免被る。たとえサファイア・プリンセスのような豪華客船でも結構。
 私が「ご免被る」原因は、中学校1年生の時の房州・鋸山への遠足に始まる。この遠足では、横須賀の久里浜(ここもペリーゆかりの地である)から房州・金谷まで船に乗った。今のフェリーのような上等なものではない。多分ごく普通の漁船であったろう。その小さな船に200人の生徒が乗った。
 初めこそ、船縁から手を伸ばすと海水がつかめる、などといって、はしゃいでいたが、船酔いはすぐやってきた。金谷についた時は、完全に参っていた。顔は蒼白で、死人のようだったはずだ。先生は「すぐ直るよ」と言ってくれたが、結局直らなかった。その日一日の、なんと気分の悪いこと。もちろん母親が作ってくれた弁当も食べなかったはずだ。
 
 それから、20数年後、八丈島に旅行に行った。その帰りのことである。八丈航路であるから、乗った船は相当でかいフェリーであったが、それにもかかわらず、八丈島を出るや、激しい揺れがきた。震度7の揺れである。とても立っていられない。嘔吐(おうと)するために、トイレに行こうとしたが、体は、右に揺れ左に傾いて、そのたびに通路の壁に体を支えなければなかなかった。「なぜ帰りも飛行機にしなかったのか」とひどく後悔したものである。
 伊藤俊輔は、イギリス行の時に「こんなにひどいのなら死んだ方がいい」と言ったそうだが、私もこの時「もう二度と船になど乗るものか」と思った。
 でも、その後も何度か船に乗らざるを得ない状況に出くわした。ただ、隠岐や佐渡への時などは、すっかり用心深くなっていて、最初から船底で寝てしまった。
 稚内から利尻への旅はまずまずの方だったが、これとても、「いつ酔いだすか」と心配しながらだから、遠く海上にそびえる利尻富士も、ただ呆然と眺めていただけだった。 
 船というものは、いったん酔いだしたらもう陸に上がるまでは生きた心地がなくなってしまうものだ。まるで“陸(おか)に上がったカッパ”の心境である。飛行機もそうだが、どうも大地に足がついていないものはいけない。
 やはり、船は眺めるにしかずである。

 みかんの花が 咲いている 黒い煙を はきながら
 思い出の道 丘の道 お船はどこへ 行くのでしょう
 遥かに見える 青い海 波に揺られて 島のかげ
 お船が遠く かすんでる 汽笛がぼうと 鳴りました
(みかんの花咲く丘 加藤省吾 作詞)

   船 よもやま
 
 『遣唐使船』 ~東シナ海の荒海を、学問のため文化伝来のため活躍~
150トン程度か 24~25m程度か (まったく資料が残っていない)
 630年から15回の航海。そのうち、無事に中国にたどり着けたり日本に帰着できたりしたのはわずかである。概ね3,4隻で船出したが、「そのうちの一隻が中国にたどり着けば」と考えていたふしがあるから随分乱暴な旅である。もっとも有名な話に、僧・鑑真の例がある。12年間6度にわたる苦難のすえ、やっと日本にたどり着いたが、彼の目はめしいていた。

 『ビクトリア号』 ~16世紀スペインの帆船~
  170トン 25、9m
 16世紀のスペインといえば、まさに無敵艦隊を擁した栄光の国である。ビクトリア号は、マゼラン艦隊の一つとして、歴史上初の世界一周航海を成し遂げた船だ。3年間の航海の後、280人いた乗組員中、無事スペインの港に生還したのはたったの18名。これも千石船と同程度だ。

 『千歳丸』 ~幕府が上海に派遣した3本マストの機帆船~
 385トン
 どういうわけか、長州の高杉晋作もこの船に乗って上海に行っている。晋作は上海でのみやげとしてピストルを買ってきて、後にそれを坂本龍馬に譲った。幕府の放った刺客が寺田屋を襲った時、龍馬はこのピストルで難をのがれた。

 『開陽丸』 ~幕府がオランダから求めた軍艦~
  2、590トン 72、8メートル 機帆船
 鳥羽伏見の戦いで、15代将軍・徳川慶喜は、薩長が“錦旗”を掲げているのを見て、形成不利と判断し、部隊を残したまま大阪城からコッソリ抜け出し、この船に乗って江戸に逃げ帰った。その後、彼はひたすら恭順を貫く。榎本武揚が、北海
道共和国を構想し、幕府軍(?)とともに函館五稜郭に行った時の船がこの開陽丸。

 『氷川丸』 ~数奇な運命をたどった豪華客船~
  12、000トン
 この船は、横浜のドックで昭和5年に完成。当時日本が世界に誇った大型豪華客船である。サンフランシスコ航路、イチローで有名はシアトル航路を取っていた。
 日本郵船のドル箱航路で、山本五十六やかの喜劇王・チャプリンも乗ったそうだ。戦時中は軍に徴収され病院船として、ミッドウエイ海戦などに出て、負傷兵の治療などに活躍。そして、戦後は大陸からの引上げ船として活躍し、大勢の引上げ者を
日本本土に運んだ。今、横浜港で余生を観光のために送っているが、いつ行っても見学している人は少ない。

 『第五福竜丸』 ~ビキニ環礁で被爆しすでに50年~
  140トン 28、5m 23人乗り
 静岡焼津の遠洋まぐろ漁船。1954年、マーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカの原爆実験のために被爆し、乗組員の久保山さんが死亡。これも千石船規模である。
 港に係留してある小さな漁船、たとえばテレビの『ダッシュ村』で、長瀬が乗っている船などは、概ね5トン程度。

 『日本丸』 ~海洋実習のための練習船~
 2、500トン 110m
  横浜MM21に係留されている4本マストの帆船。帆船はみな美しく海の“貴婦人”であるが、帆をいつもたたんでいるので、貴婦人の雰囲気はない。時々、新聞で帆を張る様子が報道されるが、皆さんボランティアの素人のはずなのに、たいし
た熟練で船員もどき。
 
 『空母・キティーホーク』 ~厚木基地には馴染みであった米軍空母~
  81、000トン 318m
アメリカの空母は現在12隻。そのうちキティーホークのような通常型空母(ディーゼル)は2隻のみ。遠からずすべて原子力空母になってしまうのだ。
 いずれにしても、すさまじい騒音で綾瀬はいい迷惑をしている。キティーホークが中東に行くとか、インド洋の津波被害の救援に行くとか聞くと、ほっとする。
 とにかく、その艇の長さたるや想像もできないほどの318メートル。もし私が甲板を駆けたら、半分もいかないで倒れてしまうだろう。敵と戦う以前に、その長さにやられてしまう。戦艦『大和』のようなものだ。
 そして、その乗員はなんと5、000人余乗り、綾瀬市の全人口の6、3%。
 それにしても、空母から艦載機は直接飛び立てないということを知らなかった。
 艦載機の離陸訓練は、空母が大島沖に出て、22~23ノットのスピードで航行している時に、その風を利用し揚力を得、始めて飛び立てるのだという。
 現在厚木基地には原子力空母のジョージワシントンが配備されている。



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