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郷愁

おそそも湧いて

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     おそそも湧いて

 『ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯』

 この俳句は、だれあろう、山頭火の句であ。山口県湯田温泉の小さな公園にこの碑がある。私も見た。地元では、時々この碑が物議をかもすのだそうだ。おそらく「文化都市であり、歴史の都市である山口ともあろうものが、“ちんぽこ”だ、“おそそ”だとは何事であるか。山口の品位にかかわる」というような物議であろう。
 もしそうだとすれば、ずいぶん気の小さな感情論だな、と思う。山頭火というすばらしい俳人を輩出した山口、ということだけでも十分自慢の種ではないか。その山頭火が、歴史的温泉地である湯田を、少々風変わりではあるが、湯田温泉の風情を歌にして残してくれているのだ。これほどすばらしいことがあろうか。

 山頭火は、言うまでもなく放浪の旅の俳人である。旅するものにとって、“風呂”とか“湯”とかいうものがいかなる意味を持つか、それは計り知れないものだ。
 我々でさえ、旅をしていると、宿に入るなり、たいして汗をかいてもいないのに、「じゃあ、ひとっ風呂浴びて汗でも流してくるか」と言う。やはりまずは「汗を流したい」のだ。まして、日々旅に明け、旅に暮れる人にとっては、風呂や湯ほどありがたいものはない。
 山頭火は、汽車でも行けるのに、わざわざ足に任せて旅をすることが多く、乞食をして回った。そんな彼にとって湯はこの上ないぜいたくだ。
 とりわけ、湯田の温泉は、湯量もたっぷりだ。一日の疲れや憂さや雑念を、すっかり癒してくれる。
 見渡せば、皆だれもかれも、体には一物もつけていない、裸、裸である。その人たちのどこもかしこをも、溢れる湯がたっぷりと浸している。ちんぽこやおそそも勿論だ。彼にとっては、湧いてくる湯に浸っているのは、別に身体のどこでもよかったのだ。そんなことには超然としているのが山頭火だ。
 もしこれを、「太もももおへそも湧いて…」などとしたらどうだろう。誰も碑にしようなどとは考えないはずだ。

 山頭火は、湯田だけでなく、いたるところで湯を歌っている。“酒”と“湯”と“水”は、旅の俳人・山頭火からは不即不離のものである。
 彼の歌で湯の意味を探ってみよう。
 『分け入っても分け入って青い山』
と、毎日毎日山河を歩き続け、
 『炎天を抱いて乞い歩く』
のだ。 そして、宿に入って、湯をいただく。
 『一人さみしさが温泉にひたりて秋の夜』
を味わい、時には、
 『ずんぶり湯のなかの顔と顔笑う』
 湯の温かさと人の温かさにふれることで、旅の厳しさを拭い、「明日もまた歩き続けよう」という新たな気分が湧いてくる。
 後は、酒を飲み、熟睡するばかり。
 『ふとんふうわりふるさとの夢』
 翌朝、朝風呂に行くと何人かの旅人も入っている。
 『朝湯こんこんとあふれるまんなかのわたし』

 旅の歌人は多い。「日々旅にして旅を栖」とした芭蕉の『奥の細道』には温泉や湯がどのように出てくるのだろうかと見てみた。何か所かあるにはあるが、どちからといえば、飯坂温泉での文のように、
 『温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかる…』
とそっけない。
 奥の細道の旅も終わりに近い山中温泉では、その効能を歌にしている。
 「温泉に浴す。その効能有明(有間温泉のこと)に次ぐと言う。
 『山中や菊はたおらぬ湯の匂』
 (菊の花には長寿延命の効能があるが、わざわざその菊を手折らなくとも、効験あらたかな湯の匂いがたっぷりとしているではないか、との意)」
 ここの湯がすっかり気に入ったのか、10日間も滞在している。山中温泉を去る時、
 『湯の名残今宵は肌も寒からむ』(『奥の細道』にはない)
と詠んでいる。

 ところで、私は、残念ながら大風呂はあまり好きではない。どんなに効験あらたかな名湯でもだめだ。もちろん大勢入っている場合のことで、大きな温泉の浴槽に一人で入っている時は、「ああ、温泉っていいな!」とは思う。
 ところが、大勢入っているとどうも落ち着かない。“ちんぽこ”が気になるからである。風呂ぐらいは、「大きいの」「小さいの」と人との比較では入りたくない。それでは、せっかく休まるべき心も休まらない。
 室尾犀星の『夜までは』という詩をご存じだろうか。

 男というもの 
 みんな ぶらんこ ぶらんこ お下げになり
 知らん顔して歩いていらっしゃる
 えらいひとも
 えらくないひとも
 やはり お下げになっていらっしゃる
 恥かしくも なんともないらしい
 お天気はよいし あたたかい日
 ぶらんこさんは 包まれて
 包まれた上に また包まれて
 平気で何食わぬ顔で 歩いていらっしゃる
 お尋ねしますが あなた様は 今日は
 何方で 誰方にお逢いになりました
 街には はるかぜ ぶらんこさんは
 上機嫌で 歌ってらっしゃる

 でも、これは着物を着ているからいいのです。風呂に入れば、「みなさん ぶらんこ ぶらんこお下げにな」ってはいるが、それぞれものが違う。そのことで、自尊心を傷つけられたりすることもあろう。風呂は、心身のリフレッシュの場だ。そもそも“ゆったり”と入るから“湯”と言う。それを、そわそわ他人を気にしていたのでは、かえってストレスがたまってしまう。
 そんなところが、私を大風呂から遠ざけさせている理由である。
 もちろん自宅で入る風呂はこよなく好きだ。風呂で演歌などをよく歌うが、我ながら感心するほど声がいい。これをこそ至福の時というのであろう。

 そのようなことで、私の場合は、旅での風呂といえば、風呂場からの眺めのよいところに限られる。「絶景!絶景!」と言えるところでないと風呂の醍醐味はわからない。
 鹿児島の錦江湾を一望にした簡保の宿、七尾湾に昇る朝日を見ながら入った輪倉温泉、鬼怒川の上流で星を見ながらの湯西川温泉の露天風呂、湯ぶねまで雪の迫っている乳頭温泉の露天風呂、岩木山の全貌を眺めながらの白濁の湯・岳温泉、噴煙を目の前にして入った混浴の湯・昭和新山温泉、知床の『北こぶし」という宿の八階の浴場から眺めた知床連山、…など、私の印象に残っている温泉は、いずれも温泉そのものよりも、それを取り巻く景観が見事な所ばかりである。

 最後に、全国を行脚しては名句を残した会津八一の歌もあげておこう。別府の湯に入った時の歌だ。
 『いかしゆの あふるるなかに もろあしを ゆたけくのべて ものおもいもなし』
 (効験あらたかな湯がこんこんと湧き出る中に、両の足をのびのびと伸ばし、ゆったりと浸っていると、もう一切の雑念など思い浮かぶ余地もない、の意。) これほど温泉をゆったりと堪能している歌も少ない。“もろあしをゆたけくのべて”とは、湯に入ることの無上の喜びと言えるだろう。私も風景だけでなくそんな湯を経験してみることにしよう。


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