源氏物語

源氏物語たより264

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   末摘花は脇役か  源氏物語たより264

 朝日カルチャーセンターの源氏物語の講座を受けている。講師は早稲田大学の福家俊幸教授。『蓬生』の巻を「なるべく原文を味わいながら鑑賞する」そうである。
 「蓬生」の巻は、光源氏が須磨・明石の流謫生活から京に復帰した後、源氏にすっかり忘れ去られていた末摘花が、再び源氏に見だされ、生活の糧を得るようになる顛末を描いた巻である。

 さて、講師は講義が始まるや、開口一番
 「末摘花は、紫上や藤壺宮のような物語の主役ではありませんが」
と話し始め、黒板に大きく『脇役』と書かれた。私は講義の早々から
 「あれ?末摘花は脇役なのだろうか?」
という疑問にさらされることになってしまった。確かに紫上や藤壺宮に比べれば物語の上での存在感は薄い。しかし、わざわざ『末摘花』『蓬生』の二巻にまで主人公として登場させ、さらにその後もしばしば顔を出させているのは、紫式部にそれなりの意図があったからだ。少なくともその他大勢の有象無象ではない。
 
 考えてみると、紫上は確かに物語全体を通じての主役であるし、それは誰もが疑わないことなのだが、彼女の存在感も意外に薄い。彼女は藤壺の形代でしかないし、自らの意志で行動することのできない、いわば源氏の愛玩物みたいな存在であるのだ。主役ではないとは言えないものの、末摘花とどれだけの違いがあるのだろうか、怪しいものである。

 それは源氏物語の主題をどう捉えるかに大きくかかわってくることである。源氏物語の主題を「これ!」と定めることは難しい。しかし、本居宣長が言っているように『もののあはれ』がその一つであることに間違いはないし、源氏物語を何度も読んでいるうちに、やはりこの『もののあはれ』こそ、最も大きな主題であろうと思われてくるのだ。

 「あはれ」をどう捉えるかも簡単なことではない。ここでは詳説は省くが、私は端的に言えば、
 「変化するものに対する、人がしみじみ感じる情」
と捉えている。
 その中でも最も「あはれ」を感じるのが「恋」である。なぜ恋なのか。それは恋ほど変わりやすいものはないからである。古今集にしても新古今集にしても、その多くを恋の歌で占めているのは、恋は一瞬一瞬変化してやまないからで、そこに限りない情趣を味わうことができるからだ。変化するものに対して人は激しく心を揺すられる。特に王朝の世界に生きた人々は恋に身を焦がした。彼ら(彼女ら)は、そこから変化の相を追求しようとしたのだ。源氏がなぜあれほど恋の遍歴をしたのかはもう言うまでもあるまい。

 自然もまた日々変化してやまないものである。先の二集でも自然の変化に対する感懐の歌で大分が占められている。天然現象の中でも、月があれほど何度も何度も描かれるのは、月は満ち欠けしてやまないからだ。
 源氏が六条院の庭園の造作に当たって、あれほど心を尽くしたのも、やはり変わりゆくものの情趣を味わいたかったからだ。また多くの女性方に味わわせたかったからだ。

 さて、それでは末摘花はこの面でどうして「主役」たりえるのか。
 源氏は、彼女に逢うまでは、「宮様の娘、琴を良くする女性」という鳴り物入りで大輔の命婦に紹介された当座は、まだ見ぬ恋に千々に心を乱したことであろう。ここまでは彼女はまさに男に恋される主役であった。
 ところが、例の雪の朝、そのあさましいほどの容姿を源氏にしかと見られてしまって以来、源氏の恋の対象からは遠のいていった。

 しかし、それでもこの『蓬生』の巻をはじめ、その後の物語にもしばしば彼女は登場してくる。もっとも源氏の蔑(さげす)み、嘲笑の対象としてではあるが。夕顔は死んで姿を消し、空蝉は夫について任国に去って消えて行ったのに、彼女はあの雪の日をもっても消えてしまうことはなかった。
 そこには、彼女を消すことができない何か重大な意味が、あるからだ。それは何だろうか。結論から言ってしまおう。それは彼女が
 「変化することを拒んで、シーラカンスのような古体な生き方をする人物」
だからだ。それは物語の主題につながる重大な要素なのだ。つまり、「あはれ」とは対極にある彼女の「古体(変化しないこと)」を対比して置くことで、「あはれ」そのものがいやがうえにもクローズアップされるということである。その意味で彼女は間違いなく立派な「シテ」なのである。

 それでは「蓬生」の巻で、彼女の古体な姿のいくつかを見てみよう。
 彼女は、常陸宮が大層かしずいてきた姫君である。ところがその父親が亡くなってしまい、彼女には何一つとして生活の手段がなくなってしまった。まことに不如意な状態に置かれたのである。
 (講師は、「それでも十人くらいの女房はいたのではないか」と言っていられたが、物語からもそう見える。それにしてもその他の下人もいたのだろうから、彼女の生活はどうやって成り立っていたのだろうか、不思議である。宮家としての年金でも出たものか、あるいはわずかの荘園でも所有していたものか)
 源氏が通うようになって、とにかく生活の心配はなくなったのだが、源氏が去ってしまっては、また元の木阿弥である。源氏が復帰して京に帰ったというのに、すっかり忘れられてしまって、貧窮は以前にも増した。衣食に事欠き、廊下の屋根は崩れ、下屋の屋根は骨のみわずかに残り、築地塀は倒れ伏すという有様である。
 そこに眼を付けた成金受領は、この家の立派な樹木を目当てに土地を売れ、とせがむ。女房たちはあまりの貧窮に困じ果て、
 『さやうにせさせ給うひね。いとかうもの恐ろしからぬ住ひにおぼし移ろはむ』
と勧める。また、立派な家具・調度も、由緒を辿る連中に狙われる。女房たちがまた言う。
 『立ち止まりさぶらふ人も、いと耐へがたし』
 すると、源氏には「む、む」としかものも言えなかった末摘花が、敢然としてこう言うのだ。
 『あな、いみじや。人の聞き思はむこともあり。(自分が)生ける世に、しか(そのように親の)名残りなきわざはいかがせん。かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、「親の御影止まりたる(残っている)心地する古き住処」と思ふに。(それに)慰みてこそあれ』
 また、家具・調度についても、昂然と言い切る。
 「親が私のために作っておいてくれたものだ。どうして縁もゆかりもない軽々しい者の家の飾りになどできようか。それでは親の本意に悖(もと)ることになってしまうではないか」

 まして、彼女は最近の女性が好んですることなどには一切目もくれない。そして
 『うるはしくぞ、ものし給ひける』
ばかりなのである。「うるはし」とは、「乱れたところがなく、きりっとしていること」で、通常褒め言葉なのだが、彼女に限っては、
 「乱れたるところなく、いかにも几帳面である(が、風情も趣味も欠けて)いられる」(岩波書店 日本古典文学大系)
のである。
 彼女の兄は僧都になっているが、これが末摘花に輪をかけた古体な人物で、彼女の家の物は、横のものを縦にもしないときている。家が崩れようが、蓬が生え登ろうが、葎が門を閉じようがまったく関心がない。

 「あはれ」は、ものことが変化する時に人の心をしみじみと揺する風情である。変化しないものには「凄い!」「あっぱれ!」「見事!」などというという感慨はあったとしても、「しみじみ」とした情は生まれない。
 古今集の恋の歌を見ても、全てが変化する相を詠ったもので、恋の喜びや不変の愛の讃歌などは一つとしてない。すべて恋の
 「嘆き、悲しみ、苦しみ、不安、心配、怖れ、疑い、不信、愚痴、自嘲、悔恨・・」
ばかりである。せいぜい「あいなだのみ」があるくらいだ。
 そのいくつかを上げてみよう。
『いで我を人な咎(とが)めそ 大船のゆたのたゆたにもの思ふころ』
 (ゆらゆらして落ち着かない恋心、「どうしてそんなにそわそわ」など言わないで)
『恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿(ゆうつけ)鳥は鳴かずもあらなむ』
 (逢っていても不安。次にいつ逢えるものやら。夜よ明けないで)
『吹きまよふ野風を寒み 秋萩の移りもゆかな人の心の』
 (相手の心変わりはまるで秋萩のよう)

 そもそも平穏無事の恋や恋の成就や永遠の恋などには何の面白味(あはれ)もない。

 光源氏が末摘花を侮り蔑んだのは、彼女の容姿に対してではない。古体を尊んで、一向に変わろうとしない頑なさに対してである。恋などとは全く対極にある末摘花のいわば反面教師として、彼女は立派な主役を演じているのである。


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