源氏物語

源氏物語たより12

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 妻と私の源平盛衰記 源氏物語とはず語り12

 昨夜は、寝床に横になりながら、1時近くまで妻としゃべり込んでしまった。妻が、『平家物語』を無事読了ということで、おそらく気持ちが昂ぶり、いろいろ話でもしたいだろうと、それを慮って夜更かしした。


 「何か面白い話、あった?」
 しかし、彼女の話は、思い余ってか、断片的で脈絡がなく、あっちに行ったりこっちに行ったりする。大原富江の『建礼門院左京太夫』、田辺聖子の『文車日記』、太陽社発行の『平家物語絵巻』なども合わせて読んでいたから、それも当然である。
 「高倉天皇は、平清盛の娘・徳子よりも、美貌の小督局(おごうのつぼね)を寵愛したの。みもごってしまった小督局は、清盛の怒りを恐れて、嵐山の渡月橋のあたりに隠れて、そこで女の子を生むのよ」
 「あれ?高倉天皇って、6歳か7歳で壇ノ浦で死んでしまったのではなかったっけ。それでも美女を寵愛するなんてこと、したの。」
 「あら、それは、安徳天皇でしょ。梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱の宇治川の先陣争いは、木曽義仲と戦った時のことなのね。平敦盛を討った時の熊谷直実、可哀そう。」
 そして突然
 「敦盛って誰の子でしたっけ?」
 「そんなこと、俺に聞くな。(どうせ聞かれても分からない)」
 「祇王、妓女って姉妹だったかしら、親子だったかしら?」
 「そんなこと、おれに聞くな」
 「平重衡は、東大寺や興福寺を焼き討ちしたでしょ。ということは、興福寺の五重塔などはいつ建ったのかしら?」
 「そんなこと、オレに聞くな。そもそも東大寺の大仏だっていつ建ったのか分からないのだぞ、大仏は座ったままだ、って話があるだろう」
 両者とも、話はあちらに飛びこちらに彷徨う。それに、私が「大仏は立ったことがない」などとちゃちを入れるものだから、平家方は混乱の極みに陥ってしまう。
 
 東大寺と聞いてまた私のちゃちが入った。
 「奈良仏教の南都六宗に対して、新しい宗教を起こした最澄は比叡山に天台宗延暦寺を、空海は高野山に真言宗金剛峰寺を建てた。天台宗は釈迦如来が崇拝の対象で、もともと密教的な思想はなかったのだけれど、南都との宗論において密教的な考えを取り入れざるを得なくなった。そこで、真言密教を天台の中に統合したってわけ。つまり、“草木国土悉皆(しっかい)成仏”の思想ってやつさ。
 釈迦如来で止まってしまえば、所詮人間が中心で、せいぜい動物や昆虫などの生命あるものだけが仏性を宿すということに限定されてしまう。ところが、密教の思想を入れることで、無機質の土も山も川も岩も、森羅万象すべてに仏性が宿るという思想に至ることができた。
 そして自然が豊かであればあるほど、そこに摩訶不思議な力をもつ神々や仏がより多く存在するということになる。そこで人間(じんかん)を離れて、比叡山や高野山のような深山幽谷のただなかに寺を建てたわけ。この段階で天台密教はすべてのものに神が宿るという思想の神道と融合することになった。(以上は梅原猛の受け売り)
 たとえばあの酒井阿闍梨さ。彼が比叡山で千日回峰をやっている時の姿をテレビで見たろう。杖一本で薄暗い比叡山を飛鳥のように走り回っていた。あれは自然の中に宿る神・仏を体しているからこそ可能な荒行なのだ
 最澄の弟子・慈覚大師は、芭蕉の奥の細道で有名な山寺や下北の恐山などに寺を建てた。山寺は『岩に巌(いわお)を重ね』と奥の細道にあるように、まことに険しいところなのよ。なぜそのような厳しい自然の中に寺を建てたか。仏教興隆のためにはかえって不便さ。でもそれは自然との一体化を求めた結果だ。・・・」
 「スースースー」
 安らかな寝息が聞こえてきたと思ったら、平家方は、源氏の長広舌に眠りに落ちていた。

 それでも、妻は、面白いいくつものエピソードを語ってくれた。
 たとえば、宇治川の先陣争い。
 宇治川のあの激しい流れを渡りきるには、優秀な馬が必要であった。佐々木高綱と梶原景季は、頼朝の所有の名馬“生数奇(いけづき)”をどうしても手に入れたかった。ところが、どういうわけか頼朝は、佐々木高綱に生数奇を与えてしまった。先陣争いは、結局高綱の奸計もあって、景季が負けてしまう。
 「実はね、佐々木さんは、『もし争いに負けた時には死ぬ』って頼朝に誓っていたんだって。戦いの裏でも佐々木さんの“手段を選ばず”の思いがあったってことね」
 「“佐々木さん”とはずいぶん気安いね。どこの佐々木さんだ。娘の家も佐々木さんだよ」

 平維盛の話もよかった。
 「殺し殺されるという世界に嫌気がさした維盛は、平家方の大将であるにもかかわらず、屋島の戦場から戦線離脱し、主従三人で高野山に向かってしまったの。ここであの横笛との恋に破れて人生をはかなんで出家していた滝口入道に会うのよ。この滝口入道の導きにより、三人とも出家してしまうわけ。さらに維盛主従は、南紀の熊野三山に参拝後、紀州の濱から船出し、入水して果てちゃうんだものね。」
 「あ、そうか。昨年従妹会で行った時、青岸渡寺ってあったろ。あの寺こそ西方浄土を目指して箱舟に乗って、船出するところだ。箱舟は蓋をして釘付けにしてしまうから、もちろん死は覚悟の船出だ。“補陀落渡海”っていうそうだ。維盛もそうだったのか。」
 「平家物語を読んでいると。みんな死んじゃうんだから、悲しいわ。木曽義仲は琵琶湖に近い粟田口の田んぼの中。あの豪傑が、田んぼの中で死んじゃうんだものね。敦盛も安徳天皇も・・。安徳天皇は二位の尼に抱かれて
 『海の中にも都は候ぞ』
って言われて死んでいくのね。7歳よ。
 逗子に行った時に“六代御前”の墓ってあったでしょ。六代御前って維盛の子供で、清盛のひ孫なのね。最初は許されたのだけど、結局鎌倉幕府に引き出されて、あそこで首を刎ねられたんだって。平家最後の生き残りってことらしいわ」
 「滅びこそが平家物語の中心思想だものな。全ては冒頭の『祇園精舎の鐘の音』に帰結するわけだ」

 源氏物語も、一見華やかなみやびの世界を描いているようで、実は彼らの思考の底を常に流れていたのは、“移りゆくもの”であり“滅び”であり“死””である。あと数十年後に末法の世がやってくるというのだ。源氏物話には死の場面が実に多い。
 光源氏の最愛の妻・紫上が死に臨んでいた時、源氏が詠った歌
 『ともすれば消えを争う萩の露 遅れ先立つほども経ずがな』
 (萩の葉に置いた露は、ともすれば争うように風に吹かれては消え、日に当たっては消えていく。人もそれと同じで、先に死ぬか後に逝くかの違いでしかない。あなたが亡くなってほどもなく、私もあなたのところに逝くのだよ、)
はかなさは、平家の世も源氏物語の世も変わらない。

 ところで、ここのところ源氏方は、腰を痛めたり血圧が上がったりで意気が上がらない。平家方が堂堂たる行軍をしているというのに、なんとも頼りない有様である。庭の手入れも満足にできずに、平家方に手伝ってもらったりしている。 
 でも、そのおかげもあって、我が家の庭も大分見るに堪えるものになってきた。
 平安貴族の庭園に模して、“前栽”などを作って、家の真ん中の部屋の前にある前栽を“寝殿の前栽”などと命名したり、西側の部屋の前にももう一つの前栽があってこれを“西の対の前栽”などと名付けて得意になっていたのに、特に西の対の前栽は手入れが行き届かず、大きな夏みかんの木の下に野草がパラりとしか植えられていず、その真中が空間になっている。内心、この真ん中に平家の君を立たせておけばいい、まさに“日陰の花”だなどと思っているのだから情けない。平家に負けまいといういじましい考えだ。
 でもまあまあの庭にはなっている。玄関から松の木のある築山(もどき)までの小道などは“哲学の小径”と名付けている。京都の庭園がそうであるように、ここを苔で満たそうとしているのだが、何せ7,8歩で尽きてしまうような小径なので、ものを考えている暇もない。
 平安の上級貴族の庭園は、おおむね一ヘクタールもあって、寝殿の前には大きな池があり、ここに龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の舟を浮かべて管弦などの宴を催した。
 平安貴族には及びもつかない我が家の庭ながら、今後も、二人して、庭でも眺めながら、源氏を語り平家を語りしていければいいのだが、と思っている。
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