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源氏物語

源氏物語たより265

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   綱手かなしも  源氏物語たより265

 『世の中よ常にもがもな 渚漕ぐ海士の小舟の綱手かなしも』

 この歌は百人一首にもある源実朝の歌である。歌の主旨は「この世が常住不変であればいいのになあ」ということである。しかしそうはいかない。なぜなら、渚を行く舟を引く綱手のように常に不安定に変化してやまないのがこの世なのだから。
 この歌で現代人にはどうも理解し難いのは、「綱手」という言葉である。別にこの縄を「綱手縄」といい、船を引っ張る縄のことである。海(あるいは川)を航行する船を多くの人々が陸で引っ張り進ませるものである。現代ではまず見ることがなくなってしまった事象であるから、分かりにくい。
 ロシア民謡の『ボルガの舟歌』と同じではないかと思われるが、疑問点も多い。ボルガの舟歌の歌詞は
 「えいこら、えいこら もひとつえいこら それ曳け舟を それ巻け綱を」
というようなもので、これはボルガ川を多くの人夫が、綱を肩にかけて大船を曳いている情景を詠ったものだ。イリア・レーピンの絵でその様子がよく分かる。

 それにしても、こんな景が日本にもあったのだろうか、以前から疑問に思っていた。
 実朝の歌は「海士の小舟」だから、一人か二人で曳いているものであろう。どちらかと言えば、陸に小舟を引き上げている程度の規模を想像させる。これではさしてもの思いをさせるものにはならないし、まして「かなしい」情などが呼び起こされることはない。無常を覚えさせるためには、ある程度の時間と空間が必要であるし、綱も一定の長さがなければ不安定感は出てこない。

 実は源氏物語『須磨』の巻にもこの「綱手」が登場するのだ。
 かつて光源氏が情を交わしたことのある五節は、父親が太宰大弐となったことで一緒に筑紫に下っていたのだが、父の任が解けて、上京することになった。彼らは瀬戸内海を船で難波へと向かっていた。その途中須磨に源氏がわび住まいをしていると聞いて、五節の心は騒ぐ。
 『まして五節の君は、綱手引き過ぎるも口惜しきに、琴の声はるかに聞こゆるに。』
という心境なのである。琴は源氏が弾いているのだ。彼女は忍び難くて、源氏に歌を送る。
 『琴の音に引き止めらるる綱手縄 たゆたふ心君知るらめや』
 (あなたの弾く琴の美しい音に思わず引き留められてしまいました。船を曳く綱手縄のように、あなたのことを思って、ゆらゆら彷徨(さまよ)い乱れている私の心をお分かりでしょうか)
 これに対して源氏は
 『心ありて引き手の綱のたゆたはば うち過ぎましや 須磨のうら波』
 「私を思う気持ちがあって、引き手縄のように心も不安定に乱れているというのだったら、この須磨の浦を素通りしてしまうようなことがあるだろうか」と皮肉っぽく詠い返したのである。
 いずれの歌にも「綱手縄」が詠い込まれている。「たゆたふ」とは、「ゆらゆらと揺れ動く」「心が動いて決心がつかない」ことである。それはあたかも「綱手縄」のように揺れて安定しないのである。これについて、角川書店の『源氏物語評釈』に参考になる説明があったので、引用させてもらおう。
 「『綱手縄』、船を引くための縄。船は右におも舵をとってゆかなくては引かれて岸に接触する。岸は直線とは限らないから、しじゅう舵を切ってゆかなければならず、舵を切れば舟はゆらゆらする。引く綱もゆらゆらする。『綱手縄』は「たゆたふ」の序」
 なるほど、よくわかる。要するに「おも舵は船首を右に向ける時の舵の切り方で、逆を「取り舵」というのだが、岸で船を引っ張ると船は岸へ岸へと寄ってきてしまう。そこで岸に寄らないようにしじゅう舵を右に向けていなければならないということだ。そのために船はもとより綱もゆらゆら揺れて定まらないということである。

 ところで、五節の歌は古今集から引いた本歌取りである。
 『いで我を人な咎めそ 大船のゆたのたゆたにもの思ふころぞ」
 (もう誰も私を咎めないでください。海を行く大船のように恋のためにゆらゆら揺れて定まらないこのごろの私なのですから)
 「ゆたのたゆた」という造語はまさに揺れ動く女心(男?)を表わしていて絶妙である。五節は、本心それほど源氏のために心揺れていたのかは、怪しい。源氏の歌ではないが、それなら必ず舟を下りて、須磨の浦で「いさりせん」と思うはずである。 
 さて、二人の歌は、もちろん須磨の浦を綱手縄に引かれて船が航行する実景を詠ったものではない。作歌のために綱手縄を借りたものにすぎない。そもそも瀬戸内海を船に綱を付けて引いていくことなどあり得ないことだ。瀬戸内海の海岸の状況がどのようなものかはわからないが、すくなくとも岸で船を引くためには、海岸線が平坦であり直線でなければならないからだ。大勢の人夫が綱を引くことができるほどに足元が安定していなければならないのだ。岩場はもちろん駄目だし、傾斜のある陸地もダメだ。そのためには、砂浜でなければならないということになると、そんな条件のそろったところはないはずだ。
 つまり「綱手縄」は現実には存在するものでなく、歌の序となるものに過ぎないのではなかろうか。

 と、そんなふうに思っていたら、何と『土佐日記』に本物の「綱手縄」が出て来てしまった。
 紀貫之が、土佐守の任果てて、京に上る時に、高知から、室戸崎、日和佐、鳴門、淡路島、そして紀淡海峡を渡って、岸和田方面へ向かった時である。
 『けふは箱の浦というところより綱手引きてゆく』
とあるではないか。箱の浦は岸和田よりやや西の和泉灘に面したところである。ここから、「綱手」を引いて航行して行ったというのだ。この船には何人が乗っていたかは書かれていないが、貫之の家族や供人みんなが乗っていたので、相当大型の船のはずである。それを岸から綱で引いて行ったという。ただどこまで綱手であったかは書かれていない。その日は
 『にはかに風波高ければ、留まりぬ』
とあり、綱手の歌が一首載っているだけだ。それにしてもこれだけの証拠が挙がってしまったのでは、「現実には「綱手縄」などない」とは言えなくなってしまった。箱の崎あたりの海岸がどうなっているのか知りたいところである。
 (『一遍上人絵伝』には六人で舟を引いている絵がある)
 
 ところで、冒頭に上げた実朝の歌は、実景ではない。京都書房の『評解 小倉百人一首』には
 「おそらく鎌倉あたりの海辺で目にしたであろう実景の、大洋に対する一筋の縄のはかなさに感じる無情なものへの詠嘆であろう」
とあるのだが、鎌倉の海岸で船を引くとは考えられない。もし綱手を引くとしたら、腰越あたりから稲村ヶ崎まで、そこからまた由比ヶ浜までということになるのだろうが、綱を装着したり外したり,人夫ぞろえをしたりで、かえって時間がかかってしまう。櫂で漕いだ方がはるかに速い。
 それに源実朝という人は、他人の歌を徹底的に借りて来る人だ。この歌もなんと二つの歌からかき集めて作っている。人の歌をちぎってはつなぎ合わせ、ちぎってはつなぎ合わせるのが彼の得意技なのだ。実景であるはずはない。
 しかし、実朝の歌が、私の素朴な疑問を生みその疑問を追及し、ようやくそれを解くもとになったのだから、「実景」云々はさて置き、実朝に感謝しなければならない。


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