源氏物語

源氏物語たより266

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   神の定めし浮気  源氏物語たより266

 須磨から急遽明石に移った光源氏には、気にかかることがある。それは、ここ明石に導いてくれた明石入道には、大切に育ててきた美しい娘がいるということである。
 入道はこの娘を何とか源氏に娶せたいと願っているようだ。彼は、一門の繁栄を娘に託して長年住吉神社に願掛けもしてきている。いい加減な男と結婚させるわけにはいかない。そんな気持ちを源氏にそれとなくほのめかす。源氏自身も
 『さるべきちぎりあるにや』
と思う。明石に移ったのも、神、仏の啓示であるし、桐壺院が夢に現れて、「須磨を去れ」と、源氏に命じたさとしもある。この娘とは「さるべき契りがある」と思うのも至極当然のことである。

 しかし、やはり気になることは都の評判である。
 『かう身を沈めたるほどは、行ひよりほかの事は思はじ。都の人もただなるよりは、言いしに違ふ、と思さんも心恥づかし』
と気になるので、入道のほのめかしにはなかなか乗れない。罪ある身として須磨、明石と流れてきたのに、その地で女にうつつを抜かすのでは、「言っていることとやっていることが違っているではないか」という評判も立つだろう。特に紫上の思惑が気がかりである。何しろ、別れに当たって彼女にこんな歌を残してきたのだから。
 『身はかくて流離(さすら)へぬとも 君が辺り去らぬ鏡の影は離れじ』
 「どんなになろうとも、私の影(魂)はあなたの傍を離れることはありませんよ」というあの誓いが、源氏には強い楔(くさび)になっている。 
 そこで、仏道のこと以外には心を煩わせまいと殊勝に決意するのだ。

 ところが、そう健気に決意する一方、娘の気立てや容姿がなかなかよいと聞くと、やはり平静ではいられない。
 『ゆかしう思されぬにしもあらず』
なのである。「ゆかしう」とは、「見たい知りたい」という心である。「・・にしもあらず」が源氏の揺れる心を表わしていて、可笑しい。
 「ゆかしい」気持ちを我慢するというのは、源氏の御本性からすれば極めて忍耐のいることである。なにしろ「女遠き一人寝は習わぬ」育ちであり、習慣であるのだから。

 そんな煮え切らない源氏の様子に入道はイライラして、「仏、神をいよいよ念じたてまつる」のである。でも、入道がいくらイライラしても、源氏は娘とすぐ契りを結んでしまうわけにはいかない。

 この事態を打開する手段はただ一つである。源氏自身の意志で決めたことではないとすることである。つまり外からの圧力が必要だということ、そうならざるを得ない状況を作り上げるということである。その力としては神、仏こそ最適である。
 『明石』の巻に、神や仏、あるいは夢のお告げが頻出するのはそのためである。

 それでは、もう一度振り返ってみよう。源氏を明石に導いたのは、源氏の場合は、得体のしれない嵐と桐壺院の夢のお告げであったし、入道の場合は
 『いぬる朔日(ついたち)の夢に、様異なるものの、告げ知らせること侍りしかば、』
だったのである。明石に移ったのがそもそも源氏の意志からではないのだ。それに明石入道は、娘が源氏のような高貴な男と結ばれることを、長年にわたって住吉の神に祈って来たのである。二人が結ばれないのは、それは神の意志に反することになる。

 これはずっと後に判明することで、ここに上げるのは相応しくないことかもしれないが、実は、この娘(明石君)の誕生に際して、入道は壮大な夢をみ、それを遺言のようにして伝える場面があるのだ。
 「あなたがお生まれになろうとしたその年、私は夢を見た。それは、私自身が右手に須弥山を捧げ、その山の左右から月、日の光りが明るくさし出でて、世界を照らしていた。・・やがてその山を広い海に浮かべて、私は小さい船に乗って、西に向かって漕いで行く」
という夢見であった。「須弥山」とは、仏教の世界観にあるもので、世界の中心にそびえたつ高山であるそうだ。その頂上には帝釈天が住むという。それを手に捧げ持ち、やがて海に浮かべたというのだ。この夢が何を表わしているのかは定かではないが、いずれにしても、雄渾、壮大な夢で、この夢の後生まれてくる子は只者ではない。
とすれば、この娘を平凡な男に娶せることなどできようか。相手になれるのは、世に稀なる男であり、世の中心になる人物でなければならない。それは源氏を置いてないということに帰着する。
 この夢見を明石君に伝えたのは、源氏との間に姫君が生まれ、やがてこの姫君が東宮に入内し、皇子をもうけた時だ。長年の念願がかなって打ち明けたることにしたのだ。
 つまり、明石君が生まれる前から、源氏との関係は宿命付けられていたというのだ。

 源氏は、後に朱雀院の愛娘・女三宮と結婚することになる。この時も、結婚は源氏の意志ではなかった、朱雀院のたっての望みであって、源氏が否応できる筋のものではなかった、というように描かれている。

 この神・仏の啓示や夢のお告げや院の思し召しなどに彩られた二つの結婚は、一体何を表わしているのだろうか。
 これについては、源氏がいかんともしがたい宿命であった以上、紫上の心を破ったことにはならないのだから、それは紫上の救いに繋がるのだと説く人が多い。
 しかしそんなに大仰に解釈すべきものだろうか。私はもっと単純なことだと思っている。つまり源氏が自分自身を納得させるための方便に過ぎないということである。彼の紫上に対するやましさは、一通りではなかった。
 初めて明石君に逢いに行く時も、馬に乗りながら、「この馬でそのまま紫上のいる京に飛んで行きたい」などと詠っている。良心の咎めが疼いていた証拠だ。神や仏や夢見を出すことで、それを畏れ多くも「心の鬼」の捨て所としたのだ。源氏の咎めが、神・仏・夢を生み出したということである。
 後に源氏から、明石君と契ったことを打ち明けられた時、紫上は、流謫の身にありながら、他の女に
 「心を分け給うよ」
と嘆く場面がある。つまり紫上にとっては神も仏も夢見も何の救いになっていないということだ。それは全て、源氏の自慰意識がなせるわざであったのだ。



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